ユダヤ・キリスト教史 1997.9.30


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第20回 ――預言者の宗教?イザヤ、エレミヤ      (1997.9.30)


野呂芳男







 「イザヤ書」という個人名を書名としてはいるけれども、この書物の成り立ちは大変に複雑であるようだ。歴史的に分析してみると、どう考えても一人の人物が書いたものとは思えない。そのため、時代も違い、著者あるいは編集者も異なる(言わば雑多な)預言的文章の寄せ集めであるという説まである。しかし、確かにすっきりとまとまっておらず、他の文章が混入したのではないかと疑いを持ちながらも、私は二人の人物の預言がこの書物の骨格をなしているのではないか、と考えざるを得ない。どの章からどの章までがこの二人に帰せられ得るのか、どうもはっきりしないけれども、1〜39章を(エルサレムの、あるいは、第一)イザヤに、40章以降を(無名なので便宜上)第二イザヤ(と呼ばれる著者)に帰する説が有力である。しかし、(大雑把ではっきりしないが)56章以降は、その著者を第三イザヤと呼ぶ説もある。その理由は、エルサレム神殿再建がこれらの章の背景にあるように思えるからである。正直言って、私にはどの説が正しいのか分からないので、エルサレムのイザヤが書いたものに、第二イザヤの書いた預言(恐らく40〜55章)を割り込ませ、その前後に雑多な預言を後代になってから(例えば神殿再建のものなどは56章以降に)追加したものではないか、と考えている。

 第一イザヤ(紀元前740−701)を見ると、大体の構成は1〜5章がイスラエルやユダに対する告発、6章がイザヤに対する神の召命、7〜12章が神による未来の約束、13〜23章がバビロニヤ、エジプトなどの外国に対する預言、24〜39章がユダや諸外国の未来、並びにアッシリヤとバビロニヤの戦争についての預言となっている。これらの章においてイザヤは、アッシリヤに対抗するためにエジプトに頼ってはならない、と言い続けた。イザヤにとっては、ヤーウェの神は単にユダヤ人だけの神ではなく、全世界の神であったが、このようにヤーウェに普遍性がもたらされていることには、特に注意しなければならないだろう。

 第一イザヤの書いたものが名文であることから、彼は学問のある宮廷人であったという説もあるが、王に会うために彼がわざわざ、王が水路の調査に来たところを狙った(7:3)ことなどを見ると、この説は信用できない。宮廷で王に会える人間なら、このようなことはしないからである。また6章から、彼は神殿に関係していた人物との説もあるが、これは単に彼が神殿を愛して、そこでしばしば瞑想に耽っていた事実を物語るに過ぎないだろう。つまり、分かっているのは、彼が教養のある信仰者であったということである。6章における召命の記述から、彼の神は聖なるヤーウェで、アモスやホセアの神よりも、人間から距離を置いている。聖は近づき難く、しかも同時に魅力的なのだ。彼は恐らくその(既にカナン化されていた)神殿への愛や、(ティルスの神殿と同じ)セラフィムによって触れられて感激していることなどから察するに、アモスのようには(カナン化された)神殿を嫌っていなかったのであろう。アモスと同じようにユダヤ人の不正を憎み、神の審判を預言しながらも、二人の信仰的雰囲気は大分異なっている。

 多くの人が、処女によって生まれたイエス・キリストを予言したものと信じてきた所謂「インマヌエル預言」も(7:14以下)、残念ながら「おとめ」と訳されているヘブライ語(‘almah)が、特別に処女を意味するものではなく、若い女性を意味することは、同じ言葉が使われている他の箇所(「創世記」24:43、「出エジプト記」2:8、「詩編」68:25など)と同じである。「インマヌエル」は、註釈者たちが言うように、恐らくはイザヤが自分の第三子につけた名であって、その子をイザヤはアハブ王への神からの徴としたのであろう。







 年代的にはエレミヤ(紀元前626−585)の方が先になるので、第二イザヤについては後で述べることにしよう。エレミヤが預言者として活動し始めた頃は、イスラエル王国が滅びて既に久しく、ユダのヨシヤ王の宗教改革が行なわれたばかりの時であったが、彼はこの宗教改革を皮相的で不十分であると批判し、ユダヤ人たちに自分たちは神によって特別に選ばれた民であることを再認識させようとした。出エジプト、砂漠、カナンの地へと、神の哀れみに支えられながらユダヤ人たちは辿ってきたのに、彼らはその神を裏切ってしまった。その罪に対して、神がユダヤ人たちに刑罰を与えておられるのであって、アッシリヤやバビロニヤは、その神の刑罰の執行者に過ぎない。エレミヤはユダの王エホヤキンにバビロニヤに降伏するように説得したため、周囲の人々から迫害されて投獄され、殺されそうになったりしながらも、預言し続けた。エルサレム滅亡の時、捕囚として数千人がバビロンに連れて行かれたが、エレミヤはバビロニヤで厚遇されるから、その群れと一緒に行くようにとのバビロニヤ側の要請を断り、エルサレムに残った。しかし、エジプトに逃れるユダヤ人の群れによってエレミヤは連れ去られ、エジプトで死んだ。エレミヤは自分の死をも賭して、神の言葉をユダヤ人たちに預言したが、その生き方は今も私たちの感動を誘ってやまない。

 エレミヤは正しい悔い改めをユダヤ人たちに勧めたにも拘らず、彼らが相変わらず神に対して不柔順であったので、エルサレムがバビロニヤによって滅ぼされた方がよいと信じたのだが、しかし、彼はその神の裁きの彼方に、神が新しい契約をユダヤ人たちと結んで下さることを夢見て、希望をユダヤ人たちに与えようとした。神がユダヤ人たちの胸の中に律法を授け、彼らの心にそれを記して下さる(「エレミヤ書」31:31−34)のであり、前の契約のように石に刻まれたものではないのだ。すべてのユダヤ人が本心から神を知り、もはや神を裏切ることがなくなる日を、エレミヤは神がもたらして下さると信じた。






 通常「第二イザヤ」と呼ばれている、その名も私たちが知らない預言者は、バビロニヤ捕囚期にバビロニヤで預言したと考えられている。特に著名な「イザヤ書」53章は、構成上も歴史的にも、(他の文書が混ざっていないで)彼一人が書いたものであるという統一性を示している。他の預言者たちの預言がユダヤ人の罪と、それに対する神の刑罰を主題としているのに比較すると、この章は他の人々のために苦しむ所謂「苦難の僕」の姿を提示している。その僕が示す苦難の姿が、本来は他の人々が受けるべき(神からの刑罰である)苦難を引き受けたものであったが故に、人々を悔い改めに導く力があると言うのだ。キリスト者はこの章を読んで、イエスの十字架の苦しみが「第二イザヤ」によって預言されていると信じてきた。神学的に見て、この信仰が誤りだとは思わないが、それは、イエスを遣わされた神も、「苦難の僕」を預言させた神も、同一の神なのだから、イエスにおいて表された神の人間に対する哀れみの心が、既に「苦難の僕」の姿の中に不十分ではあるけれども、提示されているという意味においてである。しかし、歴史的には、「第二イザヤ」が預言したものは直接的にイエス・キリストのことではないだろう。

 では、「苦難の僕」とは直接的に誰のことだったのか。これ迄に有力な三つの説があった。第一の説では、これはユダヤ人全体であって、彼らが散々に嘗めてきた苦しみ、特に捕囚期における苦しみは、比較的に他の民よりも宗教的にも道徳的にも優れている彼らの受けるべきものとは思われないが故に、彼らを見て、他の民が感動し悔い改めるために、神によって用いられているのだとする。第二の説は「苦難の僕」を、エリヤ以来ユダヤ人の間で言われてきた「残れる者」、すなわち、ユダヤ人の中でバールに膝を屈めない少数者と取る。第三の説は、「苦難の僕」を誰か特定の個人とするものである。私は、第二の説に一番説得力があると思っている。

 紀元前538年にはペルシャがクロス王の下、バアビロニヤを滅ぼし、パレスチナは前331年までペルシャに治められた。前538年には捕囚のユダヤ人の帰還が許され、やがてエルサレムに第二の神殿が建設され、城壁の修理がなされたりした。しかし、一時期の独立を除いて、ユダヤはイエスの時代にも外国の支配下に入っていた。



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入力:平岡広志
2003.3.13