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ホーム・ページを開くにあたって


野呂芳男




 ホーム・ページを開いてはどうかという勧めがあった。インターネットとはおよそ縁のない私は、戸惑いながらも、一体どのような奇特な方々が、およそ思想の世界の片隅に――-ゲーテの言う「やらずもがなの神学」を研究する――小さくなって生きている神学者の思想を、覗いて下さるのだろうかという不思議な好奇心が湧いてきた。およそ金儲けには役に立たない事柄ばかりを、自分の宿命として研究してきた人間なのだから、そんな私の思想に好奇の目を向けて下さる方々には十分にお答えしなければ申し訳がない、と思うようになった。

 この機会に、神学者としての自分が辿ってきた道が、どの様なものであったかを紹介しておいた方が、読んで下さる方々にとっては便利かもしれない。私は1925年に、江戸の職人気質が残り、江戸時代より続いた民衆宗教を心から信じている人々が多かった、東京下町の深川で生まれた。ちなみに私の生家は、下町の洋食屋「松鶴亭」であった。深川区立東川小学校から、芥川龍之介の母校でもある東京都立第三中学校(当時)――現在の両国高校――に入り、そこを四年で切り上げて、慶應義塾大学法学部予科に入学した。当時の三中が、軍国主義的色彩を強くしてきたことからの逃避だった。慶應義塾には今でも愛着を覚えている。教会との関係は、私が16歳の時に洗礼を受けた時から正式のものとなったが、それ以前もその後も、自分の生きる意味を見つけるのにとても苦労し悩んだ。

 とにかく、私が洗礼を受けたのが紀元節の当日(2月11日--現在の建国記念日)であったことから想像していただけるだろうが、キリスト教会も他の宗教団体と同じように、軍国主義を支援する側に立ってしまっていた。私自身は、敗戦の年の2月に徴兵され、自分の家から離れることになった。そして敗戦である。日本の何もかもが変わってしまった。私の身辺も激変した。戦時中にも神学を勉強し牧師になりたかった私は、戦後すぐにそれが--東京大空襲によって、生家も、家族のほぼ全員も消滅してしまったために--実現できるようになっている自分の状況を発見したのである。私は躊躇することなく、東京神学大学の前身である日本キリスト教神学専門学校に編入学を願い出、幸い許された。

 神学校に入ったからと言って、自分の生きる意味がすぐに見つかった訳ではない。そんなときに私の心を揺さぶったのが、ドストエフスキーを初めとする実存主義的作家たちの小説であった。サルトル・カミュ・カフカなど、そして日本では、椎名麟三などの作品に私はのめり込んでいった。これらの作家たちが私に、後の実存主義哲学や実存論的神学を受け入れる下地を作ってくれたのだ。



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 これ以降の私については、このホームページの中で知って下さるようにお願いします。では、今はこれで失礼します。

 最後に、ホームページ開設を勧めてくださった岩田成就さんに感謝します。彼は、私がかって立教大学文学部キリスト教学科で教えていた頃の学生であり、既に幾つかの優れた神学に関する学術論文の著者でもあります。岩田さんの他にも、山田香里さんたちがこの試みを手助けして下さるようなので、私は少々照れております。山田さんも既に、幾つかの立派なキリスト教美術関係の論文を世に問うている学者です。









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