野呂芳男 聖書を深く読む 99.9.14

HOME  >  説教・講義ほか


新約聖書を深く読む

1999年夏期第5回目 99.9.14

                                野呂芳男
                                (まとめ:當麻守彦)




1.前回の復習

聖書研究の方法論として歴史的研究の仕方が重要であるが、主に次の7つが挙げられる。

?低等批評 コイネーというギリシャ語で新約聖書が書かれていたものを修道院僧が書き写し、代々受け継がれてきたが、その際自分の考えを入れたり飛ばしたり色々なトラブルが発生する過程で、本文の本質を出来るだけ探ろうとし、本文を掘り出す作業の事を言う。

?高等批評 18Cから盛んで、夫々の本が何時、何処で、何のために、誰が、誰に当てて書かれたものであるかを明らかにする作業を言う。

?合理的研究法 18Cに入ってテユービンゲン学派の考え方として、聖書には奇蹟が多過ぎ、どうしても我々の考え方と衝突する。それを合理的に考え直す作業である。合理主義的に考え、且言い訳を考える。その代表者はバウルで基督教の大きな流れは?ペトロ的基督教、?パウロ的基督教、?即ち?と?の衝突を統合するローマンカトリック型基督教が生まれたとした。これはテュービンゲン学派の功績であることを認めない訳にはいかないが、同学派はもう一方で、聖書が神話で覆い尽くされて解らなくなっているからと言ってその批判に終始した点に問題があった。

?様式批評 M.デイベリュウスやR.ブルトマンによって行われ、19C~20Cに盛んになったものである。ブルトマンによれば聖書を伝記の一部分と考えてはいけない。イエスに関する伝記は聖書の中には無い。従って聖書を伝記の積りで読んでは駄目だ。これは説教の材料を集めたものであって、奇蹟そのものが重要なのではなく、説教の一つ一つが大事で、信仰を持って歩めば荒波の中も歩けるが、それを失うと直ちに溺れるといった信仰的な説教への取り組みが大切である。決して伝記を書こうとしたのではない。イエスは人々の魂を救おうという気持ちが強く、色々な説教をした。ここで言う様式とは、ある素晴らしい考えを表す幾つかの「枠」を意味する。これは神話でカバーされ、イエス自体が解らなくなるというテュービンゲン学派の主張をかわせる批評の在り方である。むしろ説教の中で言いたい核心を表現する手段として神話が使われているのだと解釈している。

?編集史的批評 ルカ福音書にはパウロの影響が色濃く出ている。編集者ルカの気持ちとしてローマ帝国と仲良くしようとしているが、実際はマタイの記事から捻じ曲げられたものとも見受けられる。本当は基督教はローマ帝国と衝突して出来上った宗教であったので、この辺を正しく理解するために批判をしている。

?構造主義的批評 金太郎飴の断面は何処で切っても一見同じ絵柄(構造)を持っている。それで、その断面をA、B、C、DとすればA=B=C=Dと言えるのか、又はA≠B≠C≠Dと言うべきか?こうした問題解決を目的とした批評の仕方を言う。基督教で行われている洗礼や聖餐式と似たものが他宗教例えばBC3~AD4に栄えた古代ペルシャのミトラ教の中にも見受けられる。ミトラ教は太陽神を崇拝し、当時太陽が牡牛座の辺りから昇っていた事に由来するのか、信者になる決心をすると地下室に集められ、牡牛の血を浴びて太陽神の影響下に入るイニシエーション(入団式)の儀式が行われた。これは水又は沐浴による基督教の洗礼と共通する性格と形式(構造)を持っている。そしてミトラ教 でその牛の肉と血を食する事は基督教の聖餐式に於けるパンと葡萄酒を受ける事に他ならない。つまり何れも神の身体を食する(共餐)する事を意味する。この様に、そして又金太郎飴と同じ様に中の構造が同じものを持っているという研究方法を構造主義的批評と言う。しかし講師も受講者も人体としての構造は同じであるが、実際は一人々々全く別物である。一体何が異なっているのであろうか?それは個々人の歴史の違いである。太陽崇拝のミトラ教は拝火教ゾロアスター教(火の神)の影響を受けているが、基督教は月の神から始まっている。構造主義はとかくA=B=C=Dと言いたがるが、これだけでものを考えてはいけない。同じ構造を持ちながらも内容(精神構造等)が異なる例は一杯ある。基督教はローマンカトリックで統合され仲良くしたと考える説もあるが、これは嘘である。又神話は何でも一つに凝るとそれで全てを片付け様とする。全部が様式で説教なのだと考えるのも間違いである。同じ奇蹟でも病を治す奇蹟、海を歩く奇蹟、ルルドの奇蹟は夫々性格が異なる。奇跡は心を慰めるだけのものという考えも間違いで、綻びが出る可能性がある。

?宗教史学派の批判 18Cから現代まで受け継がれて居り、シュヴァイツアー、ブルトマン、トレルチ、そして講師もこの派に属して研究を続けている。以上述ベた様々な考え方を活用し、他の宗教と比較しながら、?学派が狭い範囲で責任を果たしてきた諸説を含め、これからのローマ人への手紙の研究に入る前にどの様な方法論(立場)で研究に入るのかという事を明らかにして来た。    ――――(以上前回までの復習)――――





2. ローマ書に入る前に

この手紙は複雑なので、幾つかのモチーフをはっきりさせて置きたい。最大のポイントは2つある。

?贖罪論:イエスが十字架に架けられたのは我々の罪を贖うためのものであるという論旨。
?摂理:我々が生きる上で不思議な事に出会う。心の深い所に横たわっている問題に思いを馳せ、これを神の救済の意志又は計画の、時の流れの中に起るあらゆる事の秩序として考察する事。

 講師の体験を例に挙げると16歳で受洗、召集入隊後、東京大空襲で親をはじめ全てを失う。一方当時、家族制度は義務であり、牧師の生活を見ると、成りたくても両親は養えず成れなかった。ところが一家が壊滅的崩壊をしていたので、かえって両親を養わなくとも牧師に成れる道を歩めた。戦後米国留学が決まった時姉は家を焼いた敵国へ行くのかとなじられ、困った。一体何が善で、何が悪なのか?大空襲は講師にとって善だったのか?神戸淡路大震災はあの地域の人々の生活に問題があり、不信仰者が多かったから起きた等とする考えがあると聞いて驚くが、これは全くの間違いである。大空襲、大地震は間違いなく悪だ。それでは悪が善を生み出すのか?そのメカニズムに就いて、神は人生をどの様に導くのだろうか?

 話を聖書に戻し、パウロが大祭司の命により基督教徒を迫害したのは善だったのか悪だったのか?そして霊なる基督に捉えられるという負い目を背負ったが結果的に彼は強烈な伝道をした。

 一方ペトロはクリスチャンを迫害してはいない。この様な人生の諸相を掘り下げて考えながら、贖罪と摂理へのパウロの考えを重要な柱として検討して行きたい。





3. 贖罪論

  パウロの手紙を読むに当たり、贖罪論の背景を述べたい。パウロは神の事だけを書いて居るのではない。神と悪魔との間の闘いとして、贖罪論は神話の形をとって登場する。但し神話を文字通りに取らないで欲しい。コックリさんをご存知と思うが、これは催眠状態に在り、合理的な考え方では言い表し得ない非合理なものを神話で表す一種の表霊現象である。それは空中をうごめいている様な存在で、体験的に自分の中に在るものをあたかも外に在るかの様に言う。狐つきが乗り移ったのではなく、ユングも言っている事だが、その人の心の中に在るものが深層心理の状態で発見出来るものと言ったらよいのであろうか。人間の魂の一番奥深い所に在るものが本人にも理解出来ない仕方で、外からの影響として噴出して来るのである。正に悪魔は客観的に其処に居るかの様に語るのである。

 パウロが語る神話は神と悪魔の闘いの神話そのものである。空中の権(力)、星に就いての話などパウロは実際に悪魔が居ると思っていた。

 2つのクリスチャンのタイプがある。
A:神話をそのまま信仰としているクリスチャン。
B:悪魔など居るものかという信仰に立っているクリスチャン。
実はパウロはAに近い。ニューヨークの黒人教会もA型だが、日本基督教団は次第に悪魔の影が消えつつある。

 パウロの信仰が神と悪魔の闘いだとすると贖いとは何か?それは救いのための身代金である。悪魔が連れて行った人間を買い戻すために神が悪魔に身代金を払う。これが贖いの意味である。人間が罪を犯せば悪魔は当然その人間を連れて行ってよい権利を持っている。キリストの十字架の死は身代金である。これはユダヤ教の習慣が背景に在る。ユダヤ教では命は血液の中に在った。神殿の捧げ物の中に鳩が使われるが、その鳩も切り裂いて鳩の命(血の中に在る)を神に捧げる。つまり一番尊いものの血を支払うのだ。それが人間の血(十字架)を捧げるところ迄エスカレートして行ったのである。人間の魂の奥に在っても気付かない苦しみや憧れを、外に在る事として描かれている現象が神話である。身代金で買戻すという行動は外側の行動である。贖罪の日のドラマがイエスキリストをアザゼルの処へ追いやった。この考え方はパウロがイエスの十字架を神話的ドラマとして見ている事を示している。この解釈が基督教の中で皆を悩ませた。しかし神話を捨てて信仰の命を亡ぼすのなら、まだ神話のままで信じている方が良い。教会は千年の間パウロと同じく神話の侭、神と悪魔の闘いと身代金の関係として贖罪の問題を信じて来た。11Cの贖罪に対する考え方もパウロと同じである。しかし神の取引を解釈し直し、11Cにアンセルムスは封建制度という社会制度の中で、この神話を再解釈し、イエスを封建君主と同じ社会的地位にあるものとし、そのイエスが謝れば封建君主が刑罰を赦すという考え方をした。又16Cに入り、宗教改革でカルヴァンは刑罰代償説を唱えた。ルネサンスに続く近代化で個の目覚めが顕著となり、救われる人と滅びる人とが神の絶対主権的恩恵によってあらかじめ予定されている事を強調し、人間は唯神の栄光のみのために生くべき事を要請した。即ち救われる人間の刑罰を全て神が引き受け、それをイエスに押し付けたとするものであった。日本の説教は殆どこれで救われるとしている。キリストは救いを探し求めて往くというのである。

 講師は、?アンセルムスの封建君主説も信じられない。?カルヴァンの分量計算的刑罰代償説も信じられない。その結果、まだパウロの方がよい。パウロの場合は神と悪魔の二元論であって、神と悪魔の間で人間の罪の赦しに関する身代金による取引が行われるという考えである。

 最近日本基督教団内では、次第に悪魔が無くなって神と人間だけになって来ている。しかし神話は大切である。人間の魂の深奥に在ってよく解らないから外側へ持って来たものが神話だという事は既に何度も繰り返した。当然悪魔も同じで、悪魔を無くしては片手落ちである。神話を捨てるのではなく、非神話化する事が必要だ。即ち神話でないもので神話の本質を表現する事である。





4. ローマ信徒への手紙  

  AD54~58 パウロの活動絶頂期に書かれたもので、地中海の北東に当たる地域で献金を集め、エルサレムやローマへ その献金を持参し、ローマの援助を期待し、以後スペイン伝道を志したが果たせなかった。ユダヤで騒動を起こし、罪人としてローマへ護送された。ローマには既に教会が出来ていた。異端者、異邦人クリスチャンといったパウロへの悪評が蔓延していた事実に対する自己弁明、自己紹介をしながら、ユダヤ人と異邦人が対立するのは神の意志ではないことを語った。

 ローマ教会はユダヤ人が主になってAD49年クラウデユウス帝の時代に創建された。Chrestusという人物がローマのユダヤ人社会で騒ぎを起こしたことを理由にユダヤ人の追放が始まったが、勿論これはキリストの事である。

 ユダヤのエルサレムと同じくユダヤ教の中で、キリストを信ずるユダヤ人と信じないユダヤ人が分かれて抗争し、アキラとプリスカ等のユダヤ人クリスチャンがネロ皇帝のAD54年に追放された。その後彼等が戻って来た時、ローマのキリスト教会は異邦人(ローマ人)クリスチャンが多くなり、ユダヤ人クリスチャンとローマ人クリスチャンの間で争いが激しくなって来た。

  以上でローマ信徒への手紙を読むために必要な前提的知識の話を終る。




※ 99.9.14  夏期第5回目の記録は以上  文責:當麻




→この頁の頭

←前の頁/ 次の頁→




※この文章の著作権は野呂芳男に属します