ユダヤ・キリスト教史 1997.10.14


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第21回 ――ヨブ記          (1997.10.14)


野呂芳男







 旧約聖書の勉強を一応終わるに当たって、「ヨブ記」を取り上げることにしたい。それは、私の見るところでは、この書物が旧約の宗教の問題点を浮き彫りにしてくれているからである。この書物が作られた年代は明確ではないが、恐らくは捕囚後、紀元前4世紀頃のものだろうと言われている。当時の一般的風潮によると、神の前で行いの正しい者は、神の恵みを受けて富裕となる。しかし、行いの正しくない者は、人からの敵意を受けたり生活が苦しくなる、というものであった。さて、この書物では、神と人間との前で非難されるところのない人物ヨブが、財産・子供たち・社会的地位・健康など全てを失ってしまうのである。これは、天上での神とサタンとの間の賭けが原因となって起こったものであった。神はサタンに、ヨブはどんなことがあっても自分を捨てないだろうと言ったのに対して、サタンは、ヨブといえども利益を目当てに神を崇拝しているのだから、ヨブの持てるものを奪い、健康さえも奪ってしまえば、神を信じなくなるだろうと主張した。神はそれでもヨブを信じて、サタンにヨブから全てを奪うことを許可したのであった。

 このような次第で、全てを奪われ、全身皮膚病で被われ、体をかきむしっているヨブのところに、三人の友人が慰めにきた。彼らはヨブに対して次のような議論を展開し、慰めようとした。神は全てを知り、また全能の方であって、人間が苦しみを受けるのは、人間の罪に対する神の刑罰なのである。そして、神は人間を公正に取り扱って下さるのだから、ヨブがこんなに苦しむことになったのは、何かの罪をヨブが犯したからに違いない。

 それに対してヨブは、神が全知で全能であるならば、自分はこのような苦しみに値する罪がないことを、神はご存知のはずであるとし、神が間違っているか、自分が間違っているかだと言い張った。

 そんな議論が展開しているところに、もう一人の友人エリフが飛び込んでくる。エリフの議論は、神が間違っているとしても、神の行動の仕方は人間には到底不可知なものなのだから、どのようにして神が間違っていると人間には知り得ようか、悪い苦しみが良い結果を生むことだってある、というようなものであった。こんな議論の中で、ヨブは心では神には誤りがないことを信じているが、理性ではそれに反対していた。

 最後に、嵐の中から神ご自身がヨブに答を語りかけて、人間の理性では神の働きを理解できるものではないことをヨブに告げ、再びヨブに財産と健康を戻し、長寿を与えることで、「ヨブ記」は終わっている。







 ここで旧約聖書について、キリスト教の立場から発言してみたいと思う。第一に問題となるのは、旧約聖書では、神の哀れみと正義との関係が明瞭でない、ということである。ヤーウェの神の本質は哀れみなのか正義なのか。私は前に砂漠の宗教であるユダヤ教の神観は、楕円のように二つの焦点があり、それらは哀れみ(女性的焦点)と正義(男性的焦点)であるとした。そして、これら二つの焦点の緊張関係が、旧約聖書ではしばしば崩れてしまい、ある時には正義が中心の位置を占めてしまう傾向があった、と私は思っている。そうなると、人間の行いに応じて神が報いをくださる、という賞罰思想が中心になってしまい、人間の苦しみは、その人間の罪に対する神からの刑罰であるという、「ヨブ記」の思想が出てきてしまう。もっとも預言者たちの場合には、ある程度ではあるが神の哀れみの焦点が正義を支配して、正義が社会的な弱者を救う方向に傾斜してはいたのだが。

 イエスの神は、旧約の哀れみの系統を継ぎ、愛が中心である。正義はその愛が、歴史の、その都度の状況に適した形態を創作したもの、愛と状況との妥協である、と私は思っているが、この問題はもっと後になって詳細に論じることにしたい。







 旧約聖書の宗教だけではなく、人間の嘗める苦しみが、人間の罪や驕(おご)りに対する神や仏からの刑罰であるという思想は随分と一般的であるが、この思想は捨てた方がよいだろう。関西大震災の時に、これはこの地域の人々に対する神や仏の刑罰だ、と言った宗教家が何人もいたが、この発言は非常識極まりないもので、他の地域には罪人が存在しないかのごとくである。ヨブが言い張ったように、罪に対する神からの刑罰というには、現実の苦しみはバランスが取れた正義の実現からは程遠い。罪を犯していない者の方が、罪人よりも余計に苦しんでいる事例は山ほどある。罪の分量に適合しない苦しみという問題ばかりか、旧約聖書の宗教では、そもそもどうしてこの世界の中には、(死の苦しみ、病気の苦しみ、貧しさの苦しみ、孤独の苦しみなどの)苦しみが存在するのか、という問いへの答は得られない。







 神が人間(を教育するため)に試練として苦しみを与えるという思想が旧約聖書(「ヨブ記」などに)には見られるが、これも考えてみれば受け入れられない思想だろう。試練は人間が自らの自由意志で受け入れない限り、神の一方的な残酷さでしかない。神が人間を将棋の駒のようにただ動かしているだけでは、教育などでは全くない。イエスの十字架は、イエスがそれへの道を自ら選んだものなのである。この点では「イザヤ書」53章の残れる苦難の僕の思想も、その中の何人が、自分は「残れる者」であると自覚していたかを考えると、余り賞賛できないだろう。



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入力:平岡広志
2003.3.13