野呂芳男 聖書を深く読む 99.9.28

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新約聖書を深く読む

1999年夏期第6回目  99.9.28

                      野呂芳男
                     (まとめ:當麻守彦)                    





1. 序

 いよいよローマ信徒の手紙に入るが、聖書の翻訳はこの新共同訳の他、様々なものがある。そしてこれらはどれも一種の信仰告白である。又妥協の産物という問題点もある。このローマ信徒への手紙はパウロがローマ教会の信徒に宛てたもので(その当時彼はまだローマ信徒には会っていなかった)、異邦人教会の献金を持って果てはスペイン伝道まで計画していた。この書は、AD54〜58にコリントの異邦人教会滞在中に書いたものである。前にも述べた通り、ローマの教会は初めユダヤ人の教会であったが、AD49に皇帝クラウデユウスによりユダヤ人が追放された後、AD54皇帝ネロの時、追放されたユダヤ人は戻されたが、その時、ローマ教会は既に異邦人(ギリシャ語を話すローマ人)が大多数を占めていた。従って異邦人とユダヤ人の関係に就いて長い議論や弁明が見受けられる。

 ローマ1:1の「キリストの僕」とはギリシャ語のドウーロス(奴隷)の意味である。つまり自分の意志に反して選び出され、召されて人となったという言葉はパウロにとって重い言葉である。勿論、喜びのおとずれ(福音)のために神が自分を呼び出して呉れて人となったという意味である。

 旧約聖書を通して歴史、預言書、詩が一杯出て来るが、預言者を通して約束された[御子]を表すものは重要である。場合に依っては新約聖書の四福音書や使徒言行録より確りしていると言えるかも知れない。





2. 基督像を取り巻く現代の雑音

 最近滅茶苦茶なイエス像を書く書物が氾濫し、それが非常に人気がある。例えば
?マグダラのマリアはエジプトのイシス(女神)を崇拝する祭司であったが、一世一代の大芝居を組み、儀式、ドラマ、ローマ官憲、買収劇、死出の旅の儀式等、イエスをイシスの相手とし、イエスの息を吹き返し、アリマタヤのヨセフに預けたといった話。
?マグダラのマリアはペトロと対立してフランスへ逃げた。イシス像の置かれていた場所にマリアの像が置きかえられ、黒いマリア像となった等、確かにノートルダム寺院地下室の聖母マリアはイシスであった。世界各地に在る 40の黒いマリア像は元イシスと繋がりのあるものである。8月15日にマグダラのマリアの祭りがあり、この日 に聖母マリアが昇天したとしているが、確かにマグダラのマリアはフランスに来ていたかもしれないという信憑性のある証拠の可能性がある。とにかくフランスにはマグダラのマリア信仰が多いが、これはイシスの女司祭であった事とダブるイメージとして子供を抱いている点が共通し、聖母子像に繋がる。こんなストーリーが今 所謂る 「際物」の姿で世界に蔓延している。
?イシスの夫が悪霊に殺され、死体をバラバラにされたものをイシスが集めたとして復活の話にしたり、夫は死後冥界の神になる等。
?一方ミトラ教(以前解説済み)の水の洗礼はユダヤ教には全く無いものだが、バプテスマのヨハネがミトラ教から学 び、イエスに洗礼を授けたとか、いやイシスの洗礼から来たのではないかといった具合で宗教史学派のブルトマン が言う様に、もうキリストの伝記は書けない。聖書は説教を集めたものだという気持ちも理解出来る。





3. 信仰の土台

 学問的にはイエスがキリスト教を創ったとは言い切れない。パウロが霊なるキリストにダマスコで出会った処から基督教は始まると考えるのが至当である。仮に資料が不足し、創始者としてのイエスが肯定も否定も出来ず、踏み込んで存在しなかったとしても、我々が根拠として持てるのはパウロの手紙であり、パウロがダマスコ途上で出会った霊なるキリストだけは決して死なない。であるからパウロの手紙を否定したら歴史研究そのものを否定する事になる。

 イエスが死なないで気絶からよみがえり、天の岩戸のように地震で石を跳ね除けふらふらしながら出て来たイエスにペトロが出会い、果たして「復活のイエス」を信じられるだろうか? 基督教の学問的根拠を何処に置くかと言えば、パウロが体験した霊なるキリストだけは死なないという信仰以外には無い。そして基督教の根拠を福音書に求め、それを土台とすると足元を掬われる危険がある。是非イエスという名で書かれているパウロの語る霊なるキリストを信仰の土台として理解するようにお奨めする。





4. 霊の賜物

 使徒信条はAD2Cの半ばから3Cの初めにローマ教会で使われていた。この芽のようなものが教会にあり、パウロにより引用されていた。ロマ1:3にある[肉]は「この世的に言えば」と同義語であり、「家系図の見地から言えば」の意味である。

 一方1:4の「聖なる霊に依れば」は「信仰的に言えば」の意。そして神の子に成ったのは復活によって成ったのであり、復活までは神の子とは言われない。

 後の教会が創った三位一体論(父、子、聖霊)はパウロの考えの中にはまだ無かった。イエス≠神。神の子として認められたのは復活によってである。復活は切れ目の時間として考えるべきで、その前と後とでは画然として異なる。

 ローマ1:11「霊の賜物」とはPneuma(霊、呼気、存在の原理等)の事である。日本の民間宗教に狐憑きのオーラや犬神が憑いている家族といった考え方があるが、パウロの時代も近代人の世界ではなかったのだから、ローマ1:11にある様に当時は「霊」を誰某に賜物として分けるという表現をしている。興味ある脇道になるが、講師はお祭りと神社仏閣へ行く事が好きで、お守りを沢山持っている。ある時伏見稲荷で石神様の「分霊」という説明を受け、その際「霊を分けると本家の霊は減るのか?」と問うたところ、そんな事は無い、むしろ功徳(神仏の恵み)により増えるのだと説明され、納得した。ロマ1:11~12も正に「分霊」により、分け合って励まし合いたいというパウロの真情が吐露されているのである。





5. 神の義

 次にロマ1:17には「神の義」が現れる。ここで「義」及び「神の義」に関する説明を参考文献から拾ってみる。M.ハルバーソン編、野呂芳男訳 基督教神学事典の中で、Warren A.Quanbeck師により大凡次の様に解説されている。

?義とは正しさ、標準に対する一致として定義される。義の行為は又マタイ6:1では憐れみの行為を意味する。神の義とは先ず神の性質であり、取り扱いにおいて公平だという事である。その結果人間の義は、その最高の倫理的な絶頂に追いこまれる。

?神の義は神の行為である。世界の中に義を確立する方策である。義の倫理的意味に救済的な意味、即ち神がその民のために成就する解放の意味が加えられている。

?神の義は神の行為から結果する事態、即ちその目的の成就を意味する。それは終末論的性格を強調し、義の存する世界への憧れとなっている。

 パウロは福音を神の義の啓示として見ている。義は神がご自身の聖にふさわしく人間から要求する事柄であり、キリストへの信仰を通して、神が人に与える救済(解放)的行為である。この行為の結果、この義を隣人への愛において創り上げるキリストに在る生命となる。―――義に関する資料は以上で講義に戻る―――

 神は正しい方である。猫可愛がりに抱き込むような事はない。それは山上の垂訓に見ることが出来る。基督教がユダ ヤ教から貰った性格の中で大切なものは法華経の中の観音教にも見出せる。弱虫、罪人であろうが、その他どうしようもない人も南無観世音菩薩と念ずることにより、大地に足を下ろして立つ事が出来る(日蓮上人の鎌倉龍ノ口に於ける奇蹟はその一例)。信仰の中にはエゴイズムを秘めた、自分にご利益が欲しいという性格のものがあるが、これは最終的に寂しい。

  それはとことん自分の事のみを考えているからだ。芥川竜之介の「蜘蛛の糸」の話しは示唆に富む素晴らしいものだ。その他萩原朔太郎等も皆基督教の影響を受けている。

 利己主義と断絶した宗教は他にもあるが、日本人に一番強く迫ったのはキリシタンバテレンであった。自分自身を豊かにするのが最後の目的であった。自分だけ救われたいという宗教は一杯あるが、16Cの カトリックキリシタンが20~30万の殉教者を出しながら日本に受け入れられた理由は、自分の救いが最後の目的ではないという宗教を発見したからであった。神の義が我々の救いより上に在るべきもので、神の方が私個人より大切だという事。又救いといっても神の義が貫徹された救いであるという事だ。更に自分を最終的には捨てる事を教える処に基督教の凄さが在る。ただ、それだからと言って日常の教会生活の中で、ひたすら自分を痛めつけ、本当の事を言わず、嫌でも言われた行動をするといった欲求不満と背中合わせの場面を過去度々見せ付けられた事があるが、これは基督教の大きな長所が同時に大きな欠点となっている姿だと思う。

 我々はあくまで最終的には自分を誰かのために捨てなければならない存在だという事だけは忘れたくない。ご利益信仰は孤独である。自分のために自分を捨てるといったはつらつさを持ちたいものである。このことは性の問題でも言える事で、性行為そのものは悪い事ではないが、性欲を満足させても索莫としている様では相手のために自分を犠牲にし、寂しさから逃げることは出来ない。

 人間は神の義(啓示)が信仰を通して実現される事が貫かれていなければそれは一つの悟りに過ぎない。基督教の魅力は「相手が居る事」である。





6. 啓示の多様性と宗教的誘惑

 ローマ1:18には神の怒りが現在形で啓示されるとしているが、キリストが霊なる存在としてパウロを掴んだ時、つまりキリストが働いている事これが終末であるという考え方をしたい。ローマ1:19、スイスのカールバルトは自然神学(編者注――表面的な定義は「啓示と無関係な人間の理性に基づいた神学」と言えるかもしれないが、その他の色々な神学を含めて講師に時を改めて簡潔な解説をお願いしたい)を否定した。パウロによれば、神はユダヤ人に教えを続けて来た上で、イエスを送り神ご自身を啓示したとしているが、それだけでなく1:20には自然の中ににも神を知る知識の伝え方はあるとしている。

 即ち天体の動き、野の百合、食物を探して自然に生きる空の鳥などを見れば、神を信じないといった言い訳は出来ないとしている。一例を挙げれば蛇とその抜け殻は生と死を表し、蛙の様な両生類はこの世とあの世(死と再生)を知っていると考えられ、又猿は極めて人間に近い。つまり人類が動物と余り違わない生活をしていた頃、ペットは人間と共存共生していた。そこで人類はトーテムを作った。動物=人間で、分離はしていなかった。更に神の持っている素晴らしいもの(知恵や肉体)は動物に表されていると言う信仰があった。それに近似した考えは人間がカソリックのマリアやヨセフ、又ギリシャ正教のイコン等の様にキリストの近くに在る共生的存在を欲しがる姿からも納得する事が出来る。しかしパウロはこれを否定し、講師の恩師であるパウルテイリッヒも聖なる空間で何も無い事こそ真実であるという考え方をした。

 ロマ1:26に進もう。ここには同性愛批判を読み取る事が出来る。当時この問題は単なる倫理的問題ではなく宗教問題であった(列王記上14:21~24参照)。セックスが宗教の中に入って来てユダヤ教が誘惑に陥り掛けたことがあった。宗教と宗教との闘いであったと言える。又基督教はユダヤ教の影響から残念ながら女性蔑視の中に在った。この風潮に敢然と闘ったのは日本の基督教界の女子教育(例えば聖公会、メソジスト、バプテスト等の女子神学校)であった。尚現代の米国では同性愛を認める方向にある。





※ 99.9.28  夏期第6回目の記録は以上  文責:當麻 



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