野呂芳男「虚無への勝利」1958 Home > Archive / Bibliography
《講壇》虚無への勝利 (マタイ6:16−34)
野呂芳男
初出:『福音と世界』1958年 7月号、2−5頁
「思いわずらうな」とイエス・キリストは私達にここで語っているけれども、確かに私達の周囲には、およそ「思いわずらい」とは縁が遠いかの如く振舞う人々が多くいる。そういう人々にはキリスト教は関心の対象にならないものであろうし、私達もそのような人々に頭を下げて、押しつけがましくどうぞクリスチャンになって下さいとは頼まない。むしろ私達はそのような人々が、より深い自己の生活に目覚めずに浅く人生を渡っており、真の人生の喜びや悲しみを味わわず、祝福の生を送り得ないことを憐れむのである。それゆえ、私もここで少しでも人生の深みに目覚めている人々に、イエス・キリストの言を語ろう。
少しでも自己の真実の姿に目覚め始めた者は、それが「不安」と「思いわずらい」に満ちていることに徐々に気づいていく。「不安」とは人間存在に本来的につきまとうものであり、必ずしも悪いものではない。人間の進歩は不安を乗り越えんとする創造的意欲から来ているのであるから。しかし「思いわずらい」とは創造的でない、後退的な不安、すなわち、罪のあわられである。なぜならば、「思いわずらい」とは神の子たるわれらに神が与え給うた世界の中で、神への不信頼を意味するからである。人間は創造者ではないから、未来を完全に知ってはいない。一寸先が闇であり得る。神の如く未来を知り、全能なる存在であれば、不安はあり得ないが、被創物である人間は不安の存在である。また人間は動物の如くに、時々刻々に内在的にのみ生きてもいない。将来を決断して選択する責任を負わされているのであり、本来的に不安である。さて、不安を創造的に燃焼出来ない不信仰な不安であるところの思いわずらいは、単に日常の平凡な生活でその姿をあらわすばかりでなく、いわゆる人生の「危機」が来ると、強い具体性を示すこともある。病気、死、愛するものとの別離、結婚の破綻、罪の苦しみ等により、思いわずらいは具体的に極端に破壊的な形をとることがある。
思いわずらいの中で生を送る人は孤独で淋しい。そして、人間が最も深くこの孤独の淋しさを味わうのは、死に面する時と、あまりにも現実の自己が理想的自己から遠く離れていることを感じて、罪責の苦悩を知る時である。不信仰な人間は、この二つの状況において際立って、自己の創造的生が虚無の力に対抗し得ず、敗れ、むしばまれていることを知るに至る。
人間の場合、「死」は単にわれわれの肉体が消滅するという消極的な面だけでなく、もっと積極的な面を持っている。すなわち、神の言なるキリストの外にある人間にとって、死は無意味さをその中に所有しており、単に人生の終りに、何もかもがなくなってしまう死が待っているというようなものではなく、その最後の消滅にまだ遠い人々にも、その死を通して人生の無意味さが襲いかかり、生きる意味を失わしめる如きものである。単に肉体(時間)の面だけでなく、精神=意味(永遠)の面が死にはある。
死に面した時と同じ無意味さが、キリストの外にある人々が自分の罪責に苦悩する時に顔を出す。理想的自己になろうとしても何時も失敗してしまう時、倫理創造的な、すなわち、犠牲的愛に生きんとする生活が無意味さの風にふきさらしになる。このような死と罪責との思いわずらいこそ、イエスがここでつげる衣食の思いわずらいの根底に根強く横たわっているものである。
かくの如き愛の存在として創造的に生きんとする人間を内側からむしばむ虚無にぶつかる時、人間はどのような対抗手段をとってこの思いわずらいから逃れようとするであろうか。
その第一の手段は、虚無を「忘れる」ことであろう。そして、実際或る程度人間はこれに成功する。しかしながら、何時も忘れていると思っているけれども、歓楽の後に、またその最中でも、われわれを時として襲う堪え難い淋しさで解るように、虚無は私達を包みじわじわと蝕んでいる。虚無を完全に忘れさると言うことは人間に不可能なことである。それは無意識的に私達の心の奥底にひそんでいて、人格の土台を蝕んでいるのであり、何かの機会には恐ろしい力をもって意識の表面まで上って来る。
第二の手段は、マタイ伝6:19−24でイエスがたとえを以て語られていることである。イエス・キリストは宝をいかに貯えるかを教えておられ、地上にそれを貯えるのは愚かであると言われている。人間が自分の思いわずらいを、物を所有することにより解決しようとするのは、肉につける人間の常である。しかし、例えば金が、私達を真に思いわずらいから解放してくれるであろうか。人間の究極的な問題である虚無の力に対抗して、金がどれほどの力を持っているだろうか。しかし、貧乏な今の日本に住む私達には金を多く所有して思いわずらいから解放されるなどとの考えは縁遠いもの思われるかも知れない。私達の多くは生存を続けてゆくだけの金をやっと得るという現状にあるのだから。しかし、ここで言われていることは、虚無に抵抗して思いわずらいの問題を解決するために、何か被創物、すなわち神以外のものに頼っても駄目であると言うことである。例えば世の中には、自己の妻を虚無への抵抗の道具としている人もある。逆の場合もあり、また子供や親がその人の生の究極的な意味であり、押し迫る虚無への対抗手段をそこに見出している人もある。しかし、私は孤独で自己の死をまた罪責を経験せねばならず、私が虚無におびえて手をのばし、助けを求めて掴もうとする愛する者達も、死ぬべき存在であり、私への罪責をも背負うところの神の淋しき被創物に過ぎない。私の虚無にむしばまれる淋しさは、これでは解決されないのである。
皮肉なことに、人間関係は各個人がおのおの虚無に孤独で抵抗し、孤独な淋しさを孤独な創造的生に変えてゆくときに、旨くゆく。夫婦愛の如き極めて密接なものにおいても同じである。夫婦がお互に相手を自己に襲いかかる虚無への防備の手段とする時、この夫婦愛は破滅する。むしろ一人一人がそれぞれ虚無に堪え抜き、人生を力強く生き抜ける人々である時に、夫婦愛はますます細やかに、そして深められていく。
虚無に抗して勝てないことを無意識的にでも感じている人は、エゴイストになるという方法をとることもある。怖いと思う人は身をちぢめる。これを道徳的に言えば利己主義である。このような人は、自分をひろげて隣人のことを考えてやる余裕がない。自分の身を守ることに精一杯で、とても他人のことなど考えていられない。しかし実はこのようなちぢこまった態度こそ、ますますその人を非創造的不安に追いやり、思いわずらいにさいなまれるようにし、やがて虚無に完全に敗北させる。
他を愛せない人間は無意識的にでも罪責の苦悩を負い、良心の審きを心の底に隠し持っている。マタイ伝6:16以下に断食をしている偽善者のことが書かれている。彼は自己の宗教的熱心さをその様相により見せて歩いている。人間がなぜこうするのかと言うと、良心の審きを沈黙させるために外ならない。他人に比較して自分がこんなにも優れていると自分にも他人にも納得させたいのである。良心による神の絶対命令の下では義とされ得ない自己を感じているので、世の人々のどんぐりのせいくらべの中で、自分を他と較べて他よりすぐれていると自分にも他人にも示そうと努めるのが、この偽善者的な態度である。
また、人の悪口ばかり言う人があるが、それは、人を悪く言うことによって、その当の相手が自分より悪い人間であると人にもまた自分にも言いきかせることにより、自分の心の奥底にある思いわずらいを解決しようとしているのである。自分自身が汚れた存在であることに気づいているので、他の人を自分の水準以下に悪口で引き下げて、自分より汚れていると他にも自分にも言いきかせて自分を慰めるのである。
虚無に出会う人間がとる第三の手段は自殺である。自殺には肉体的自殺と精神的自殺がある。精神的自殺とは、人生の意味に絶望して、理想的な自分自身であろうとする努力を全く放棄したところの人間失格的自己喪失である。ここにおいて思いわずらいは絶望にまで到達しているのであり、この状態にある人は死への途上にあるのでなく、既に死にあるのである。イエス・キリストによる神の赦しの愛の使信が、死を征服する復活の生命のなかにこの人を現在導き入れないかぎり、この人は自己主張がないので人には好かれるかもしれないが、自己であり、人間であることの味わいを知らずにしまうのである。それでは、肉体的自殺はどうであろうか。虚無に出会って傲然とはそれに抵抗出来ない自己を意識し、しかも虚無的現実をいろいろな手段ではごまかせない、信仰のない人々がよく自殺をする。このような人々は思いわずらいの中に肉体的生存を送ることに堪えられない人々であるが、それでは肉体的自殺は一体問題の解決をしてくれるのだろうか。
生きる意味を持つ人はそのために死ぬことも出来る。なにもキリスト教的な例をとる必要もないけれども、私達はキリストを告白することに生きる意味を見出した人々が、そのために殉教することをもいとわなかったことを知っている。これは、人生の意味の有無が肉体的死より或る人々にとっては重要であることを教えている。また私達に親しい人情話、世話もの等で復讐物語がある。仇を討たねば死にきれないと言うのは、人間にとって単なる生存の問題より道徳問題の方が重要であり得ることを歪んだ形においてではあるが物語っている。もちろん人間は罪深きものであるから、人に善をしようとはなかなかしないが、人から悪をされれば怒るのである。
これこそ、前に述べた人間における時間の次元に対する永遠の次元の上位である。人間は永遠の次元に属するところの自己の存在の意味の問題――それは理想的自己に関連してくるので、道徳問題を必ず含まざるを得ないのであるが――を解決しなければならないので、さもなければ死んでも死にきれないのが精神的には未だ死んでいない人の尋常の状態でなくてはならない。自殺は人間がその時間的次元を自分で抹殺することであるが、永遠的次元には解決を与えないでしまう。これが人間としての敗北でなくしてなんであろう。
第四に虚無に出会った人々のとる態度として考えられるのは、虚無に反抗して自己の生活の意味を自分で創造してゆこうとする立場である。人生は不条理であり、無意味であるが、自分の力で傲然と無意味さに反抗して、自分にとって意味ある生を、或る場合には道徳的にも立派な生を送ってみせるとの決然たる生き方がある。私達はこのような生き方に深い尊敬を覚えるけれども、そこにある絶望的勇気とも言うべきものの中に、一種の素直でないひねくれを見出さざるを得ない。従ってこの生き方が人間の本質的生に不自然であるがゆえに、真実の意味でゆったりとした、素直な安心しきった創造性をそこに見出すことが出来ない。これはあまりにもキリスト教的偏見をもった言い方であろうか。その虚無への抵抗をする勇気が実は思いわずらいを無理に押し隠す努力ではないのであろうか。
最後に私たちが考えたい生き方は、自己を偽る必要もなく、虚無から恐れて目をそらす必要もなく、それを正視し、実はその虚無的な現実の背後にあるものが、われわれに存在の意味と勇気とを与え、われわれを素直にやすらかに創造的たらしめる愛であることを知って、信頼の生を送る態度である。このためにはイエス・キリストの十字架と復活の事件が私達に現在語りかける神の言となり、私達がそれにとらえられ、神が虚無の力に十字架と復活を通して勝利を得たことを信じ、神の愛の中で決断的な創造の生を送るようにならなければならない。イエス・キリストの出来事が語ることは、そこで神御自身が私たちに無条件で罪の赦しを語り、死の力がそこで神により破られていることである。もはやこの出来事の中に信仰により入れられ、この出来事により神の赦しと復活の言をきいたものは、罪や死の力が最後的に自分の存在の意味を奪い得ないことを知っている。虚無に対抗する絶望的勇気に生きるのでもなく、自己を偽るのでもない。素直に創造者の愛を信頼して、わるびれずに自己の罪を告白し、そして罪赦されたものとしての喜びにみちた、意味のある創造的生を生きるのである。
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2002.10.11