ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化7
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信仰によって義とせられた人間は、聖化の結ぶ初めの果なる新生を与えられ、漸次罪に死に、恵みに成長するのである(註1)。新生は義認と密接に結合せられ、「それは、神が人の霊魂を生命にまで連れ行き給う時に、霊魂の中に於いてなし給う大変化である。神が、霊魂を罪の死から義の生命にまで高め給う時の大変化である」(註2)。そして、此の新生を与え給うた後も、「神はかつてそうであったように、霊魂の上に絶えず息を吹き給う。それ故に、人の霊魂は神にまで息づく。恵みは人の心の中に降り、そして、祈りと讃美とは天にまで昇りつつある。そして、此の神と人との間の交わりによって、父なる、又、子なる神との交わりによって、或る種類の霊的な呼吸によっての如く、霊魂の中に於ける神の生命は維持せられる。そして、神の子達は、キリストの像の満ちあふれるようになる迄成長する」(註3)。漸く新生を得たる信者、即ち、神の子達は、子たる者の懼れに於いて、神の栄光のために、神への服従に生きるのである」(註4)。
而して、ウェスレーは、ヨハネ第一書3章9節「凡て神より生るる者は罪を行わず、神の種、その内に止まるに由る。彼は神より生るる故に罪を犯すこと能わず」により、凡てのキリスト者は、例えキリストにある赤児(経験的に信仰生活の初歩者)にしても、キリスト者たる以上は罪を犯さぬという事に於いては完全である事を主張した(註5)。これは、後に述べる成人(信仰生活の上達者)の完全とは異なる。彼の言う赤児の完全とは、「信仰により、神によって生まれたる者は罪を犯さない。第一に、何らかの習慣的な罪によって。というのは、凡ての習慣的な罪は支配的な罪である。併し、罪は、信ずる如何なる人の中に於いても支配し得ない。第二に、何らかの故意の罪によって。というのは、彼の意志は、彼が信仰に留まる間、凡ての罪に全く反対して置かれて居り、そして、それを死毒の如くに憎むからである。第三に、何らかの罪深き欲望によって。というのは、彼は絶えず、神の潔き全き意志を意志し、潔からざる欲望に対する如何なる傾向をも、神の恵みによって、その芽生えに於いて抑えるからである。第四に、行為、言葉、思いの何れに於いてでもの欠点によって罪を犯さない。というのは、彼の欠点は、彼の意志の何らの協力も持たないから。そして、此の意志の協力なくして、それらの欠点は、厳密には罪ではない。このように、神より生るる者は罪を行わない。そして、彼は、罪を犯さなかったとは言い得ないとしても、尚、今や彼は罪を犯さないのである」(註6)。もっと具体的に、彼の意味するところは、義認せられたキリスト者は、凡て、外的な罪(outward sin) を犯さないという事である(註7)。では、ウェスレーは、凡てのキリスト者は、絶対的に、言葉に於いても、行いに於いても、思いに於いても、外的な罪を犯さないと主張したのであろうか。此れについて、面白いのは、此のウェスレーの主張に対して、使徒ペテロやパウロも外的な罪を犯しているではないかと反問せる人々に対する『基督者の完全』の中にウェスレーが書いている言葉である。「併し、使徒達自身も罪を犯した。ペテロは佯る事によって、パウロはバルナバとの激しい争いによって。若し、彼等が罪を犯したとするならば、あなたは次のように議論しようとするのか。若し、二人の使徒が罪を犯したならば、其の時には、あらゆる時代に於ける、凡ての他のキリスト者も、彼等が生くる限り、罪を犯すし、又、犯さねばならないと。否、決してそうではない。罪を犯す如何なる必要も彼等にない。神の恵みは彼等に対して、確かに充分であった。そして、現在の我々のためにも充分である」(註8)。此れによると、ウェスレーは、使徒ペテロ、パウロも外的罪を犯している事を認めているのである。此の文章全体にわたるウェスレーの語調は、次の如き通俗的カルヴィン主義的見解に反対しているものである事を知るであろう。即ち、キリスト者といえども、その全生涯にわたって罪を犯さねばならないという決定論である。此の倫理的緊張を破る決定論に対して、彼は絶えず信者の倫理的努力を継続させるために、この、赤児といえども完全であるとの教義を主張したのである。
(註1)「何時内的な聖化は始められるのか」「人が義とせられる瞬間に於いて。(それでも尚、罪は彼の内に残っている。然り、凡ての罪の根が残っている。罪は彼が全く潔められる迄残る)此の時以降、信者は漸次罪に於いて死し、恵みに於いて成長するのである」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.17
(註2)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.403
(註3)Ebenda Vol.?p.403
(註4)あなたはもはや、地獄や死や、かつて死の力を持っていた悪魔を恐れない。否、神自身をも痛ましくは恐れない。唯あなたは、神を怒らす事に対しての、柔しい、子としての恐れを持つのである。Ebenda Vol.?p.67
(註5)併し、キリストに於ける赤児でさえも、罪を犯さなという限りに於いては、完全である。此の事を聖ヨハネは明白に主張している。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12
(註6)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.16
(註7)此等の事は(ロマ書4章 1,3,5,6,7,11,18等)の中に含まれる意味は少なくとも、その中に語られている人々、即ち、全ての真実のキリスト者、又はキリストに於ける信者は、外的な罪から自由にせられているという事である。Ebenda Vol.?p.359
(註8)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12
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