野呂芳男<書評>藤倉恒雄『諸宗教の対話の土台としてのティリッヒ神学』(1992)  Home  >   Archive  /  biblio


諸宗教との対話の土台としてのティリッヒ神学
<書評> 藤倉恒雄著『ティリッヒの神と諸宗教』新教出版社、1992年

 野呂芳男

 初出『本のひろば』1992年5月号、(財)キリスト教文書センター、8−9頁


 著者藤倉氏は現在、日本聖公会北関東教区所属の司祭である。関西学院大学大学院で哲学専攻の博士課程を経て、アメリカの聖公会神学校やボストン大学神学部で研究され、帰国後は司祭として働いてこられたが、終始一貫ティリッヒ神学を研究されてきたようである。既に幾つかの著者や翻訳書によって学会に知られた方であるが、1988年に『ティリッヒの《組織神学》研究』(新教出版社)を世に問われて、そのティリッヒへの深い理解と傾倒振りを公にされた。この書物の継続とも言えるものが、書評の対象となっているものである。藤倉氏のティリッヒへの傾倒が、聖公会の司祭としての氏の実存にも由来することは、本書の235頁あたりで、ティリッヒ神学をプロテスタント原理と聖典的、カトリック的実体の総合として理解し、この神学のそのような性格を(氏の実存を賭けたもの
として)強調していることからも明瞭である。本書を書いた意図は序文の中で述べられているが、前著で十分に紹介出来なかったティリッヒの諸宗教に対する理解や、彼にとってキリスト教を宣教するとはどういうことなのかを、彼の神概念を中心にまとめることである。

 本書は五章より成り、第一章「ドイツ古典哲学の影響下におけるティリッヒの神概念の形成」では、ティリッヒの神学がおもにシェリングの影響下に成立したものであることが語られ、第二章「聖書的宗教と存在論の総合としての神学」では、聖書の人格神と哲学的な存在論とは、相矛盾すると屡々言われるが、本来矛盾するものではない、というティリッヒの主張が紹介される。第三章「ティリッヒ神学の規範としての〈新しい存在〉」では、ティリッヒの主張である、キリストとしてのイエスに表わされた「新しい存在」という概念こそ、聖書の人格神中心の宗教と存在論の総合を具体的に表現したもので、これこそが「霊(性)の宗教」であるとされ、この「霊の宗教」が、第四章「ティリッヒの普遍主義的神学とその革新」において描かれている、キリスト教と世界の諸宗教との対話の基礎を成すものである。第五章「具体的な神的霊性の宗教」では、「神的霊性の宗教」は、諸宗教との対話の中で新しい神学を作って行くに当たって、われわれにその方向を指示してくれるものであるが、このティリッヒの宗教はまさにシェリングの哲学的宗教の独自な発展的
展開である、という藤倉氏の主張が語られる。別の区別をすれば、第一章、第二章が、ティリッヒの神概念、第四章、第五章が諸宗教との対話、第三章が両者を繋ぐ、ともなろうか。

 既に述べたところより明らかであると思うが、著者は、『組織神学』第三巻頃より始められたティリッヒの新たな模索も、実はそれまでの神学形成と同じくシェリングの哲学的宗教の発展であると執物なまでに主張し、終始一貫ティリッヒとシェリングとの思想的一致を強調する。そのために、ティリッヒに対する宗教史学派、特にトレルチの影響や、表現主義などの芸術運動の影響、バルト神学の陣営との対決などが、一応触れられてはいるが、十分には叙述されていない。頁数の関係もあって仕方がなかったのかもしれないが、残念である。批判しなければならないとすれば、以上の点ぐらいであろうが、逆にこの点は、この書物を推薦したい特徴でもある。これ程にティリッヒ神学とシェリングとの緊密な関係を深く掘り下げた書物は珍しい。著者が哲学を専攻した時期があったことが、幸いしているのかも知れない。

 著者が的確に掴んだティリッヒの考えによると、キリスト教を他の諸宗教の完成であるとする所謂完成理論は捨てられねばならない。キリスト教という宗教をも越えた、神的霊の宗教が提唱されるのである。つまり、あらゆる宗教の目的がこの神的霊の宗教なのであり、この霊性は「新しい存在」なのである。そうすると、確かにこの霊性は他宗教は勿論のこと、欠点を多々持つキリスト教という教会の目指すべき目的ともなり、あらゆる宗教を越えたものではあるが、同時にそのままキリスト教の宣教内容なのである。実は、これで良いのかどうかが、今世界の神学界で問題にされているのであるから、著者にはいつの日にか、この問題を論じて貰いたい。この書物をティリッヒ神学を紹介した好著として、推薦したい。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.7