野呂芳男<書評>フェレー『キリストとキリスト者』(1962)  Home  >   Archive  /  biblio


独創的なフェレーの主著
<書評>N・フェレー著、緒方純雄訳『キリストとキリスト者』新教出版社

 野呂芳男

  初出:『興文』1962年2月号、日本基督教協議会・文書事業部、11頁


 同志社大学の緒方純雄教授によって、フェレー教授の主著の一つが、今度このように読みやすい日本語に訳されたことは、非常に喜ばしい。フェレー教授は、もっと早くから、日本の神学界に紹介されて、大いに読まれなければならなかった神学者である。スウェーデン系統のアメリカの神学者であって、アメリカでは、ポール・ティリックやラインホールド・ニーバーとともに、非常に高くその思想的独創性を評価されている。現在、アンドーヴァー・ニュートン神学校で、組織神学を教えている。

 フェレーの神学的立場は、しばしば、新自由主義という名称で呼ばれるが、これは実相に触れている、とわたしは思う。彼は、根本主義者のようには、聖書の一字一句にとらわれない。聖書の使信が、神のアガペーを伝えることにある、という点に堅く立っているので、その他の点に関しては、きわめて自由である。たとえば、この書物の中で、フェレーは、処女降誕の伝統的な形での教理が、イエス・キリストの、われわれとの人間としての同一性を破って、受肉という神のアガペーの行為を、破壊するものであるとみなして、それを否定している。また、伝統的な形でのキリストの無罪性の教理も、同じ理由から否定しているが、これなどは、フェレーの立場をよく表現している。中心的な神のアガペーに堅く立っているから、これほどまでに、大胆であり自由であり得るわけである。

 贖罪論においても、フェレーは大胆に自由である。人間の側に立つイエス・キリストが、神の刑罰を他の人々の身代りになって受けたり、他の人々の代りに服従を捧げたりすることによって、神の人間に対する態度を変えることができた、というような発想方法を、神のアガペーに反するものとして捨てている。むしろ、イエス・キリストにおいて、神御自身が人間の罪のために、苦しみを背負って下さったという事実が、フェレーにとっては、贖罪論の意味内容である。

 この書物の読後、わたしの心に浮んできた三つの疑問を書いてみよう。第一は、イエスの人間性が、伝統的な教理の主張するようには、普遍的な人間性でないことを、強く説くフェレーは、どのようにイエスの人間性とわれわれとの間の連結を考えているのだろうか。イエスという、わたしと本質的に関係のない過去の一人物において、神が死と罪と恵みとに勝利を得たとしても、それがわたしと何の関係をもっているのか、という疑問が当然起るだろう。第二は、フェレーの贖罪論と神観とについての疑問である。わたしの記憶に間違いがなければ、『悪とキリスト教信仰』の中で、フェレーは、神の不受苦性を肯定していたはずである。贖罪を書くにあたって、彼は神の苦しみにその意味を認めたわけであるが、フェレーは、この神の苦しみと、前に主張した不受苦性を、どのように関係づけようとしているのだろうか。第三は、フェレーの普遍的救いの思想である。神のアガペーの徹底は、誰もかれもがついには救われるという思想にまで展開するとフェレーは考えているが、はたしてそうだろうか。結局これは決定論ではないだろうか。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.7