野呂芳男「贖罪論の実存論的理解方向」 Home > Archive / Bibliography
贖罪論の実存論的理解方向
野呂芳男 0 1 2 3 4
初出:『パウロ研究−松本卓夫博士古稀祝賀論文集』青山学院大学基督教学会編、1961年、209−238頁) 。後に加筆の上、『実存論的神学』第6章「キリストとしてのイエスの出来事」の一部として再録。
此の小論における私の意図は、組織神学的考察において実存論的な立場が、贖罪論をどのように理解するか、その方向を明瞭にすることである。そして此の小論を色々と学問的に又人間的にお世話になった松本卓夫教授に献呈させて戴く訳であるが、教授のご希望である主題『パウロ神学』に、此の小論が直接的に関係しないことを私は恐れている。併し、贖罪の問題はパウロにとって中心的な位置を占めていたのであるから、そのような間接的な仕方でパウロ神学に関係する此の小論も、お許しを願って献呈論文の一つとして数えて戴ければ幸いである。
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伝統的・古典的なキリストの人格についての教理、すなわち、キリスト論によれば、イエス・キリストは神性と人性とを、混合することなく分離することなく所有せる一人格である。キリストは二千年前、歴史の中に実在した我々と同じ一人間であったが、しかしこのキリストが同時に神としてあがめられたのであって、その神性の面から言うならば、永遠の昔より存在し、天地の創造にあずかったところの、神より生まれ、神とその本質を同じくする神であり、三位一体の神の第二格の独り子なる神である。その神が処女マリヤにおいて受肉し、この現実の時間的世界の中に入り来たり、三十有余年の人間的生活を送ったのち、最後には十字架の死をとげたのであるが、やがて復活し、そして昇天し神のみもとに帰り、今もなおこの世界を支配しているのである。そしてこのキリストはもう一度この時間的世界の中に、世の終わりに審判者として再臨すると信じられている(1)。
キリストの人格についての教理であるキリスト論は、以上述べた如くに、一つの正統的な又普遍的な教理として、初代の教会においてすでに確立されたが、一方キリストの業の効用に関する教理、すなわち、贖罪論については、教会の歴史において普遍的(Catholic)な正統説とでもいうべきものは今迄存在しなかった。たとえば我々が普遍的な正統説であるかの如く考えているところの満足説や刑罰代償説というものは、教会の教理の歴史においてはそれほど古いものではない。それらは恐らくアンセルムス(Anselmus)の「神は何故人となり給うたか」(Cur Deus homo?)以後において、十分な組織的形態をとって来たものであると言えよう。今ここに簡単ではあるが教会の教理史上に大きな役割を果して来た贖罪論について紹介してみよう。
先ず第一に、アウレン(Gustaf Aulen)の言葉を使うならば、古典説(Classic Theory)又は劇的説(Dramatic Theory)と言われている贖罪論がある(2)。これは非常に古くからあった贖罪論で、教会教父はほとんどこの贖罪論に立っているということができる。この贖罪論は、悪魔的な勢力と神との、劇的な戦いを主題にして展開されている。すなわち、神はキリストの十字架の死と復活を通し、悪の諸勢力のすべてに対し偉大な決定的な勝利を得たのである。従ってこれらの悪の勢力は、もはや人間に対する支配能力を失ってしまったとする。人間はキリストへの信仰を通して勝利に満ちた神との交わりに入る。そしてすでにこの地上において、来るべき世界の力を前もって味わっているとする。勿論今でも、この地上に生きる限りは、悪魔的勢力がその余力を人間の上に保っているのであるが、決定的な戦いはあの十字架と復活で終了しているのであって、勝利は神のものと決定していると此の説は言うのである。
このようにこの宇宙的な劇が、神の悪魔的諸勢力に対する勝利で終わるということが、此の古典説によれば、贖罪を構成していることである。なぜかというに、神と世界との間に新しい和解の関係がここに成立するからである。それだけではなくして、以上の如くこの贖罪論では、二元論的に神と敵対的勢力との関係が一応考えられているのであるが、しかしこの贖罪論の特長は、これらの諸勢力が終局的には、神の意志に対する奉仕をなさざるを得ないものとみられていることである。言いかえるなら、これらの悪魔的諸勢力は、神に敵対する諸勢力であるとともに、一面では神の業を執行する代理者たちなのである。この面からみられるなら、神に敵対する諸勢力に神が勝利を得られるということは、神が神自身と和解するという意味をもっている。すなわち、神が世界を御自身と和解せしめるというその悪魔的諸勢力の征服行為において、神自身が御自身と和解していると言い得るのである。このように後に述べる司法説などとは異って、この贖罪論の特長は神御自身が始めから終わりまでこの贖罪の業を果たし給うという主張の中にある。なるほど後に述べる司法説においても、贖罪の行為の根源は神の意志の中にあるのであるが、しかし司法説においては、贖罪は、人間としてのキリストが、神に対して捧げるものであるという角度からみられている。ここには、この古典説にみられるような、始めから終りまですべてが神の継続的業であるという面が軽視されているのであって、そこには神の業である贖罪の途中において、人間としてのキリストの業が入り込んで来ている。今まで考察してきたところから理解されるように、この古典説においてこそ最もよく神のアガペー的意志があらわれていると私は思う。
第二に取り扱いたい重要な説は、司法説(Juridical Theory)である。これは中世期のアンセルムス及び宗教改革者たちが持っていた説である。ただし、スウェーデンの神学者たちの研究によって、宗教改革者マルチン・ルター(Martin Luther)が、この説を主張する方に傾いていたのか、又は、すでに取り上げた古典説を主張する方に傾いていたのかは、現在論議のあるところではあるが、しかし、カルヴィン(John Calvin)が、この司法説を保持していたことは疑う余地がない(3)。
この司法説の中に、いわゆる満足説と言われているものと、刑罰代償説と言われているものとの両方を含んで、私は意味しているのである。満足説といわれるものは、その代表的な例が、前掲のアンセルムスの「神は何故人となり給うたか」の中に書かれている。ここにおける満足という概念は、中世期における個人法(private law)から取られた概念である。すなわちそれは、なされた悪に対しての償いを意味しているのである。ところが、神に対して犯した罪のためには、人間は償いをなすことが出来ない。なぜならば、その罪は無限の完全者なる神に関わるものであり、従って、その罪責も必然的に無限であるからである。ところが若し、この人間が神に対するこの満足をなし得ないならば、人間を造った神の目的は破壊されてしまうと言ってもよい。神は人間を祝福に与らせるために創造したからである。さて、ここで人間が要求されている償いは無限である。神御自身のみがそれを供給することの出来るものである。それ故に、神はキリストにおいて人間になったのであり、その一人間において神の永遠の独り子が、一人格を形成するような仕方で人間性と御自身を結合されたのである。すなわち、この神人なるキリストは、人間にとって最高の義務である、完全な服従の生涯を送り、自己の生涯に不当な死を経験し、そのことにより、人間のもっていた神への負債を満足に支払ったのである。更に、神に対する負債を払ったこのキリストの態度が全く自発的なものであったが故に、その功績は無限である。正義上、神はその功績に対して報いを与えなければならない。しかし、神の独り子が神から要求すべき報いは、全然ないのである。そこでその報いは、罪の赦しという形で全体としての人類に向けられたのである。この報いが、恵みの手段である聖礼典を通して、信仰者にまで伝えられると言うのが、アンセルムスの贖罪論である。
刑罰代償説と言われているものは、マルチン・ルターがそうであるかどうかは先程問題にした点であるが、とにかく、カルヴィン並びにそれ以後の多くの神学者たちによって採用された贖罪論である。この刑罰代償説とアンセルムスの満足説とを歴史的につなぐ様な神学者たちが時代的に両者の間に存在するわけである。例えばボナベンテューラ(Bonaventura)やトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)などにも見られるのがこの連結的観念であるが、彼らにおいては満足か刑罰かというアンセルムスの選択が捨てられている。アンセルムスは、人間としてのキリストが神に対して満足を支払うか、又は、神の刑罰を人間としてのキリストが背負うか、というこの二つを対立概念として取り扱い、前者を選んだのだった。
ところがボナベンテューラやアクィナスにおいては、一人の人間が他の人の罪のために刑罰を受けることは、同時にその罪のために満足をなすことでもある、という概念があらわれている。従って、刑罰代償説の満足の概念は個人法ではなく、むしろ公衆法(public law)から取られた概念である、と言うことができる。すなわち、ここでは、法廷における裁判者として神が考えられている。アンセルムスの場合のように、共に裁判者の前に呼び出された二人の人物のうち、一人が他に対して満足を支払うというような角度からは、贖罪論がここでは展開されていない。ここでは、満足が刑罰を要求する法廷的正義として取り上げられている。すなわちそれは、刑罰を通しての満足であるということができる。満足が、人間の罪のためにキリストがその総ての刑罰を自己の上に背負い給うたという意味において成就されたものととられているのである(4)。
以上の如く、司法説は満足説と刑罰代償説に大体区分できるものと思われるが、しかしこの両者において共通な点は、イエス・キリストが人間の罪の責任を背負い神に服従を捧げることにより、神を満足せしめたということである。この満足についての概念の相違は、以上の如くであるが、とにかく彼の死は、我々のための代理的死であったということである。ここでは古典説と異って、人間としてのキリストが、贖罪の主要因として強調されている。
第三に私の取り上げたい説は、中世期の神学者アベラール(Abelard)によって代表されている主観説(Subjective Theory)といわれているものである。この説によると、イエス・キリストの生涯と死とは、何らそれ自身で特別な効果を人間と神との関係に対して持ったものではなく、むしろ、すでに常に真実であったところの真理の明白な宣言という以外に、何も意味を持たないのである。すでに常に真実であった真理とは、人間を神が父のような愛をもって赦し愛するということである。従って贖罪の結果が効力を発するのは、人間の魂がイエス・キリストの影響下に来て、その真理を受けいれ、悔改めに導かれた時である。この贖罪論によれば、人間が悔改める以前に贖罪の効果は存在しない。神と人間との間に、その前には存在していなかった新しい関係を、イエス・キリストの生涯と死とがもたらしたのではなく、むしろすでに両者の間にあった関係に、キリストを通して人間が自覚的に目覚め、それに積極的に参与するということに過ぎない。この説の長所は、信仰者の存在が贖罪の主要因として、その中に取り入れられていることである。この点が、以前の古典説や司法説には欠けている。前の二説においては、キリストが人々のために何かをしたのであって、信仰者一人一人の実存はその贖罪の業に直接的には参与していない。いわばそこでは、信仰者は贖罪の劇を眺めて、それからそれに飛び込むのである。ところがこの主観説においては、実存の参与がそのまま贖罪としてみられている。
註
(1) 例えばニケア会議における有名なキリスト論的発言を引用すれば次の如くである。Et (credimus) in unum Dominum nostrum Iesum Christum Dei, natum ex Patre unigenitum, hoe est de substanta Patris, Deum ex Deo, lumen ex lumine, Deum verum de Deo vero, natum, non factum, unius substantiae cum Patre, per quem omnia facta sunt, quae in coelo et in terra, qui propter nostram salutem descendit, incarnatus est et homo factus est et passus est, et resurrexit tertia die, et ascendit in coelos, venturus indicare vivos et mortuo. (Denzinger : Enchiridion Symbolorum, editio 29, Herder, Friburgi, Brisg., 1953, pp.29−30
(2) Aulen, Gustaf : Christus Victor, trans. by A.G. Hebert, London, S.P.C.K., 1950 pp.20ff.
(3) スウェーデン神学のルターの贖罪論理解に関しては次の書物が良く紹介している。Carlson, Edgar. M. : The reinterpretation of Luther, Westminster Press, 1948, esp. pp.48ff.
(4) この点に関して非常に優れた叙述がJ・S・ウェールによってなされている。ウェールは、前掲のスウェーデン学派とは異なった角度からルターの贖罪論を取り上げている。彼によるとルターの贖罪論は、やはりこの刑罰代償説的なものであって、スウェーデン的ないわゆる古典説とは異なったものとされている。Whale,J.S. : The Protestant Tradition, Cambridge, The University Press, 1955, pp.74ff.
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このようなキリスト論並びに贖罪論は(1)、一体この私の実存にとってどういう意味をもっているのだろうか。私はこれを新たに今日の実存論的な聖書及びキリスト教の解釈という状況の中で問題にしたい。過去の伝統を反省することなく、そのまま受け取っていくことは、真実の意味で伝統に忠なるものとは思われない。むしろ伝統は、絶えず今日という状況で実存的に反省され、解釈し直されて行かなければならないものであろう。私は、私の実存を真実たらしめるような、そういう仕方でキリスト論や贖罪論の方向がたどられ得るならば、それが最もよきキリスト論であり、贖罪論であると思うのである。何故なら、ブルトマンが示したように、聖書が聖書自体を我々に理解させたい方向は、実に、実存論的な解釈であって、伝統的な贖罪論は聖書の神話の上に基礎をおいたものであるが故に、聖書の非神話化は当然これらのキリスト論・贖罪論の再解釈を要求しているのであるから。このような方向をたどることは、決して伝統を否定することではなく、むしろ、伝統を解釈しなおすことである。
先ず贖罪論から始めよう。アベラールの主張したような主観説の長所は、先に述べたように、私の実存が贖罪の主要因をなしているということである。従って、この説の欠点があるとすれば――私はあると主張するのであるが――それはこの説に、実存の参与がないという点にはない。この主観説の欠点は、むしろ神と人間との関係がいつでも一様なものと考えられ、神の怒りの現実が真剣に問題にされていないところにある。カール・ハイム(Karl Heim)の言葉を使って表現するならば、アベラール的な贖罪論のもつ窮極的な欠点は、――それは余り顕著な仕方で現れていないけれども、結局のところ、――そのような教理は無関心の宗教を人間に与えるということにある。すなわち、神の本質が、人間が神に反対してなすところのすべての事柄を超越しているという考え方がこの説の背後にある。ここに、神が人類との関係において無関心であるという、ハイムの批判がなされる余地が存する(2)。神は真剣に罪に対して怒るのであり、いつでもその罪人を、赦し愛さなければならない義務を負ってはいない、と私は思う。この真理こそ、聖書の中で、満足説や刑罰代償説を支持するように見える神話的発言が、意味している実存論的意味内容ではないか。この点、主観説は非神話化ではなく、近代主義的使信削減である。イエス・キリストが与えられたということは、怒るのが当然であるその神が、我々を赦したという、逆説的な驚異的な音信を意味した。いつも変らずに我々を愛し赦すところの神が、たまたま自己の赦しの愛を例証するために、キリストを歴史の中に送ったという如きものではない。すなわち、キリストとしてのイエスの出来事が、赦すべからざる罪人をも今こそ赦そうとの、新しい、神の側に大きな犠牲を必然的ならしめた――この犠牲こそ司法説がその神話的話法で言おうとしているものである――罪の赦しの言であるという、このキリストの事件の恐るべき愛の事件としての性格を、十分に現していない点に、この説の持っている最大の弱点があると私は思う。
司法説の最大の欠点は、それが満足説であろうと刑罰代償説であろうと、神が何か自己の義を満足させてくれるものを人間の側から求めてからでなければ、人間を愛さないかのような印象を与える点にある。この説に伝統的な形態で表現されているような神の愛は、何物をも自らのために求めず、ひたすらに他を愛するという、あの聖書の神の愛の観念であるアガペーと対立する。この点はスウェーデン神学が最近非常に輝かしい業績をもって研究してきた点である。更にこの司法説の欠点と考えられることは、それが神の義と愛との相剋という点にある。義と対立するような愛は感傷的な甘い愛にならざるを得ない。なぜならこのように神の愛が義から一応切り離され、対立するものとして把えられるときには、いきおいその影響がキリスト者の愛の持ち方にまで及ばざるを得ないのであるから。更に、アンセルムス的な形態であろうと、カルヴィン的な形態であろうと、この司法説においては、次のようなカール・ハイムがアルトハウスの言葉を引用しながら批判している事実が成立すると思う。すなわちハイムによれば、この説は確かに人間の罪責を直視し、そして罪人なる人間がその罪責に対する満足をなし得ないことを証ししている。しかしこの説は、人間の罪責と神の聖とについての、十分に徹底した理解を欠いていると言える。なぜならこの説は、満足が如何なる形においても絶対に不可能であるということを自覚していないからであって、人間としてのキリストの捧げる満足――それがアンセルムス的な満足説の形態であろうが、又は、刑罰代償説的な形態であろうが――が神の前に我々の罪責と同価値を持ち得ると主張する。ハイムによれば、生と死に拘わるような戦いが、この説においては、市民的な法廷の中の交渉という形に置きかえられているのであって、その交渉を通して、裁判官と罪を指摘された者とが、裁判の一定の規則に従いお互いの理解にまで到達するということになっている。これはすでに神が人類の代表者によって影響され得る存在に変えられていることであるが、そういう神は相対的である。この世界という次元の中で、我々が同等の立場で取引きの出来る相手へと変えられている。ところが、永遠者なる神に対しては、たとえ代表者という手段によっても、人類は何ら神自身の物でなかったものを捧げることは出来ない。神が、この満足説並びに刑罰代償説においては、我々がその心を知ることができ、その性質・義、又は恵みを知っているが故に、影響を我々の側から与え得るものとしてとらえられているのである(3)。以上の叙述で明瞭にされたように、聖書の贖罪論的神話の上に基礎を置いているこれらの満足説及び刑罰代償説は、信仰者が神に対して持つべき、聖なる畏怖と絶対的な依存感とを破壊してしまう。しかし何と言ってもこの説の持つ最大の欠点は、ここでは私がキリストのなす業に対して傍観者の立場を取るということである。このような傍観者的態度を、聖書自体がその中に存在する終末論の解釈において棄却しているのであって、聖書の中の贖罪の神話も実存論的に解釈されるべきだ、というのが実存論的聖書解釈の主張である。従って、聖書の神話に基礎を置く教会の歴史的贖罪論も、この立場から見て傍観者的なものであるならば、再解釈されるのが当然である。司法説によればキリストが私の代りに贖罪の業をなし給うのであるから、私はそのキリストからある間隔を置いて立ち、これを傍観者的に眺めることになる。勿論、傍観者がそのキリストの業に感動して、その傍観者的行為の後、自己自身をそのキリストとの関係の中に立たせることはあり得る。しかしこの場合でも、人間が神によって罪赦されているという、神によって打ち立てられた愛の関係の只中で、感謝しつつ応答するあの真に実存的主体的な信仰の場からは、幾分ずれている。むしろ人間は神がどの程度感動的な業を、自分の罪を赦すための手続きとしてなして下さったかを知ろうとし、その傍観者として獲得する客観的知識によって、感動させられるのを待っているのである。これは芝居見物の人が、その芝居の演技に感動させられるのを待つのと同じ心理状態である。ブーバー(Martin Buber)の言葉を借りるならば、人間と神との関係はこの場合、「我とそれ」との関係であって、本来の神と人間との関係がそうあるべきであると聖書が主張している――勿論、我々の実存的理解によっての話であるが――あの「我と汝」との人格的関係ではない。
我とそれとの関係が、人間と人間という同じ次元での人格的関係において、必要であることは言うまでもない。人間である汝を知るにあたっては、我々は、その汝の世界史的な出来事である客観的対象でありうる過去の歴史を知ることにより、更に現在におけるその汝との邂逅を真実の意味で深く把握出来ることは、確かにあり得ることである。これはこの相手の汝が、それというような形で我々に出会う肉体的次元をも、その中に含んでいる存在であるからである。人間は、世界史的な出来事の中にも自己の存在の部分を投入しているところの存在であり、しかもその世界史的な出来事を越えて、我と汝という人格的な関係の中に入って来ている存在である。
すなわち、相手の汝に対して常に将来的な決断を持ち、その汝と共に将来を築き上げて行こうというような意図をもった人格的愛の関係に入っているものである我が、――これが我と汝の人格手的関係の内実であるが――しかも、その人格的関係の中で、相手の汝の持つ肉体的次元に属する事柄、又は、世界歴史的次元に属する事柄、すなわち、相手の汝を一応それという形で自己に邂逅させるような事柄、を知ろうとしなければならないし、又、そうすることが相手との「我と汝」という人格的関係を深めることなのでもある。しかし問題は、神に対して我々が、人間という汝に対すると同じような関係を持ち得るかということである。この点に関して、我々が注意しなければならない点は、結局のところ、信仰という事柄の理解にこの問題は到達する、ということである。信仰はその中に、人間としての汝と同じような仕方で、神をそれとして知るような次元を所有するものではない。この問題を更に、後に信仰という事柄を取り上げる時に、私は問題としたいが、結論を先にここで紹介した訳である。
古典説の欠点も同様な点にある。ここでも我々は、神と悪魔的な諸勢力との間の闘争や神の勝利を観劇するところの傍観者である。前にもその説を紹介したハイムは、このような古典説が持つところの、人間が神と悪魔との闘争を第三者的に傍観するという欠点を修正することによって、この古典説を活かそうと努力している。ハイムによるならば、新約聖書において特にそうであると彼は主張するのだが、悪魔は人間の自由を通して働くものとされており、悪魔的勢力と人間の自由な意思的決断とが同一のものとして把握され、悪魔的な勢力が人間の自由意志的決断をその中に含むものとして把握されているが故に、この古典説には人間の実存の参与があるのであって、決して人間はここで、神と悪魔との闘争を傍観する第三者的な存在ではない、と主張されている。しかし、このようなハイムの考え方においても問題になる点は、この悪魔的な諸勢力が人間の神との対決という実存的関係とどういう関係にあるのか、人間の神への強烈に集中されてあるべき実存的態度は、これらの悪魔的勢力への顧慮によって否定されないだろうか、というような疑問がなお残るであろう。すなわち、ブルトマンがその非神話化論で展開しているように、結局このような悪魔的諸勢力の考え方は、人間の神への実存的決断を回避させるところの、又は、人間のその決断と矛盾するような意味の神話的要素ではないだろうか、という疑問が残るのである(4)。
最近のある神学者たちは以上の如き伝統的な贖罪論の欠点を自覚し、これを救うために一つの新しい方向を歩み出したように思われる。それはキリストの贖罪の業を――古典説を活かして――神の直接的な行為とし、しかも、――そこに司法説の持っている要素を活かして――神が自己に苦悩を背負わせることによってのみ人間の罪を赦すことが出来るとする考え方)に明瞭にあらわれている。この最も良き最近の例を掲げるならば、ドナルド・ベイリー(Donald M.Baillie)、エドウィン・ルイス(Edwin Lewis)であろう。ベイリーは永遠の十字架を語る。その意味は次の如くである。神は受肉においてキリスト・イエスにおける苦悩を、御自身の本質においても背負ったのであるが、しかし同時に、神の苦悩は、単に歴史的な出来事だけではなくして永遠なるものであり、人間の罪のために今もなお神は苦悩を背負い給うのである。ルイスはもっと徹底した考慮を払っている。神はあのカルヴァリーの丘におけるイエスの十字架の出来事において、その時その場において、神御自身の永遠の本質の中に於いて傷(scar)を受け給うたのであり、それ以後、神の永遠の本質が変化を来たし、永遠に亘ってその本質に傷を負う者となったと言う。この両者は、このような形で、神の永遠の本質に苦悩を背負わせることにより、伝統的贖罪論が持っていた欠陥を脱却しようと努力している。このような最近の贖罪論の方向において、私は次の点を注意したいと思う。それは、神の永遠の本質の苦悩と、神が人間との関係において背負い給う苦悩とを区別すべきである、と私が思うからである。もう少し、この点を十分に説明するために、最初に苦悩を神の永遠の本質にまで背負わせようとする神学的思考方向をたどってみることが必要であろう(5)。
ロシアの思想家ベルジャエフ(Nicholas Berdyaev)の如きは、神御自身が人間の罪のために十字架にかかり、人々に御自身の苦しみ姿を見せ、人間はその苦しみの姿を見て神に引付けられ、人間固有の自由においてこの神を信じるに至る、と言っている(6)。スペインの思想家ウナムノ(Miguel de Unamuno)の如きは、神は十字架において、最も同情される憐れむべき存在として自己を示していると主張し、人々はその神に憐れみを憶え、神を愛するに至るとしている。なぜならウナムノにとっては憐れみこそ愛なのであるから(7)。
このベルジャエフやウナムノの神の苦しみの表現は、文字通りにとられその背後にある彼らの意図に同情的でない立場から見られるなら、父神受苦説的である。これを私は好まない。なぜならば、キリスト・イエスにおいて神が苦しむと言うならば、そこで問題にされている神の苦悩は過去的なものである。私はここで「過去的なもの」という表現により、二重の意味を表現したい。その一は、単純に時間的過去として、我々の実存に決断を迫る将来的なものではない、という意味であり、その二は、それに対して我々が対象的・非実存的取扱いをせざるを得ないように強いられるような、将来的なものでない客観的対象という意味である。神があの二千年前のキリスト・イエスにおいて、どのような程度にまで傷つけられ苦悩を背負われたかを、これらの思想は問題にしているのであって、この時間的に言って過去的な神の苦悩に対して、私は傍観者たらざるを得ない。併し、問題はそれだけに留まらない。我々との関係を離れて、神の永遠の本質の苦悩を語ることは、たとえそれが現在の事態について語っているとしても神を対象化することである。その意味においても神を過去的にすることである。ウナムノの憐み(pity)という言葉がこの事態を良く示している。憐みは愛と異なり、憐みにおいては憐まれる相手は汝ではなく、それになってしまっている。
実存論的な聖書及びキリスト教の理解を前提とするならば、神を過去的なものとして提示する神学的思考はすべて、聖書自体の要求する解釈並びに理解の方向と反するが故に、退けられねばならないのである。
しかし、愛するということはその愛する相手のために痛み苦しむことである。この要素がない時には、それはもはや愛ではない。それではどういう仕方で神の我々に対する愛を語り、神の苦しみや痛みを語ったらよいのだろうか。先ず、キリストの事件を過去の行為と関係に限って語らないことが必要である。すなわち、キリスト・イエスの生涯及びその十字架を、現在神が私を愛しているその愛の関係の象徴として理解することである。神はあのキリストの生涯及び十字架に象徴されているような愛で、今この私を愛しているのであって、その今の神の私に対する愛の事態を語りかける、神からの罪の赦しを根底とする愛の言葉の原型こそ、イエス・キリストの事件である。従って神が今私を愛するその愛は私の不従順により傷つけられ、破られ、苦しみを背負い、痛み給うのである。即ち、救いの出来事(キリスト)としてのイエスの出来事の唯一性・独自性は、その出来事が過去の歴史上の唯一点において起こったという、度数の一回性、又、キリストの人格の秘密の独自性という意味ではない。もしそうであるならば、我々は過去の回想に中心をおいた神関係の中に生きることになり、それは実存的な聖書理解に立つものにとって許容されない事柄である。むしろ、キリストとしてのイエスの出来事の唯一性・独自性は、その出来事の質にある。神が罪人なる人間を、罪人なるままに受容し愛するという、この事件の持つ特質こそ、その独自性である。しかも、ある過去の歴史のイエスにおいて、この独自的なキリストの事件が起こり、そのイエスにおいて、神御自身が歴史の中で実在したもうた(これこそ受肉の真理である)ように、今も尚、教会においてこの独自的な事件は、説教・聖礼典・交わりを通して実際に生起するのであり、神御自身と教会の中で歴史内において出会い得るのである。これこそキリストの霊が教会の中に内住することであり、教会はこの意味において――即ち、ローマ・カトリック的な神秘的な意味においてではなく、前述したような事件的な意味で――受肉の延長である。ブルトマンやゴーガルテンの実存的なキリスト教理解が、無教会主義的・非典礼・非典礼的キリスト教の理解を導き出すのではないか、との恐れは杞憂であって、むしろ、その逆こそ真である。徹底的に人間的であり地上的であるものと共にそれを通し、それにおいて徹底的に神御自身と出会うという、ニケア・カルケドン的なキリスト論的告白を、真に現在の出来事として教会的に問題にすることこそ、実存論的キリスト教の理解である。無教会的キリスト教の理解に、古典的なキリスト論の理解の不足を見出すのは、私だけのことであろうか。
勿論、キリストの生涯及びその十字架を、現在神が私を愛していることの象徴又は原型として理解するということは、あのアベラールの主観説に於いて代表されているように、神がいつでも普遍的な仕方で私を愛しておられ、その普遍の愛の象徴がキリストの生涯及びその十字架であるということではない。これが誤っている点については前述した通りである。ここで私が言う象徴とは、神がイエスという存在を我々の歴史の中に送り給うたということが、神と我々との間に新しい関係の設定であることを前提にしているのである。赦されるべきでない筈の我々を、神が赦そうと決意され、その赦しの言葉であるイエスを我々に与え、彼において表わされている神の愛に全てを投げかける信仰者を、神との全く新しい愛の関係の中に入れ給うのだということが前提にされているのである。
ここで私は、二つの点について注意しなければならない。第一に、既に前述せるところにより明瞭なことであるとは思うが、「象徴」(symbol)という言葉を私は、ポール・ティリック(Paul Tillich)が記号(sign)と区別しているその用法にならって用いていることである。象徴は記号とは異なり、それが象徴する当の実在に参与しているのであるから、神の赦しを土台にしている愛は、その原型的象徴であるイエスにおいて、実際そこに現在していたのであり、又、その原型的象徴に服従しつつ、今の教会が象徴的行為(説教・聖礼典・典礼・交わり・奉仕)をなす時、そこには実際赦しの神御自身の現在が、それと混合せずに存在するのである。これこそ受肉の延長である。
第二に象徴的に言って、神が罪人なる人間を、それにも拘らず赦し愛すると決意し、イエス・キリストを我々に与え給うた時、神の側において起こった犠牲が語られねばならない。怒りの対象である人間を神が愛するのであるから、そこに北森嘉蔵教授の言う「神の痛み」が語られるべきである。古典説の良き点であり、司法説の欠点である、あの神のアガペーが徹底的に貫徹されているかどうかの問題にも関連してくるが、この「神の痛み」は、神における義と愛との対立相剋について語らず、神の怒り(裏切られた愛への神の反動)を、キリスト・イエスの事件以来――この「以来」ということを言ってよいかどうかは、北森教授の神学においては不明瞭なるままにとどまっているように私は思うが――克服している神を語り、その克服の時の「神の痛み」について語っているのである。だから、ここには、懸念されるような神の義と愛との対立はなく、神の愛はセンチメンタルなものにならない。更に、北森教授の場合には、人間としてのイエス・キリストが贖罪の主動因ではなく、古典説の特徴である、終始一貫贖罪が神の業であるという主張が保持されている。司法説が神話的な表現で語っているのは、実に「神の痛み」のような形で言い表わされ得る、神の犠牲のことである。もしこの「神の痛み」が、キリストとしてのイエスの事件以来、今も尚、同質的に教会の中で事件的受肉をしていると言い得るならば――これが北森教授の意図ではないことの方が可能性があるが――この「神の痛み」は極めて実存論的なものである。このような実存論的な「神の痛み」に目を注ぐことは、将来的な神からのケリュグマへの応答を喚起することになり、非終末論的過去回想ではなくなるであろう。
しかし次に、神の苦しみや痛みは、神の私に対する関係内の出来事として、関係の中だけに限定されて語られなければならない。これが、何故実存論敵神学が「父神受苦説」であってはならないかの理由である。神話的な三位一体論の用語を用いるならば、「子なる神」についてのみこのような苦悩や痛みは語られるべきである。実存との関係に限定された神こそ、この神話的表現である「子なる神」が意味するものである。我々との関係を超越している神である父なる神についてはこのことが語られてはならない。なぜなら、この関係を越えて、神の永遠の本質の中に、この痛みや苦しみがどういう位置を占め、影響を持つかを考え始めるならば、それはもはや神を傍観者として、美的鑑賞的に眺めているのであって、信仰の厳しさにそぐわない。信仰とは自己が救われて行くということに脇目もふらずに集中してゆくことであるから。信仰の場においては、神が我々の不従順に苦しみ痛みつつも、なおも我々を愛し続けているという愛の「我と汝」の関係だけに徹底的に深く生きることこそ信仰者の真の態度であろう。これこそ聖書の要求する信仰者の態度であろう。
フリードリッヒ。フォン・ヒューゲル(Friedrich von Hugel)が神の不受苦性を称えて、如何なる意味においても神に本質的な痛みを帰することに反対したのも、根底的には極めて実存的な理由から来ていると私は考えている。その理由の第一は、人間と神との関係の外側で、それを超越したところで、神に苦悩を帰してはならない。何故かというと、それは神を客観視し信仰に関係のない探求であるから、という意図から出ていると思われる。第二に、フォン・ヒューゲルが守ろうとしたのは、表面的には非実存論的な表現においてではあったが、神の永遠の本質にまで苦悩を帰することは、神が苦悩さえも超越し給う方であるという神の超越性が失われる危険がある、と彼が信じていたからである。このようなフォン・ヒューゲルの危惧は極めて関係的であり、実存的であったと言える。ところがある所では、フォン・ヒューゲルは神の苦悩を象徴として可能であると、その存在を許している。それ故このようにフォン・ヒューゲルが神の超越性を主張するために不受苦性の主張を持っていたと同時に、しかしある時には神の苦悩を象徴として許さざるを得なかったことは、実は前述せる如き神の痛みや苦しみを神の人間への関係内の出来事として言おうとする、フォン・ヒューゲルの意図をあらわしているように私は解釈するのである(8)。しかも、此の関係内でも、痛みや苦しみが最後の言葉でなく、むしろ、痛みや苦しみをも超克する神の勝利のどよめき、喜びこそ最後の言葉であると言うのが非実存論的な表現において言おうとした、フォン・ヒューゲルの実存的な意図であったと言い得ると私は信じている。神話的な表現での聖霊なる神が、慰めの霊、喜びの霊であるのは、神とに人間との関係の最後の言葉が痛みを越えたものであるとの実存的真理を表している。これこそ、フォン・ヒューゲルが主張した神の不受苦性の教理の背後にある実存的真理内容であろう。
註
(1)贖罪論の諸形態についての大変まとまった紹介と批判とがクイックによってなされている。尚クイックは以上の三形態の他に、新約聖書へブル人への手紙の中に表現されている犠牲説(Sacrificial Theory)を取り上げ、この説に自己の贖罪論を根拠づけているが、犠牲説は、今までの教理史上大きな位置を占めてきていないので、ここでは紹介しなかった。ウェールもこの犠牲説に賛成している。この説の特徴は次の点にあるように思われる。?キリストは、人間の方から神の怒りをなだめる犠牲ではなく、むしろ神の方から人間への賜物である。?だから贖罪においては、神の方から和解の手を最初に差し伸べたのである。?犠牲はそのきよさに価値があるのであって、キリストが人間としての苦しみを知り、誘惑にすべて打ち勝ったのは、このきよさを獲得するためである。?犠牲の効果は、神の側に影響を及ぼすことになく、むしろ、その犠牲を捧げたものとしての人間の側に影響を及ぼすものである。すなわち、その犠牲なるキリストのきよさは、人間が自己自身のものとして獲得して行くという聖化の面に影響するのである。以上が大体ウェールやクイックの主張する犠牲説であるが、この説について私は次の点を問題にしたい。その第一は、この説が贖罪の効果を聖化と結びつけているという点であって、この点についてこの説は、むしろ主観説と似ていると言うことができる。ここでは、主観説にあらわれているように、贖罪における人間の側の参与がその主要因として取り上げられていると言い得る。そこにこの説の強みがある。しかしこの説においてもキリストの犠牲が、神がその赦すべからざる罪人を、しかも赦し給うという、あの怒りから愛への転位を問題にしていないという点で、やはり主観説と同じ欠点を持っていると言える。すなわち、キリストは、赦すべからざる罪人であった者をしかもその罪人のままで赦そうという、神の意志の新しい決定を意味するものであるとの面が、この説では現されていないのである。Quick, Oliver Chase : Doctrines of the Creed, London Charles Scribners Sons, 1951, pp.216ff. Whale, John S. : Christian Doctrines,Cambridge, The Univ. Press. 1952, pp.74ff.
(2)Heim, Karl ; Jesus der Weltvollender, Hamburg, Furche-Verlag, 1952, pp.96ff.
(3) Heim, Karl ; op. cit. pp.99ff.
(4) Heim, Karl ; op. cit. pp.14ff. 更に、古典説が非常に力強い形で説かれている現代の神学者の著書に、エドウィン・ルイスの「創造者と破壊者」(The Creator and the Adversary)
がある。この書物でも同じように、問題は神に敵対する破壊者の力が、人間を通して働くというような考え方にあると思われる。ここにも人間に対する実存的関係と悪魔的勢力との関係が、聖書の神話的表現をそのまま発展させてような仕方で考えられており、実存論的神学の思考方法とは異なっていると言わざるを得ない。Lewis, Edwin ; The Creator and the Adversary, New York, Abingdon-Conkesbury Press, 1948.
(5)Baillie, D.M. ; God was in Christ, New York, Charles Scribners Sons, 1948, pp.190−202.
Lewis,Edwin ; A Christian Manifesto, New York, Abingdon-Conkesbury Press, 1934,p.170.
(6)Berdyaev, Nicholas ; Dostoevsky, trand. by Donald Attwater, New York, Meridian Books,1957, pp.196ff.
(7)Unamuno, Miguel de ; The Tragic Sense of Life, London, Macmillan,1921, pp.132−155.
(8)このフォン・ヒューゲルの神とその苦悩の問題については、その論文「苦悩と神」(Suffering
and God)を読むことが最も彼を理解するに適切であろう。Hugel, Friedrich von : Essays and Addresses on the Philosophy of Religion, second series, London, J.M. Dent & Sons, 1926, pp.167−213.上述の論文にあらわれているように、フォン・ヒューゲルは神が終極においては苦しみを征服するような喜びであるということを言わんがために、その超越性を守る意味で、神の不受苦性をいうのであるが、しかし同時にあるところである意味においての苦悩を神に言わざる得ないと言っている。そして彼は、我々が神に対して苦悩を帰することが出来ないのは、人間が経験するような意味での苦悩を帰することが出来ないのであるということをも付け加えている。そして神の同情を、ある意味においては苦悩又は苦痛というような表現をもって、表現せざるを得ないようなことをも、彼は認めているのである。そして彼は、神の永遠の本質における苦悩を否定しつつも、神が同情を人間に対して持つということを言い、そしてこの同情においてある時には、人間の経験する苦悩とは異なるけれども、苦悩というような表現を取らざるを得ないようなものを神が経験したもうと主張したのである。このように考えてくるならば、私が言うように、フォン・ヒューゲルの主張は、神と実存との関係内においてのみ苦しみや痛みを語ってもよいのであって、しかもその関係での最後の言葉は痛みや苦しみではなく、喜びであり慰めであるということを言おうとしたものと解釈しても、誤りではないと私が思う理由が明白になるであろう。Holland, Bernard edit. : Selected of Baron Friedrich von Hugel, London,J.M.Dent & Sons, 1927, p.329.
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一体我々が真実に実存しようとする時に、神がそのような客観的な手続きを経て我々の罪を赦し給うのかを知る必要があるのだろうか。一体そのような神の側の手続きについての客観的な知識を我々は所有しなければ、実存していくことが出来ないのだろうか。むしろ我々が知るべきことは、神が我々の罪を赦し給い、愛してい給うということであり、又、そのために神がどれ程の犠牲を今も払っているかと言うことであって、どういう操作や手続きを経て神が私の罪を赦し給うか、ということについての知識を獲得することではない。
むしろ、このように神の手続きについての客観的な知識を得ようとして心を配ることは、今罪赦されたものとして感謝し、新しく生まれ変わって実存していこうとする聖書が終末論的緊張をもって信仰者から要求する意欲と、相反するものではないだろうか。我々は神の愛の犠牲に感謝し、自分が新しく生まれ変わり、新しく実存していこうということのみにひたすら目を注ぐべきであって、この脇目も振らない集中を妨げるような傍観者の態度をとることは、聖書自身がなしている神の国の実存論的解釈の方向から見て的外れである。神がどのような手続きを経て私の罪を赦し給うたか、それは司法説であろうと、古典説であろうと、又はベルジャエフやウナムノのような苦悩する神の思想であろうと、それは私が聖書の要求する信仰者として実存するということには関係のないことである。
要するにこれは、信仰の真面目さの問題である。聖書のいう信仰とは、客観的な知識をどれ程沢山積み上げようとも、そのことによって養われるようなものではない。むしろ信仰とは、日々新たに神の愛の中に生かされて自己自身となっていこうという、神への決断的な応答である。私がキリストにおいて語られた犠牲に満ちた神の愛の言葉の中で、真の私になっていくということに、脇目も振らずに集中することが、真面目な聖書的信仰者の態度である。
聖書の神は、歴史の中にその肉体的次元を持っていない。神は従って我々の客観的知識の対象になり得ない存在である。これこそ神の超越である。人間である「汝」は、私にとってある程度客観的知識の対象になり、その客観的知識をもって更に実存的なその汝との交わりを深め得るものである。しかし、イエスの存在が歴史内に与えられたことも、又、イスラエルの歴史並びに教会の歴史の中における救済的な出来事もすべて、信仰をもってして初めて、その真の意味内容を開示するのであり、信仰をもってしなくても、その真の姿を露呈するような、客観的知識の対象にはならないのである。勿論それらを、世界史的な出来事として、私の窮極的宿命とは関係のない出来事としての次元でとらえるならば、確かに客観的な知識の対象になるであろう。しかし、そのような客観的な把握の仕方は、信仰とは一応次元の異なるものである。なぜならば聖書のいう信仰とは、自己の存在に意味があるかないかという、生死の問題に拘る人間の決断なのであるから。このような、自己の存在が、神の犠牲的愛の中に罪赦されたものとしてのみ、意味があるという信仰的決断は、イエスの出来事の中に、冒険的に神からの赦しの言葉の語りかけを見るのであり、このような冒険の土台の上に立って初めて、イスラエル民族並びに教会の歴史の中における神の働きを見るのである。これは、決して客観的知識ではなく、信仰的決断の上に存在する実存的知識である、と言うことが出来る。ところが我々が問題にしているところの古典説にしろ、司法説にしろ、これらの贖罪論は、我々の理性という機能において、いかにして神が我々の罪を赦すことが出来たか、という知識を得ようとしているのである。すなわち、信仰という決断を経ないでも、なおそこにおいて、誰にでも納得のいくような、理性的な客観的な論理を展開しようとする努力に他ならない。実存論的聖書理解の立場から見れば、このような客観的知識を獲得しようという努力が、神と人間との人格的交わりの関係においては、むしろ我々が神へ向かってなす、その実存的決断を妨害するものでしかない、と言うことである。なぜならば、我々はここで、理性的に信仰に関わりなく誰でもが、把握できる客観的知識を得て、それを足がかりにして、信仰的決断をしようとする誤りを犯しているからである。前述した、このような贖罪論は、神を観劇の対象とし、その観劇によって我々の方が外側から感動させられ、動かされようと意図しているのだと言ったのも、実はこの点につながっているのである。すなわち、客観的に、我々が決断をしないでも、理性的に把めるような形で。神がどのような合理的手続きを経て我々の罪を赦してくれたかを知ろうとする努力は、我々の側での自由の決断からの逃避であり、そこにおいて我々は外側から動かされようとしているに過ぎないからである。
このように考えるならば、我々が真の実存的生を獲得し得るようにと、神がイエスという人間の存在を与えることにより、本当は怒りの相手であるべきこの私に、怒りを超克する苦悩を自己に背負って、愛の言葉を象徴的・事件的に語り給うたということだけで十分ではないか。それ以上の何が必要であろう、
人間から神に至る道は全くない。そこには全くの断絶状態がある。人間の実存の側からは、生と死との問いへの答えは出てこない。しかし人間の側からは断絶であっても、神の側からは橋渡しが出来る。キリストとしてのイエスの存在は、実に神がその断絶の向う側から橋をかけ、我々を罪人であるにも拘らず愛するということを、一つの事件としてこの世界内において語り給うたことである。この言なくして、この答なくして人間は単にモノローグの世界に住むのであり、自己の存在の有無を言ってもそれは主観的出来事であるに過ぎないのである。
このように、イエスという愛の存在が与えられたということそれ自体が、我々の罪の赦しの語りかけであるとすると、一体イエスの十字架の意味はどこにあるのだろうか。何故なら、イエスの存在が歴史内で与えられたことが、すでに神からの罪の赦しの語りかけであるなら、イエスの生涯の終りが十字架であろうがなかろうが、本質的にはどちらでも良いということになるのであるから。実存論的神学においては、この結論は避けられない。併し、神はその摂理において、イエスがあのように死なれるのを許容された。これは、神の摂理の中で、この事件を通して神の愛の象徴が打立てられたことを意味しているのではないか。イエスの生涯における苦難とその十字架の死とは「神の恵み深き愛についての、信仰にとっての担保(Unterpfand)になる。その愛は人間がそれを拒絶する時にも人間を棄てない(1)(Heinrich Bornkamm)のである。更に十字架というこの神の愛の象徴的事件が、前述せる如くに、贖罪論における司法説を産み出し、この司法説が、十字架という時間空間の制約をこえた、神と人間との今の関係の、神の側の犠牲を表現している神話的形態であることは、イエスの死を十字架で終わらせた神の摂理の深さを覚えさせる。
註
(1)Bornkamm, Heinrich ; Luthers geistige Welt, Gutersloh, Bertelsmaun Verlag, 3 Auflage, 1959, pp.87−88.
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このような実存論的な立場から聖書の使信をみる時に、私が、イエスの誕生以前の事柄、又イエスの十字架の死以後の事柄は、すべて神話であり、文字通り受け取っても私の実存には何の意味も持たないものである、と言ったとしても不思議ではない。イエスが永遠のロゴスの受肉であり、処女マリヤより生まれ、十字架の死の後には復活し、昇天し、やがて再臨し給う、というような聖書の記述は、その当時の世界像と密接に結びついているところの神話である。ここでは、イエスの人格の秘密を探ろうという、いわば、イエスを客観的に眺める傍観者的思索の展開が聖書記者たちによってなされているのである。我々の信じるところによれば、聖書自体の中で既に、そのような思索が信仰者の真に実存していこうとする態度と無関係であり、むしろ、信仰者が自己の真の実存を荷って行くのを妨げるものであると結論しているのである。このような神話で、聖書の著者たちが言おうとしていることは、実はイエスの人格の秘密ではなく、イエスが神の言としての事件であると言うことである。
評説すれば、永遠のロゴスの受肉や処女降誕の神話は、イエスの存在が神の特殊な賜物であり、イエスの出来事により窮極的な神の言が語られていることを告げ知らせる神話的表現である。更に、イエスが復活し、昇天し、神の許に今も居給い、やがてこの世の終わりに再臨し給うという神話は、イエスにおいて与えられた神の言が、この我々の人類史の続く限り、我々の実存を支配するような真理であることを告げ知らせる神話である。すなわちそれは、この人類史の続く限り、神がイエスの存在を通し、又、それを起点として、我々の罪を赦し給う言葉を語ったのであり、この罪の赦しこそ、我々一人一人を真に実存たらしめる、生ける真理であることを告げ知らせている(1)。イエス・キリストの人格の中に、すなわち古典的な意味でのキリスト論に、キリスト教の絶対性を求めるのでなく、イエス・キリストに象徴されている神の愛の性質の中に、それを求めるのが実存論的なキリスト教の絶対性の理解になる。宇宙でのこの地球の外における人間的存在や、又は、我々の死滅した後に生起し得る人間的存在とキリストとの関係を、我々は神学的に問題にする必要を持っていない。それらの人類に対して神が他の方法で言葉を語ったところで、それは神の自由である。むしろこの人類史に関する限り、キリストとしてのイエスの出来事が、実に我々を真に実存せしめる神からの愛の言葉であることを信ずれば事足りるのである。
さてこのように思索を展開してくると、古典的な教理が、イエスの無罪性という表現で言い表したことが、次に問題になる。この古典的な教理によれば、イエスは罪を犯すことが全然なかった無罪の人間として考えられている。この古典的教理の欠点は、イエスの無罪性が抽象的に取り上げられていることである。むしろ、無罪性という消極的抽象的な言葉よりも、これをイエスの服従という、積極的な言葉に置き換える方が正当であろう。その時には、それを次のように言い現すことが出来よう。イエスは、罪の赦しという神からの愛の言が具体的な自己の生を通して象徴されるのに十分な程度の服従を、神に献げることが出来たのである。キリストがその存在を通して神の愛の出来事が起こる程度にまで神に服従し、自己を空しくし得たが故に、人間としてのイエスの出来事と、神の罪の赦しとしての愛の出来事とが、同時にキリスト・イエスにおいて一つの出来事として存在し得たということである。これはゴーガルテン(Friedrich Gogarten)が、イエス・キリストが神であり同時に人であって、その神性と人性とが一人格として存在するという(2)、あの古典的なキリスト論を実存論的に解釈している方向である。私はこのゴーガルテンの方向を正しいと思う。繰り返すならば、イエスが神に服従したそのお陰で、歴史内にユニークな神の言である出来事が、イエスにおいて起こったのであり、それ以後も教会において生起し続けるようになったのである。そのユニークな出来事こそは、罪人であるにも拘らず、神がこの我々を愛するという出来事である。これこそキリスト論の真の意味ではないだろうか。すなわち、このような実存論的なキリスト論の理解は、キリストを形而上的に理解するのではなく、むしろ歴史創造的に、すなわち、人間が自己の生を真に創造していくという角度から理解するということである。キリストの服従(Gehorsam)を通して――それはキリストの一つ一つの行為における服従ではなく、キリストの存在そのものが、父なる神への服従において浸透されていることを意味するが――神が人類に対して赦しの言葉を語り、人類を顧み給うたという事件が起ったのであるが、同時に、キリストはこの世と一つになり給うて、我らをいわば自己の存在の中に取り入れ我らと一つになることにおいて、神の隣みを抽象的・観念的にではなく具体的・象徴的に我々に与える事件となり給うたのである。このように実存論的に考えられたイエスも、やはり何か他の人間とは違った秘密を持っているように見える。だから、このような歴史的なキリストの理解も決して、古典的な形而上的なキリスト論の理解が持っていたような秘密(Geheimnis)を全然なくしてしまうことではない。そうではなくして、このような歴史的なキリストの理解も、同じように我々の理解を超越せる秘密を内に蔵している。実存論的な理解は、ゴーガルテンが言っているように、決してイエスの秘密をなくすところにその重点を置いているのではなく、むしろ真に秘密を歴史的なものとして理解する。言い換えるならば、その秘密が我々の実存と深い関係を持つものとして理解するところに、その意図があると言い得るのである。
註
(1)このような再臨の象徴及びそれに連関せる象徴についての解釈において、ポール・ティリックの貢献は非常に大きいと言うことが出来る。Tillich, Paul ; Systematic Theology, vol.2, Chicago, The Univ. of Chicago Press, 1957, pp.95 f. & pp.162 ff.
(2)Gogarten, Friedrich ; Entmythologisierung und Kirche, Stuttgart, Vorwerk Verlag, 3, Auflage, 1953, pp.66 ff.
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.4.31