ユダヤ・キリスト教史 1997.12.16


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第30回 ――終末論的実存              (1997.12.16)


野呂芳男







 これまでは信仰の外、あるいは、信仰に入る前の人間の在り方を、ブルトマンがそのパウロ理解からどのように考えているかを述べたのであるが、それではブルトマンは信仰の中にある人間の在り方をどのように考えたのだろうか。それも彼のパウロ理解を中心にして述べてみると、信仰の前あるいは外の人間の在り方とは逆に、それは目で見たり、手で触れたり、計量できたりして人間が確かめることのできるものに頼らない生活なのである。つまり、人間が自分で支配できるものに依存しない生活、従って、自分が築くことのできる安全性を捨てた生活なのであり、これがパウロの言う霊に従う生活であり、信仰者の存在の在り方なのである。

 具体的には、目に見えない現実(神)が、未来から(現在に生きている私たちに)愛として出会って下さることに賭けた生活であり、私たちの過去――それは、このような愛への裏切りや、隣人への思いやりのなさで重たく私たちにのしかかっているのだが――の罪を赦して、私たちを過去の重荷から解放し、未来の中に勇気に満ちて歩みゆくことを神が可能にしてくれる生活である。未来は、私たちが自分で作る安全性ではとても太刀打ちできないけれども、信じる者にとっては、神の愛の導きの中に飛び込んでゆくに過ぎないのだ。信仰とは、私たちが未来に向かって開かれていること(「?コリント」1:8−10、「ローマ書」4:16−18)なのである。

 パウロにはまだ、この世の終末がこれから起こるという、間近な終末への期待が消えてはいないことをブルトマンは認める。しかし、彼によると、パウロは例えば「?コリント」7:29−40に見られるように、「・・・ある者はないもののように」生きることを勧めて、既にその人には、終末が来てしまっており、終末の中に入り込んでしまった人間がこの世でどのように生きたら良いかを教えている。つまり、パウロの考えでは、信者には終末が既に来てしまっている。故に、これからの終末を期待することは、信者にとっては実質的に意味がなくなってしまっているのだ、とブルトマンは言う。

 既に救われて終末後の世界に生きる信者は、ブルトマンのパウロ理解によると、これから救われようとして律法を守る必要がないが故に、グノーシス信者と同じく律法からは自由である。しかし、グノーシスの信者が律法からの自由を放縦と理解しているのに対して、パウロは、その自由は自分を救って下さったキリストのためのもの(「?コリント」6:12−20、9:19−23、「?コリント」12:9−10)であるとする。

 このような信仰者の在り方(実存)をブルトマンは終末論的実存(eschatologishe Existenz)と言い、パウロが言う「新しく造られた者」(「?コリント」5:17)とはこのような実存のことだとする。「新しく造られた者」にとっては、イエスがもたらそうとされた終末の神の恵みが現実に体験されているのだから、グノーシス神話や黙示文学的終末論は実質的には意味を持たないものとして、克服されてしまっているのだ。







 「ヨハネ福音書」では、この傾向は更に徹底されている、とブルトマンは主張する。終末の時に行なわれることが期待されている世に対する神の裁きは、イエスの到来によって既に行なわれてしまった(「ヨハネ福音書」3:16−21、9:39、12:31−33)。イエスを信じない者は、そのことで既に(終末の時の)神の裁きを受けてしまっているのだから、これからの神の裁きなどは存在しないのである。また、ブルトマンの理解する「ヨハネ福音書」では、イエスを信じる者は既に(終末の後に期待されていた)永遠の命の中に入ってしまっているのだ(「ヨハネ福音書」5:24)。




 これまでに説明したブルトマンの考え方に対して、つまり、イエスの期待していたすぐに来るはずの終末――それは天変地異を伴い、天よりの「人の子」の降臨を含んでいた――が、パウロとヨハネによって実質的には克服されているという考えに対して、それが信仰的にはどのような意味を持つのかを知りたい人々も出てくるだろう。先ず言われなければならないことは、イエスが本当に人間であったが故に、イエスの考えた終末の具体相が(当時の民衆の間で噂され、描き出されていたイメージによって影響されたものであり)神の御心とは違いがあった事実であろう。神にとっては、イエスが人々への愛を貫いてくれて、神が人々の心の中に「神の国」を実現するのに都合のよい行動を取ってくれれば、それで十分であり、有り難かったのだろう。たまたまイエスは、終末を早めるための祈りの行動として、人々に当時のユダヤ教の在り方が神を裏切るものであることを示すために、当時のユダヤ教を自分の死をもって批判しようとした。そして、イエスは事実、批判したために十字架刑によって殺された。その事情を見極めて、神はイエスを復活させたばかりか、そのイエスの十字架を土台とした新しい人間との関係を、つまり、人々の心の中に「神の国」を造るような関係を打ち立てる決心をされた、と私は信じている。神の自由な、創意工夫に満ちた決断と、イエスの自由な決断とが、見事な実を結んだのがパウロやヨハネのキリスト教なのだ。




→この頁の頭

←前の頁 次の頁→




入力:平岡広志
2003.4.11