ユダヤ・キリスト教史 1997.6.17


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第7回 ――教会史の三つの出来事  ( 1997.6.17)



野呂芳男








18世紀以降徐々に明確になってきたと私には思える、次元的区別の重要性を如実に知るのに都合がよいのは、教会史における三つの大きな出来事である。旧約聖書「創世記」(1:1―2:3)に書かれている天地創造の物語は、人間が神の造った天地の中心であって、他の植物や動物を人間が支配するばかりか、太陽も月も人間のために神によって造られたものとなっている。この記述からキリスト教信者は、天地さえも自分たちのために造られた程に自分たちはきわめて重要な存在なのだ、と結論してしまった。しかし、人間の価値は天地万物の中心が自分たちであるというところにはなく、つまり、そのような人間と世界との関係次元には依存しないで、神との関係の次元だけにあるベきなのだ。神が人間を愛して下さるということだけに依存しなけれぱならないのである。

 以上のように次元の区別が明確でなかったが故に、地動説が教会に突きつけられた時に、教会はそれを異端と見倣し、例えばコぺルニクスの説を自分の信念としていたジョルダ−ノ・ブルーノーを1600年に火炙りの刑に処したし、ガリレオ・ガリレイも宗教裁判にかけ、沈黙を余儀なくさせた。何故に地動説をそれ程までに教会が恐れたかというと、地動説が人間を宇宙の中心から追い出して、人間の価値をなりたたせていると教会が信じた、客観的な支柱を取り去ってしまうと思えたからであった。実は人間の価値は神が愛して下さっているという次元だけで言われなけれぱならないのに、それを客観的な、人間の字宙の中心性という別の次元で支えようとしたのだ。このような両次元の混同さえなければ、地動説論者が迫害されることはなかったのである。







人間を客観的にありふれた存在に変えてしまうと思われた第二の衝撃は、進化論であった。1859年に出版されたターウィンの『種の起源』は、無機物から生命ヘ、動物から人類への進化が、「生存競争」、「適者生存」、「遺伝」、「変異」などの相互作用によるものだとした。生物の数は、その環境が許容する以上に産出されるので、生存し続けるためには競争しなければならず、環境に自己を適応できたものたちは子孫をもうけて繁殖する。そうでないものたちは滅んで行く。その折りに、よりよく環境に適応できるように生物の器官が変化したり、新しい器官が出現したりするが、そのような変異は遺伝によって子孫に伝えられ、代が重なるにつれて変異は累積する。やがて数世代の後には、親と全く逢う種が誕生することにもなる。ダーウィンによると、人間の誕生もこれらの要因の相互作用によったものなのだ。

 何故に進化論が衝撃であったかというと、人間は初めから神によって立派な存在として造られたのだという、客観的に証明できる次元が進化論によって破壊されてしまったからである。でも、人間の価値がそのような次元ではなく、神に愛されているという次元だけから基礎づけられているならば、この衝撃も容易に乗り越えられたであろう。どのように造られたかによらずに、今の人間が神に愛されているのだ。

 しかし、進化論の衝撃にはもう一つの局面がある。それは、人間が存在するようになるまでの進化の歴史の残酷さである。この進化の過程の弱肉強食が、愛の神のなす業とは到底信じることができないのである。進化がすベて神のなす業であるなら、神は私たちよりも道徳的に低い存在になってしまう。







 第三の衝撃は、現代の宇宙論によってなされている。宇宙は中世の教会が想像していたよりも遥かに広大であり、地球の、否、太陽系の存在すら、宇宙の歴史から見れば生まれては瞬時に消え去るものでしかない。このように広大で無限とも言える時間の中の、ほんのけし粒程の(地球という)惑星に、瞬時だけ存在している人間に、存在する意味があるのだろうか。更に、現在は、地球以外にも知的生物が存在する可能性が極めて高いと言われているが、それが遇去であっても、現在であっても未来の事がらであっても、地球以外に知的生物が存在するなら、私たち人類にはそれ程の希少価値はないということとなり、もしも私たちが、このような客観的現実に自分の存在の意昧を置いているなら、生きている意味はないこととなろう。しかし、繰り返し述ベてきたように、私たちの存在の意味はそこにはなく、ひたすらに神が私たちを愛していて下さるというところだけにあるのだ。







 宇宙の発展や生成は、それが所謂ピック・パンから始まったものであろうと、あるいは、無限に拡張と縮小とを繰り返すものであろうと、いずれにしろ、初めから終わりまで神の創造の業とは私には思えない。むしろ、神が宇宙の生成と発展に、そのよしとされる時に介入してくると考えた方が正しい、と私は考えている。どの時期から、どの時期まで神が介入されるのか、介入は何回も行われるのか、などは私たちの知識を越えているのかも知れないが、「創世記」の記述は当時の幼稚な科学思想に基づいて介入について記述したものと考えてよいだろう。そして、私たちが忘れてならないのは、イスラエル民族の歴史やキリスト教会の歴史には、神の凄じい程の愛の介入が、無の力と闘いながら見られる、ということである。錬金術士が言うように、汚れた物質にまで神のロゴスの介入があるのである。神の介入という思想には、自然や人間社会から、道徳の基本である愛を引き出すことができない、という考えも入っている。イエスの示した愛は、外から来たのだ。



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入力:岩田成就
2002.7.2