ユダヤ・キリスト教史 1997.12.9


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第29回 ――非終末論化と非神話化              (1997.12.9)


野呂芳男







 シュヴァイツァーの徹底的終末論をその大筋において受け入れてしまうと、キリスト教の考え方は次の三通りしかなくなるだろう。非終末論化の道と非神話化の道とキリスト教神秘主義の道である。

 非終末論化の道はシュヴァイツァー自身や、彼の思想並びに(アフリカでの医者として、また、伝道者としての)生涯に深く感動して、その跡を慕う人々が歩いている道であるが、学問的にはスイスのベルン大学が中心となってきた。マーチン・ヴェルナー(Martin Werner)は教会史の面で、フリッツ・ブーリ(Fritz Buri)は(哲学者ヤスパースの思想を取入れた)宗教哲学の面で、(シュヴァイツァーの方法論である)非終末論化を押し進めたと言える。非終末論化というのは、この世がすぐに終わると信じていたイエスの世界や歴史に関する信念は、今日の歴史や世界に関する考え方としてはもはや受け入れることができないが故に、終末論を捨てて、そのような考えや信念の中で信じ行動したイエスの生き方だけを、私たちが自分のものとすれば事足りるというものである。

 シュヴァイツァー自身は、非終末論化によって「生命の畏敬」(veneratio vitae)という思想に到達したが、それは二つの要素から成立っていた。一つは、イエス自身がこの地上に神の国が(神の力によって)到来することを信じ、また、その到来を促進するために命を投げ出し(英雄的な死を遂げ)たように、私たちも直面する現実が(愛と正義の行なわれる)神の国の到来を私たちに全く絶望視させるようなものであったとしても、尚もその到来を信じ抜くこと、そして、その到来を促進するために愛と正義を実践することである。もう一つは、イエスが、すぐ間近な神の国の到来を前提にして人々に要求した倫理は(人間がその中で生きている、人々や環境のしがらみを考慮しなかった、一種の理想の倫理たる)中間理論であって、そのまま今日の私たちの現実に当てはめることができないが故に、私たちはそのような中間倫理を、今の生きている環境や人々との関係の中に妥協させて、しかも最大限に中間倫理に近い生活を送らねばならないことになる。

 このような倫理は、私たち一人一人が自分の生きている状況の中にどのように当てはめたらよいかを、いつも創意工夫しなければならない倫理であるから、いわゆる「状況倫理」(situation ethics)である。しかも自分が一つ一つの状況に入るまでは、どのように行動したら良いかを前もって理解できないのが、シュヴァイツァーの状況倫理であって、彼は状況の前や外で倫理の原理原則を打ち立てることを極端に嫌った。その上に、彼は人間と動物と植物などの、命あるものの貴重さを段階づけることも拒否した。つまり、人間の命の方が動物よりも、動物の命の方が植物よりも大切であるなどと、前もって決めることをせずに、今私たちが投げ込まれた状況の中で、どうしたら世界の中に現れている命を最大限に大切にできるかを考えねばならないと、彼は主張したのである。

非終末論化の結果シュヴァイツァーが提唱する「生命の畏敬」には、多くを教えられるけれども、やはりキリスト教としては私にはこの教えは物足りない。この教えは、結局はイエスに倣えということであって、愛も正義もイエスのようには実行できていない自分を振り返ると、私はとてもこの教えでは救われそもうない。キリスト教信仰は、私が今イエス・キリストと関係を持つということだと思うのだが、シュヴァイツァーの「生命の畏敬」は過去のイエスに倣おうとすることであり、これは信仰というよりは一種の哲学である。それに彼のような極端な「状況倫理」にも私はついて行けない。基本的には人間の方が動物よりも大切だとか、人を殺すことは悪だとか、状況に入る前に行動の大きな枠組みを持っていて悪いはずはない。状況に入ってでは、(急速に展開する状況について行けず)判断が間に合わないこともあるからだ。







 「新約聖書と神話」(1941年)以来、この論文の著者ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)が提唱した「非神話化論」は、今日まで新約聖書研究の話題の中心となってきた。この方法論と非終末論化との違いは、非終末論化がイエスの終末期待は今日の私たちにとって(過去の世界観であって)何の意味もないものと考えて、これを単に捨ててしまうのに対して、非神話化論はイエスの期待した世の終わりという(今日の私たちから見ると)神話としか言いようのないものの中に、捨ててはならない(神からのメッセージたる)ケリュグマが存在すると主張するのである。(最近日本では、ケリュグマを「使信」と訳すのが一般的なので、これからは私もそのようにしていくつもりである)。つまり非神話化の方法論は、新約聖書の神話の中に横たわっている使信を、今日の私たちの言語の中に移植して、表現しなおそうとする試みなのだ。

 ブルトマンによると、新約聖書は主に二つの種類の神話によってその中心まで浸透されている書物なのであるけれども、それらの神話とは、一つは私たちがシュヴァイツァーなどによって知らされた黙示文学的終末論であり、もう一つは(既に勉強してきたように、イエスの時代のユダヤ教にも大きな影響を与えていたヘレニズムの宗教や文化、特にその)グノーシスの救済神話であった。横の直線で描かれるような歴史がすぐと断ち切られてしまうという黙示文学的神話に対して、グノーシスの救済神話は縦の直線で描かれるようなところがある。すなわち、その神話では、私たちがその中で生きている現実は三階建ての家に喩えることができるようなもので、垂直に上から、神や天使たちが住む天、私たちが住む地上、悪霊たちが住む地下の世界で構成されているのだ。そして、地上には神の介入があり、また、地下世界の悪霊たちもこの地上で活躍している。だが、これら二つの神話は共に、地上の人間たちは悪霊やサタンの支配を受けており、その支配からの救済を求めているとする点で共通性がある。しかも、人間は自分の力ではその救済を達成することができないために、神の介入が要求されているとする点でも、二つの神話は共通しているのである。そして、黙示文学的終末論が終末の時に「人の子」の降臨を希求したように、グノーシスの救済神話では、天の、神の住む光の世界から「神の子」が人間の姿をとって地上に下りてきて、神が定めた生を送り、選ばれた人々に(魂の生まれ故郷である)天の国へ帰れる道、すなわち、真の知識(グノーシス)を与えるものと信じられていたのである。

 ブルトマンは、今日の私たちが航空機に乗り、テレビを観、電話などの近代的なコミュニケーションの手段を使いながら、これらの神話が伝えているような非科学的な歴史や世界に関する考え方を採用して生きる訳にはいかないと主張する。フリードリヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)などはブルトマンに賛成して、もしも今日の教会が信者に、これらの非現実的な歴史や世界についての考え方を受け入れるのがキリスト教信仰であるとして、その受け入れを強要するならば、その時に教会は、日常生活では現代科学を受け入れ、教会生活では非現実的な世界や歴史の見方をしなければならない人間を、つまり、信仰と日常生活が互いに反発しあう、分裂症的人間を作ることになるのだ、と言う。私もゴーガルテンに賛成なのであり、既に4月から6月にかけての講義の中で、とりわけ18世紀のキリスト教こそが科学的合理性と信仰の調和を求めたものとして高く評価した。

 従ってブルトマンは、グノーシスの三階建ての家のような世界や、歴史がすぐと神の介入によって終わるというような現代科学では到底受け入れられない考え方を(シュヴァイツァーと同じように)捨てるのである。しかし彼は(シュヴァイツァーと違って)赤ちゃんの体を洗ったタライの水を捨てる時に、赤ちゃんも捨ててしまうようなことは避けようとする。神話の中に包まれている使信(ケリュグマ、メッセージ)は捨てずに、これを現代の言語で発音し直そうとする。

 ブルトマンのやった事を私なりの表現でお伝えしよう。「マタイによる福音書」14:22−33には、舟が波によって安定性を失い困っている弟子たちのところへ、海の上を歩いてイエスがやって来るという話が載せられている。この物語は、人間が水の上を歩けることなど――何か特別な仕掛けでもしない限り――今の科学的常識では不可能なのであるから、古代の神顕現である英雄物語によく出てくるものであって、ブルトマンの言う神話に属する。今日の私たちの常識と違うが故に、この物語全体を意味のないものとして捨て去ることもできる。しかし、波に揺れる舟の中の弟子たちを、今日の私たちが日常生活の中で、どのように対処したらよいのか分からない事柄にぶつかり、生きることの恐怖にさいなまれている姿と考え始めると、この物語は意味を持ち始めてくる。心の波が立ち騒いで、落ち着きをなくし、思い煩いににっちもさっちも行かなくなってしまっている私たちの心の中に、イエスがその波の上を歩いて近づいて来て下さる。イエスにおいて表されている神の愛を信じるなら、人生の荒波を乗り切ってゆけるのである。これがブルトマンの言う使信なのであり、非神話化という作業は、この信仰的真理を、古びた、奇跡で一杯の世界の考え方から、現代の私たちの言語の中に移植することなのである。

 この物語の中でペテロは、イエスのところまで水の上を歩いて近づいて行こうとするのであるが、イエスに目を注いでいる限りは水の上を歩けたけれども、足下の波が心配になって下を向いてしまい、それと同時に水に沈んでしまった。これもまた、人間の生き方を表すものと考えれば、今日の私たちにも通用する重要な真理であるが、ブルトマンはこのような人間の生き方、自分に向こう側から出会ってくる現実に対し、人間がどのような生きる姿勢を示すかが、宗教神話の中で示されているものだとする。この、神話の定義とも言うべきものは、宗教史学派に属するブルトマンが、ハンス・ヨナス(Hans Jonas)などの宗教学者たちが言うところに従って私たちに示しているものであって、ブルトマン独特の定義ではない。







 非神話化という作業を経た後の、ブルトマンが示してくれるキリスト教の姿は、驚く程に深くパウロを理解したものである。ヨハネ文書(「黙示録」は入らない)も、パウロの思想を受け継ぎ、延長したものとして、ブルトマンによって取り扱われている。

 先ずブルトマンは、信仰とは無縁である人々の生き方を語るが、そのためにパウロが彼の手紙の中で使った幾つかの言葉を取り上げる。この「世」(「ガラテヤ書」1:4など多数)については、パウロはグノーシスと同じく悪霊の支配下にあるとするが、人間はこの世の奴隷なのである。しかし、グノーシスが物質そのものを悪霊的なものとしているのに対して、パウロにはそのような考えがない。従って、グノーシスでは、元来善である人間の魂が悪の体に閉じ込められていると考えるのであるが、パウロでは、精神も肉体も神によって造られたものであり、悪霊の人間に対する支配が制限されている。グノーシスでは、人間は否応なしに体を持っている限り悪の存在なのだが、パウロでは人間は、その精神で悪に同意しない限り罪を犯さない。

 グノーシスでは罪と死は物質に由来するが、パウロではアダムの罪に由来する(「ローマ書」5:12以下)。これとの関連でブルトマンが特別に注意している訳ではないけれども、勿論、アダムの罪に由来すると言っても、パウロに後の時代の考え方、つまり、アダムが罪を犯したために、アダムの子孫たちにその罪の性質が伝わっていって、全ての人間が生まれながらにして罪人であるという原罪説を押しつけてはいけない。だが、ここではパウロは、アダム一人の罪によって全ての人が死に支配されるようになったと発言することによって、グノーシスの運命論に近づいていることをブルトマンも認めているけれども、しかし、パウロはまたすぐと、全ての人が罪を犯すことによって死に支配されるに至ったとし(「ローマ書」5:12)、死も人間が選ぶ可能性であるとすることによって、グノーシスの運命論から離れてしまっている、とする。

 更に、ブルトマンによると、グノーシスと違って運命論がパウロにないことは、パウロが「肉」という言葉をどのように使ったかを見れば分かるのである(「ローマ書」8:13、「ガラテヤ書」6:8)。「肉」によってパウロが意味したものは、グノーシスが悪とした体のことではなく、現実の中の、手で触れることのできるもの、目で見たり計量できたりするものに頼って生きようとする人間の生き方なのである。例えば、財産とか世間での名声とか、健康とか、快楽とかのようなものに自分の人生の意味を見いだすような人間存在のあり方なのである。そしてパウロにとっては、律法を守って生きる生き方も、肉によって生きていることであった(「ガラテヤ書」3:1−5、「ピリピ書」3:2−9)。律法を守ることは、パウロにとって結局は、自分が目で確かめることのできるものに頼って生きることであったからであろう。

 人間の生活は、元来が不確かで不安なものである。そのために、人間は確かめ得るものに頼ろうとするのだろうが、このような肉に依存した生活を送っていると、いつの間にか人間は、自分の安全を保証してくれると思っているものの奴隷となってしまう。これが「この世」の奴隷となることだが、「この世」が自分を支配しているという意識から、悪霊が自分を支配しているという心理状態が生まれてきたのかも知れない、とブルトマンは言う。それに、同じように頼れるものを捜す他の人々と、この生活は当然衝突する。このような生活では、隣人愛どころか、互いに自分にとって頼りになるものを相手から奪い取る戦いが、生存競争が常識となる。




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入力:平岡広志
2003.4.11