野呂芳男「シュヴァイツァーの『生への畏敬』」1969
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シュヴァイツァーの『生への畏敬』
野呂芳男
1 2 3 4 註
初出:『基督教論集』第14号、青山学院大学基督教学会、1969年。
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最近の神学界を賑わしているものの1つは、キリスト教倫理の分野における状況倫理の提唱であろう。ディートリッヒ・ボンヘファーの友人であったポール・L・レーマン(Paul L. Lehmann)の「キリスト教的関連での倫理」(Ethics in a Christian Context)(1)の出版や、幾分通俗的な書物であるが、ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher)の「状況倫理」(Situation Ethics, The New Morality)(2)の出版が、これらの論議を一層賑やかにしている。レーマンとフレッチャーの立場は相当の違いをもっているように思われるが、フレッチャーの書物は通俗的であるために、より多くの論議を醸し出した。
ところで状況倫理の提唱はそれ程新しいものではない。既にアルバート・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)の「生への畏敬」(veneratio vitae)の中に、我々はそれを見出すのである。
シュヴァイツァーの倫理が単なる汎神論的な倫理的神秘主義であると言うのは、誤りであろう。確かにシュヴァイツァーにとって「生への畏敬」は、次の意味において汎神論的なのである。「すべて存在するものの根源はいっさい存在の根本原因に発する、と考えざるを得ないかぎりにおいて、あらゆる生きたキリスト教は、汎神論的である」(3)。併し、彼によれば、キリスト教の倫理的敬虔はこういう汎神論的体験を越えたものを含んでいるが、それは、自然の中においてではなく我々の心中において神を 愛の意志 として知るからなのである(4)。人格的な愛の意志として啓示される神に対しては、我々は人格的に相対するのであり、このようにして、シュヴァイツァーにとっては、唯一神論と汎神論とは相対立するものではない。シュヴァイツァーにとって、神は、人間の心中と自然の中とでは、違った様相を呈する。自然の中で体験される神は、非人格的な、謎めいた不思議な力であり、人間の心の中では倫理的な意志として自己を啓示する(5)。即ち、シュヴァイツァーは、自然の中の神と倫理的意志として人間の心中に自己を啓示する神とを、世界観的に統一することを諦念する。むしろ、倫理的意志として自己を啓示する神への応答として、人間は「生への畏敬」の実践されていない、謎のような自然の中で、少しでもそれを実践すべく倫理的努力を続けなければならない。
自然と人間の倫理的行為との対立、人間社会及び自然の中での「生への畏敬」の実現を目指して努力する人間の、実存的姿勢を中心としてキリスト教を把握しようとしたシュヴァイツァーの思索は、歴史創作という意味での歴史主義とも言うべきものであろうが、その中には、所与としての世界たる自然への深い悲観主義と、それにも拘わらず人間は、そういう謎に満ちた悲観的現実に単に服従する必要はなく、それをある程度ではあっても、倫理的努力によって変更し得るという、世界と人生とへの肯定とが共存している。従って、シュヴァイツァー自身が認めたように、「生への畏敬」の倫理は、ショーペンハウアーとニーチェとの総合である。世界のどのような説明をも諦め(6)、人間を苦難に満ちた不可思議な世界に従属させるところでは、それはショーペンハウアーと軌を一にするが、世界と人生とを創作的倫理の場として肯定するという点では、それはニーチェに通ずる。
シュヴァイツァーは、「生への畏敬」の思想は哲学的思索によって到達され得るものとなしたが、それは1つの理性的体験、人間の生の内奥の体験の理性的告白なのである。シュヴァイツァーにとって、意識が持ち得る最も基本の思惟は、デカルトの如くに「われ思う、故にわれあり」(cogito, ergo sum)ではなく、「われは生きんとする生命である」。併し われ は孤立存在ではないが故に、「われは、生きんとする生命の真ただ中に存する、生きんとする生命である」ということになる。こういう根源的な思惟から、彼の倫理の定義が生まれてくる(7)。「生命を維持し促進するのが善である。生命を損い破壊させるのが悪である。……倫理とは生命をその発展の最高の位相で維持することである――自己の生命と他者の生命をである(8)」。そして、ヴェルナー(Martin Werner)がいみじくも言ったように、シュヴァイツアーの倫理は「宇宙的倫理」(cosmic ethic)(9)なのであり、ここに言われている生命は、人間のみではなくあらゆる形態の生命を指すのである。従って、自然の混沌たる生存競争の実態に従属しながら生きている人間は、他の生命を破壊することを余儀なくされる。それ故、人間は常に罪悪感に満ちた良心をもちながら、生きない訳に行かない。「疚しくない良心などは、悪魔の発明である」(10)。
我々はここで、シュヴァイツァーの「生への畏敬」のもつ状況倫理的性格が顕著に表出されているのに注目すべきであろう。
つねに新しく、つねに独創的に、生への畏敬の絶対倫理は、人間のなかで現実と対決する。この倫理は人間のために葛藤を処理することをしない。却って人間に迫って、どこまでかれが倫理的であり得るか、どこまで生の破壊と毀傷の必要性に従属し、それによって責任を身に負わねばならぬかを、いかなる場合にも自己自身で決断せしめる。倫理と必然との妥協点をはたから教えられて、人間は倫理的に前進するのではない。倫理的なものの声をますます明らかに聞くことにより、生を維持し促進しようというあこがれにいよいよ支配されることにより、生を破壊毀傷する必然性にいよいよ頑強に抵抗することによってのみかれは前進する。
主体的決断を、人間は倫理的葛藤のなかでくだしうるのみである。生の維持促進を執って譲らない可能性の限界が、それぞれの場合、どこにあるかを、何びともかれのためにこれをさだめることはできない。かれひとりが、他の生に対しての最高度に高められた責任感にみちびかれて、これを判断しなければならない (11)。
人間における「生への畏敬」は倫理的人格の完成にあるが、ピヒト(Werner Picht)の言うように、シュヴァイツァーにおける倫理的人格の完成のための倫理は、2つの要素から成り立っている。1つは諦念の倫理であり、これは「内面的に世界から自分を解放することを通して、消極的に自己を完成する倫理」である。もう1つは義務の倫理であり、これは「人間対人間の相互関係という手段によって実行される、積極的な自己完成の倫理」である。これは、自分以外の生きんとする意志への献身によって表現される。そのためには、人間はあらゆる状態にある生きんとする意志、生をことごとく燃焼させたいとの欲求をも含めてのそのあらゆる熱望を同情的に理解していなければならない(12)。
前もってどこまで実現可能かを設定せずに、その時その場の状況に応じて、「生への畏敬」という絶対倫理を可能な限り実現させるべく、その状況の中に生きる人間に主体的決断を迫るシュヴァイツァーの倫理からは、果たして妥当な社会倫理や政治倫理が形成されるのであろうか。彼自身がこの困難さに気づいている。
人間は個人として他の人間や被造物に対して責任を負うだけでなく、社会の一員として社会倫理を構成する責任をもつ。併し、シュヴァイツァーによれば、「倫理的人格の完成を目指す倫理を、役に立つ社会の倫理にまで発展させることは、成功不可能である」(13)。ここには明白に、個人完成の倫理と社会倫理との次元的区別、及び、それから結果する両者の矛盾対立の可能性に関する認識がある。それにも拘わらず、シュヴγイツァーは両者の区別を、相互影響のないものとしては放置しない。否、社会倫理を、個人完成の倫理の基本である「生への畏敬」から、切断することを肯じない。倫理の後見人としては、社会は欺瞞者であり、「一瞬といえども我々は社会が掲げた理想、社会が流布させている諸信念に対して疑惑の念を捨てない」。「文化の崩壊は、人々が社会に倫理を委ねたことによって生じたのである」(14)。社会倫理においてもシュヴァイツァーは、前もって作られた倫理に従うのではなく、その時その場に応じて「生への畏敬」から倫理的信念を創作しなければならない、と主張する。
個々の場合に応じて、我々はそれ故、超個人的責任における活動のなかで、できるかぎりの人間性を保持するように苦闘しなければならぬ。……知見と真摯を得て、われわれは人の普通考えないことを考えるようになる。すなわち、すべてのなんらか公共的な活動は、たんに集団のために実現さるべき事実を事とするばかりでなく、集団を稗益するような信念の創造を事としなければならぬ。……精神的な力をわれわれが持つのは、いったん確立された原則に従ってつめたい決定をわれわれが行なうのではなく、すべての個々の場合において、われわれが自身の人間性のためにたたかうのだということを、人々がわれわれに承認するときにのみ可能である (15)。
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今迄に我々は、シュヴァイツァーの「生への畏敬」の倫理のもつ、状況倫理的性格を浮彫にするように努力してきたのであるが、この小論の展開のために、彼の立場に対する2、3のピヒトの批評を紹介しながら、それらの点に関して我々はどう考えるかを述べてみたい。
ビヒトは先ず、シュヴァイツァーの「生への畏敬」が、イエスの愛の倫理と違う点を指摘するが、そのためにシュヴァイツァーの言葉を引用する。「それ(愛)は、倫理によって作られる一致関係を、自然が二存在の身体的面において喚起するものに相似のものとする。即ち、性的に互いに補足し合う二存在、あるいは、彼らとその子たちとの間に喚起するものにである」。即ち、シュヴァイツァーにおいては、愛は倫理を単に類比によって表現したものに過ぎないものである、とピヒトは言う。「生への畏敬」の倫理こそ、シュヴァイツァーによれば「思索の必然性として今や認められたところの、イエスの倫理である」。ピヒトの批判は、「生への畏敬」の倫理が、倫理を宇宙大に拡大することによって、イエスの愛の倫理のもっている温かい、直接的な人格的関係の要素を失い、その代わりに、病源菌や、鳥さえも捕獲する蜘妹に対してまで持たなければならない哲学的な倫理的原則への義務を置いたこと、この点で、シュヴァイツァーの人間愛に満ちたアフリカでの奉仕の生涯と、彼の倫理に関する冷たい哲学的思索が一致しないことに向けられる(16)。
ニグレン等の貢献によって、聖書的なアガペーとプラトン的なエロースとの明確な相違に強く目覚めさせられている我々にとっては、シュヴァイツァーがイエスの倫理を単に人間のエロース的関係の類比において理解したことは、勿論納得できない。むしろ、イエスの愛は、献身を通しての自己完成という、シュヴァイツアーの「生への畏敬」の中核と相通ずると言える。また、確かにイエスの愛の倫理は、隣人をその中心的対象とするが故に、「生への畏敬」のように他の被造物への顧慮は明確化されていない。併し、神の創造物への愛は、イエスの言行の中に潜在していたことについては、疑いの余地がないのであるから、シュヴァイツァーが「生への畏敬」を、イエスの倫理の思索による必然的展開と主張する時、それはあながち牽強付会の説とは言えないであろう。「生への畏敬」が冷たい哲学的な倫理的義務の教説であり、イエスの愛のもつ直接的な温かみと一致しないというピヒトの批評は、問題とするにたらない。思索は冷厳でなければならないのであるし、それだからと言ってその思索を内に含む実践が温かみを喪失していることにはならない。それに、イエスの説き実行した愛が、倫理的義務と矛盾すると主張するかのような印象を、ピヒトの批評が我々に与えるのは、ピヒトにとって不幸である。
第2に、ピヒトは「生への畏敬」の倫理が、その実際的な影響力の大なるに比較して、神学的にも受容されず、哲学的にも不十分であることを指摘し、その影響力は、シュヴァイツァーの形成した哲学理論によらず、キリスト者としての彼自身の愛の実践によるとなしている(17)。我々は勿論、アフリカでの実践がシュヴァイツァーの理論に強靭な支柱となっていることは否定できない。併し、そのことはピヒトのほのめかすようにはシュヴァイツァーの哲学的思索が無益のものであるということにはならないであろう。
「生への畏敬」が神学的に受容されない証拠として、ピヒトは、それに関するカール・バルトの発言、「勿論、神学的倫理はそれと行を共にすることはできない(18)」に触れ、バルトが「生への畏敬」を哲学的な装いの下におけるキリスト数的良心の「叫び声」としてだけ評価し叙述していることをあげている(19)。バルトがその神学的倫理の立場から、「生への畏敬」に好意的でないことは、我々にも明らかである。それは、バルトにとって、あまりにも哲学的すぎるのである。
自己を18世紀合理主義の息子として設定しているシュヴァイツァーは(20)、確かに合理的であり哲学的であろうとしている。彼にとって倫理とは、思惟必然的に我々の内部で明らかになった原理なのである(21)。ところが、彼の合理的思惟は、それが徹底されたところで合理性にとどまっていない。そこにこそ、「生への畏敬」が哲学的にも不十分であるという、ピヒトの批判のもつ正当な一面があると思われるのであるが、シュヴァイツァーにとって、「ぎりぎりまで考えぬかれた合理的思性は、思惟必然的に非合理的、主観的なもの」に到達する(22)。この非合理的・主観的なものとは、自然の中には「生への畏敬」は実行されていず、自然は不条理に満ちており、我々は「生への畏敬」を世界観的に基礎づけることができないという事情であり、「生への畏敬」は、人間の内心において、イエスの精神によって表現されているような愛の意志として、神がご自身を啓示されるという事情に基礎づけられているのである。
これに加えて、史的イエスの探求に関するシュヴァイツァーの強烈な関心を想起するならば、彼の立場を我々は、単純に神学的とも哲学的とも言えないことに気づく。ポール・ティリックよりも粗削りではあるけれども、それはやはり、護教諭的系列に属する神学的哲学である。シュヴァイツァーにおいても、哲学的思索と啓示とは問いと答えという形で対話に入っており、解釈学的循環とでも言うべきものが存在している。彼の哲学的思索は自然哲学的なものであり、ティリックの実存論的な存在論とは異なるが。
第3に我々が取り扱いたいピヒトの批判は、直接に「生への畏敬」のもつ状況倫理的性格に関係する。シュヴァイツァーによれば、「生への畏敬」の倫理は、「諸価値を創作し、進歩を実現する」ことを目的とする。ところがピヒトは、この目的のためには価値と採択の階級組織とも言うべきものが必要であると主張する(23)。
「生への畏敬」の倫理には、人間がそこで倫理的決断をしなければならない状況の中に入る前に、どういう決断をしたらよいかを知らせてくれる法則も掟も全くない。それは全く主観的なものなのであり、しかも、一切の生きものに対して、人間に対すると同じような態度をとることを我々に要求する(24)。即ち、人間と他の生物との価値の優劣を、前もって知るための価値体系さえ存在しないのである(25)。
真に倫理的な人間にとっては、あらゆる生命が神聖なものである。われら人間の立場から低級と見えるものすら、しかりである。生命のあいだの差別をつけるのは、必然性によって強制される場合のみである。すなわち、2つの生命のうちいっぽうを救うには、いずれかのいっぽうを犠牲にするのも止むを得ない場合に限るのである。この止むを得ぬ場合の判断をなすにあたっても、人間は自主的反省的に決定をする。犠牲となった生命に対する責任をになう、ことを自覚しておらねばならぬ (26)。
併し、ここで我々はピヒトに賛成して、人間の倫理的行為は、何らかの価値体系をある状況の中で決断する前にもたない訳には行かないことを、言わざるを得ないであろう。即ち、シュヴァイツァーの意図したような宇宙的な、何ら倫理的体系をもたない、完全な意味での状況倫理は、人間を単に混沌の中に投げ込むだけであり、そこには強靭な倫理は存在しない。人間は時間的存在であり、状況の中で人間の直面する決断の瞬間は、過去と未来とに実存的に折り重なる持続時に支えられているものなのであって、それから切断された点的瞬間ではない(27)。それ故に、人間の過去の倫理的体験の中から生まれてくる知恵の集積、また、未来においてどういう形態で人間が宇宙に対するか、あるいは、社会に対してのどういう関係が人間の理想となるべきかに関しての倫理的理想、――これらが1つ1つの与えられた状況の中での人間の倫理的決断に枠を与える。あらゆる枠を外してしまうような形態での状況倫理は存在し得ない。人間の方が価値的に言って、少なくとも今の宇宙の発展の過程の中では、他の生きものよりも重要であるという何らかの価値体系が、状況での決断以前に必要なのである。火災に見舞われた実験室から、癌細胞をもつネズミを救うために自分の命を棄てる研究者は、決してネズミと人間の生命とが平等のものである、というような倫理的前提に立って行動してはいない。人間相互の愛の共同体をこの地上に樹立するという希望が、前もって倫理的理想として掲げられていなければならないのである。併し、これは神学の問題として、聖書釈義から出てくるところの我々が信仰により受容しなければならない問題として考えられてはならない。我々は一切が「生への畏敬」から考えられなければならないという点で、シュヴァイツァーに同意する。我々の考えているような倫理の枠を規定することは、神学と対話しながらの理性的・哲学的努力によらなければならない。
この点で、最近の神学界で歴史の終末を、実存の希望の次元、倫理的行為のためになくてはならない次元として再び我々に認識させようとしているモルトマン(Jurgen Moltmannn)の努力は高く評価されてよいであろうが、彼がこれを聖書釈義と神学の問題として提出したことには、我々は同意できない(28)。またこの希望を必ず与えられる神の約束というように把握すべきではないであろう。それは、状況の中での実存の倫理的決断の方向づけとしてのみ意味をもつものであろう。我々の今の倫理的決断の如何に拘わらず、実現される神の約束などは、神話に過ぎない。
哲学的に言って、この宇宙の中での生物の誕生と、その生物がそれ自体の生命を意識するようになった人間の出現とを、2つの重要な進化の段階と考え、人間は、人間の相互の愛の精神的関係を更に有機的に密接に深めて行き、遂にオメガー・ポイントであるところの、愛の完全な精神的社会の実現となると考えたカトリックの神学者ティアール・ド・シャルダン(Pierre Teihard de Churrdin)のように(29)、――必ずしも、ティアール・ド・シャルダンの意見に全面的に賛成しないとしても――我々は地球上の生物の進化の今の頂点として人間を価値的に把握し、愛の社会の実現を希望の次元として理解する以外に、我々の倫理は支柱をもたないであろう。勿論ここでも問題になるのは、倫理的希望が決断回避の約束に転化されてはならないことであるが(30)。イエスによって啓示された「生への畏敬」を、どのように歴史の中で具体化したらよいかという、それとの対話において行なわれる理性的努力を、我々は神学文化史の領域として設定したい。
さて、シュヴァイツァーの「生への畏敬」の思想の土台をなす、哲学と神学との間の問いと答えとの解釈学的循環において、我々が不十分であると感ずるのは、その聖書の終末論の把握である。それは、1つにはシュヴァイツァーが、解釈に当たって聖書と対話に来たらせた哲学が自然哲学的なものであったという事情からも来ているのであろうが、我々の見るところでは、彼は聖書の終末論の理解に失敗している。プーリ及びブルトマンの用語を借用して言えば、シュヴァイツアーの「生への畏敬」は、「非終末化」(Enteschatologisierung)であって、「非神話化」(Entmythologisierung)ではない(31)。そこでは、聖書の終末の教えは棄却されている。即ち、シュヴァイツァーの思想の中心である「生への畏敬」には、聖書の歴史の終末に関する教えは少しも意味をもたない。
シュヴァイツァーにとってイエスは、個々の人間がその倫理的体験の奥底で把握する「生への畏敬」を典型的に具現し、例証した一人物であるが、これでは、聖書の終末の教えのもつ中心的なものが見落とされている。聖書では、イエスが神から遣わされて終末をもち来たらすのであり、イエスへの我々の態度如何によって、我々の終末時の運命が決定されるのである。非神話化して言うならば、イエスにおいて我々は、そこに現わされているようなアガペーを実存の根底として生きるかどうかを、人格的に神から問われ、決断を迫られているのであり、個人的にも社会的にもでき得る限りアガペーを体験することこそ、我々の真の在り方の体験であることを語られているのである。それへの肯定的応答こそ、我々を真に人間として生かすものなのであり、その意味で、個人的、社会的にでき得る限りアガペーを体験することこそ正しい生き方であるという枠を、我々は前提としている。
前述した、未来における人間の愛の共同体の理想を、我々が仮に水平面の次元での枠とするならば、これは深みの次元での枠とも言えるであろう。これら両次元の枠を十分に考慮しながら我々は置かれた状況の中で、それをどういう方向に抜けて行くべきかという角度から、状況倫理を考察しなければならないのである。即ち、我々の提唱したいのは、シュヴァイツァーのような絶対的な状況倫理ではなく、イエスを通して現われた神の意志への服従、それによって制限された状況倫理である。
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自然の中に愛の意志としての神を認めることに悲観し、世界観的に「生への畏敬」を基礎づけることにシュヴァイツアーは絶望し、「生への畏敬」を人間の心中の啓示としたのであったが、認識論的に言えば、シュヴァイツァーの自然と人間とのこの断絶は正しかったと思う。確かに我々が自然の中に認めるものは、「生への畏敬」が行なわれている状況ではなく、弱肉強食であり、不条理であり、そこから愛の意志たる神への信仰が生まれる筈はない。併し、断絶のままにとどめておくのではなく、自然と人間との橋渡しを、我々は神の摂理への信仰において実存論的に思索しなければならないであろう。
実存論的な神の摂理への信仰は、歴史が前もって、青写真をもったもののように凡て決定された進行過程を辿るとも考えないし、歴史の中に神の支配の下に来ない不条理の存在を否定するものでもない。むしろ、それはイエスの十字架と復活の出来事の中に表現されている神の適応性(adequacy)への信頼である。即ち、十字架に象徴される人間の罪や歴史の不条理の間をぬいながら、征服し得るものは征服し、そうできないものは迂回しつつ、復活によって象徴されているようなよりよき事態へと我々を導き得るのである。その導きがどのような結果を我々にもちきたらそうと、我々は結局のところ、それがその状況の中で可能な、我々にとっての最善であることを信ずるのである(32)。
ところで我々は、シュヴァイツァーの「生への畏敬」が、今日の神学用語を使用するならば、アガペーとエロースとの統一を形成している事実に注意すべきであろう。
我々の見るところでは、これも状況倫理の特徴であろうと思うが、シュヴァイツァーは倫理を謙虚に自己完成を中心として考察する。「倫理とは、自己の人格の内面的完成をめざす人間の活動である(33)」。状況倫理は、人間はどういう仕方で隣人のために行動すべきであるか、を隣人への奉仕の場が与えられるに先立って、前もって詳細には規定しないが故に、当然のことにいつでも手近かにある倫理、即ち、自己完成へと向かう。それは孤独の中に置かれても、自分がそうなるべき宿命を負わされている道を静かに歩みつづける宿命(destiny)成就の倫理である(34)。従って、自己の可能性をその限界まで、ぎりぎりに追い求め、自己を豊かにする倫理であるが故に、これはエロースの倫理である。併し、こういうエロース的事情は、ニグレンが考えたようには、単純にアガペーと衝突するようなものではない。自己の宿命を対自的に捉え、それを神から与えられたものとして、それに対して責任を負う時、それに向かって人間はアガペー的態度を要求される。アガペーの対象であるべき隣人のもっとも近き者として、我々に対して自己の宿命が存在するのである。
更に、シュヴァイツァーの場合には、前に触れたように、自己完成は他の生への献身を通して成就される。即ち、エロース的事態がアガペーを通して成就されるのであり、とかく相矛盾すると考えられてしまう自己完成と献身とを、分離せずに緊張関係において1つの統一として把握しているところに、「生への畏敬」のもつ勝れた一面がある。こういうシュヴァイツァーの主張は、エーリッヒ・フロムの助けを借りることにより、もっともよく理解されるであろう。
フロムは利己主義と自己愛とを区別し、両者は全く反対のものであることを言う。利己的な人間は、自分自身を僅かにしか、あるいは、全く愛していない。自己愛とは、真正の自己への愛、我々の表現を使用するならば、宿命成就への愛であるが、我々の宿命は創作性を骨格とする。隣人の生への忠実な配慮は、その隣人の宿命成就に対しての創作的献身であり、その結果我々は、自分の創作性への自信を与えられる。勿論、それは我々の個性に満ちた創作性であろう。そして、そういう創作性こそ我々自身に外ならないではないか。利己主義は、これとは反対に、創作性の欠如から由来し、我々の生への思い煩いの表現にすぎない。他者のものを掻き集めることによって、自分の生の支柱を構築しょうとする無謀な試みである。これでは真の自己たる自由なる創作性は、ますます抑圧されざるを得ない(35)。
我々はフロムの主張を、我々の言葉に翻訳し直して表現してみたのであるが、シュヴァイツァーにおいて、自己完成と献身との関係が、ここまで反省されている訳ではない。彼は、自己完成が献身によって成就されるということを言うにとどまっているが、併し、その思索の道は上述の考察を促さざるを得ないであろう。
それはさておき、シュヴァイツァーの考察にとどまるにしろ、上述の考察まで辿り行くにしろ、自己完成が献身を通して成就されるという主張には、倫理に関する合理主義的探求を越えたものがあることを、認めなければならない。啓蒙主義の息子であることを自認するシュヴァイツァーは、徹底的に倫理を合理的に考えることを我々に要求するのであるが、併し、合理的思考と神秘主義とは矛盾するものではないと言い、前にも触れたように倫理に関する我々の合理的探求は遂に、合理の次元を越えて神秘の次元に入らざるを得ないことを言う(36)。何故我々は一切の生を畏敬しなければならないのか、「生への畏敬」はどうして献身を通しての自己完成という形態をとるのか、究極的には合理的な解答はない。それは我々の存在の奥底における神秘的な体験なのである。
そうすると、シュヴァイツァーの「生への畏敬」は、ポール・ティリックの 倫理における彼岸からのもの という主張に、きわめて接近したものをもつことが明らかになる。即ち、シュヴァイツァーの状況倫理においては、状況からではなく、状況を越えたところからのものたる所与が、その根底をなしているのである。
ティリックは道徳的命令のもつ彼岸からのもの、即ち、宗教的次元を主張するが、それは道徳的命令のもつ無制約的性格(the unconditional character)である(37)。そして、この無制約的性格は、道徳的決断の内容にではなく形式に属している。即ち、それはどういう具体的な事柄をなすべきであるかということにではなく、「そうあらねばならない」(ought to be)ということに属しているのである(38)。そういう無制約的性格は、どこから由来するものであろうか。ティリックにとって、それは神の意志からであるが、その場合、神の意志によって意味されているものは、勿論、個々の具体的な倫理的戒律ではない。神の意志は、我々の実存にとって外側の異質なる他者、天の暴君によって押し付けられる戒律ではなく、創造の神話において言われているような、神がこれでよいとされた我々の本質的存在なのである。「それは、我々に服従を要求する異質の律法ではなく、人間としての、独特の個性をもつ人間としての、我々自身の本性からの『静かな声』なのである」(39)。
人間が他者との共存によってのみ生き得る社会的存在である以上、当然そこには社会生活の規約である倫理を必要とし、歴史的存在である人間は、その倫理を長い期間にわたる体験の知恵の集積たる過去から形成する。併し、ティリックにとって、人間が真に道徳的であるためには、超倫理的良心(transmoral conscience)をもたなければならない(40)。ティリックは超倫理的良心を、宗教改革者ルターの洞察に従いながら展開しているのであるが、それはまず、倫理的実践の苦闘に破れ、罪責感に悩む鋭敏な良心に、罪の赦しを語り慰め与える良心である。そして同時に、移り行く歴史の中で現行の倫理が、果たして人間一人一人をその本質的存在たらしめ得るような、個人的・社会的倫理であるかどうかを反省させる原動力でもある。このようにして人間は、その超倫理的良心に支えられながら、神の歴史創作の行為に参与するのである。
さて、シュヴァイツァーの「生への畏敬」も、ティリックの道徳のもつ宗教的次元の主張も、共に合理的なものの彼岸、存在の根底にある神秘的なものを指示しているのであるが、ティリックの方が、基本的にはシュヴァイツアーと同様に状況倫理の立場に立ちつつも、その倫理の構成においてもっと慎重である。それはティリックが2つの角度から状況倫理を制約しており、シュヴァイツァーのように何の制約も設けずに、その時その場でなすべき倫理的行為を宇宙大の視野で考えよとは、我々に要求していないからである。ティリックによれば、現在の我々の倫理的行為は、既述したように過去の人間の歴史的行為より生まれた知恵の集積を利用しなければならないし、また、歴史にはある時点(kairos)以後、ある特定の倫理的姿勢を要求されることがある。彼の主張によれば、第一次世界大戦後の世界は、我々から宗教的社会主義(religious socialism)の態度を要求する時期なのである(41)。シュヴァイツァーの「生への畏敬」も、それが相対的なものであることを承知の上で、我々の時代におけるある程度の具体的倫理――宗教的社会主義への賛成、不賛成はともかくとして――を創作するところまで行かなければ、現代人に対する指導力をもたないであろう。こういう神学文化史(神学と文化との対話の領域)的な思索こそ、キリスト教倫理学の課題なのである。
併し、シュヴァイツァーの「生への畏敬」を基礎づける思索に、ティリックのような神秘主義的思弁がないのは、さわやかな感を我々に与える。ティリックにとって神は存在の根底であり、それは存在を所有するところの凡てのものに「先立つ」(prius)ものであり、あらゆる分離に先行し、すべての相互作用を可能ならしめる。即ち神は、認識や行為における主体と客体との分離と相互作用に先立つものである。ここでは神と人間との関係は、究極的に 交わり ではなくなっている。ティリックによれば、神と人間とは、同一性(identity)と非同一性(non-identity)とを同時に所有するのであり、神と人間との根底における神秘主義的・存在論的一致が前提とされている(42)。こういうティリックの立場からは、シュヴァイツァーに見られるような、自然と人間との断絶、「生への畏敬」の行なわれていない不条理の自然と、人間の中で愛の意志として自己を啓示する神との断絶は主張され得ない。シュヴァイツァーの方が、歴史(人間の「生への畏敬」の実践の場)と自然(不条理であり、人間の歴史行為の場及び素材を提供する)との断絶を主張する点で、ティリックよりも実存論的である。
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ところでシュヴァイツァーの「生への畏敬」は、世俗の倫理である。ここで我々の言う世俗の倫理とは、ニーチェのツァラトゥストラに表現されているような、現世への無制限の肯定である。この現世への態度が、例えば今日の「神の死の神学」の一貫した原動力になっているのであるが、アルタイザー(Thomas J.J. Altizer)によれば、それは「我々の実存の具体的な、直接的な状態の全き肯定である。我々の現実のこういう受容と肯定とは、かつて人間が超越的な彼岸に向けていた精力の凡てを、この今の瞬間に対して与える場合にのみ可能なのである。このようにして初めて人間は、あらゆる精力の源泉を放出して、目の前の現実との全き出合いがあり得るのである(43)」。シュヴァイツァーの「生への畏敬」は、死後の世界や彼岸の世界を顧慮せずに、死のこちらのこの現実の生を畏敬することなのである。エリカ・アンダーソンによれば、死後の命の可能性について質問された時に、シュヴァイツァーは、「それは誰にも分からない。併し、心の中にある人が生きている限り、その人は生きているのである(44)」と答えた。
現代の多くの思想家のように、シュヴァイツァーにおいても死後の命は、その人が他者に記憶されて行くことに変えられている。これは必ずしも感傷的なものではなく、強靱な倫理的基盤の上になされ得る。他者の命を豊かに燃焼させるために、自分の命を他者に注ぎ込み、感謝とともにその他者によって記憶されるのである。我々はシュヴァイツァーや神の死の神学者たちのこういう実感を、既に詩人リルケがある手紙の中で表白しているのに驚くのである。
私はキリスト教の来世の観念を好みません。……私にとってはこの観念の中には、単にこの地上から消えていった人たちをあいまいで、まず我々の手のとどかないものにしてしまうという危険が含まれているばかりでなく、われわれ自身もまた、あこがれのうちにかなたへ身を移して、この他上の世界から遠ざかっていくことによって、ますます不確かになり、ますます地上的でなくなってしまうという危険もまたそこに含まれているのです。ところで、この地上的であるということこそ、さしあたりわれわれがこの地上にいて、木や花や地上の王国と親近である間は、その最も純粋な意味において、いつでもそうでなければならない、いな、常に新たにそうならなければならないことなのです (45)。
神の死の神学者たちはニーチェに倣って、人間性に異質の意志を押し付けそれを否定するものとしての神を殺したのであるが、ニーチェの思索を通過してきたシュヴァイツァーには、この事情は問題にもならない。既に見てきたように、シュヴァイツアーにとって神の意志は人間性を否定するものではなく、人間性を含めてのあらゆる生の畏敬であり肯定である。シュヴァイツアーのような立場から見るならば、神の死の神学は、その神の観念において貧弱であったに過ぎない。ところが死の問題になると、シュヴァイツァーは神の死の神学者たちや、詩人リルケとも類似の立場をもっていると言わざるを得ない。
我々は、シュヴァイツアーが、自然界における弱肉強食の現実と、神が我々の内奥において愛の意志として自己を啓示されるという事情とを、ありのままに矛盾したものとして受容していることを見てきた、彼はその矛盾を論理的に解決することに対しては、静かなゲーテ的諦念をもって身を処した。そして、むしろ一つ一つの状況の中で少しでも生を畏敬することにより、その不条理を実践的に克服することを選ぶ。「生への畏敬」から見れば、死もその否定であり不条理なのであるが、シュヴァイツァーはこれらの不条理を静かな諦念をもって受容している。それは勿論、不条理への反抗を通過し、それを内包した受容である。さもなければ、その受容は死への降服以外の何ものでもなく、そこには「生への畏敬」は存在しないであろうから。
この受容はキリスト教的に言って、敵たる不条理をも愛する愛であろう。不条理は敵たることを止めないままで受容されている。リルケの次のような死の内包こそ、最もシュヴァイツァーの意図に近いものではないだろうか。
われわれは、たとえそれがごく身近のものであれ、非常に恐るべきものであれ、あの死の体験に耐える力を十分に持ちあわせていないのではないか、と恐れることはいりません。死はわれわれの力を越えたものではないのです。死は生というコップの端についている目盛りの線です。われわれがその線にまで達するたびに、われわれはいっぱいになっているのです。――そしていっぱいであることは、(われわれにとって)重たくあるということです……それ以外ではありません――私は死を愛さなければならないと言うつもりはありません。しかし、われわれは生を寛大に、どんな計算や選択もしないで愛しながら、知らず知らず(生のかなたを向いた半面であるところの)死を絶えずそのなかに引き入れ、生といっしょに愛するようにしなればならないのです――そして事実、このことはあのとどめがたく、限定しがたい愛の偉大な動きのなかで、いつもなされていることなのです。ただ、われわれは突然に死を意識するだけで、それを生から除外しているので、死はますます疎遠なものとなってしまいました。そしてわれわれがいつまでもそれを疎遠な状態に置いていたので、死はついに敵意あるものとなってしまったのです (46)。
死によって我々の生存が全く終わるか、それとも何らかの仕方で存続するのか分からないということ、死後の命への信仰をもたないということが、我々の現実の生に明確な区切りと集中性と、また、人間の生の脆さと短さから生まれてくる隣人の真の自己への愛、存在する凡てのものへの愛を与える、というのがリルケの意図であり、我々はこれと同じ宇宙への情感をシュヴァイツァーの「生への畏敬」の中に見るのである。
現実の生の深い、畏敬の情感に溢れた一刻一刻の尊重が、シュヴァイツァーのように死後の命の信仰の棄却から生まれてくるものか、それとも、死後の命を信ずることの方が、真に今の生の尊重を与えるものであるのか、我々は実存的に日々の生活体験の中で決断し、また、論理化して行かなければならないであろう(47)
いろいろの不完全さを内包しながらではあるけれども、我々はシュヴァイツアーの「生への畏敬」の状況倫理が、現代の前衛的感覚をもつ神学に支えられているのを見出す。それは内面性の追求と世俗性である。シュヴァイツァーが合理的にその内面に沈潜したところで、人間は合理性を越えた「生への畏敬」の神秘に出合うと主張する時、それは天空に存在するという神の象徴を棄て、内面化していった宗教性を示し、その内面化という人間の自由の果てで、愛の意志として人間との対話に入ってくれる超越者と出合い得ることの肯定である。しかも、既に我々が見てきたように、不十分な形においてではあるが、シュヴァイツァーにおいては愛の意志として人間の内面で自己を啓示する神は、イエス・キリストにおいて自己を啓示される神でもある。即ち、人間の内面化と啓示信仰とが、相互浸透しているのである。この事情は、世俗性というシュヴァイツァーの神学の特徴と相通ずる。内面性と啓示信仰との二元論が克服されていることは、現実の生と死後の命の二元論が克服されていることと歩調を合わせている。彼の神学は現実の生への畏敬に徹する一元論である。
シュヴァイツァーの思索は、粗削りのままで残された彫刻のようなもので、仕上げがなされていない」併し、その指し示す方向は、全く前衛的なものである。
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註
註
(1)London, S. C. M. Press, 1963.
(2)Philadelphia, The Westminster Press, 1966.
(3)アルバート・シュヴァイツァー著(竹山道雄訳)「わが生活と思想より」、(シュヴァイツァー著作集第2巻)、東京、白水社、1956年刊、289頁。
(4)同右。
(5)アルバート・シュヴァイツァー著(大島康正訳)「キリスト教と世界の宗教」(シュヴァイツァー著作集第8巻)、東京、白水社、1957年刊、65頁。
(6)三浦靱郎訳編「愛と思索の日々〈シュヴァイツァーの言葉〉」、東京、社会思想社、1965年刊、158頁。
(7)ジョージ・シーバー著(会津伸訳)「シュヴァイツェル―人間と精神」、東京、みすず書房、1959年、447-448頁。
(8)アルバート・シュヴァイツァー著(大島康正訳)「現代文明における宗教」(シュヴァイツァー著作集第8巻)、90頁。
(9)Picht, Werner : The Life and Thought of Albert Schweitzer, trans. by E. Fitzgerald, New York, Harper & Row, 1964, p.124 よりの再引用。
(10)アルバート・シュヴァイツァー著(水上英広訳)「文化と倫理―文化哲学第2部」(シュヴァイツァー著作集第7巻)、東京、白水社、1957年、322頁。
(11)同前、322頁。
(12)Picht, Werner : The Life and Thought of Albert Schweitzer, p.111.
(13)ibid., p.115 よりの再引用。
(14)シュヴァイツァー著(水上英広訳)「文化と倫理」、335頁。
(15)同前、333-334頁。
(16)Picht : The Life and Thought of Albert Schweitzer, pp. 125-126.
(17)ibid., pp. 126-127.
(18)Barth, Karl : Die Kirchliche Dogmatik, ?/4, Zollikon-Zürich, Evangelischer Verlag, 1957, p. 367.
(19)ibid., p. 398. それと、Picht : op. cit., p. 126 及び、p. 275 の註(93)(94)参照のこと。
(20)シュヴァイツァー著(国松孝二訳)「文化の頽廃と再建―文化哲学第1部」、(シュヴァイツァー著作集第6巻)、東京、白水社、1957年、287頁。
(21)シュヴァイツァー著(水上英広訳)「文化と倫理」、62頁。
(22)同前、29頁。
(23)Picht : op. cit., p. 123.
(24)シュヴァイツァー著(国松孝二訳)「人間の思想の発展と倫理の問題」(シュヴァイツァー著作集第6巻)、166-168頁。
(25)シュヴァイツァー著(竹山道雄訳)「わが生活と思想より」、281頁。
(26)同前、282頁。
(27)拙著「実存論的神学」、東京、創文社、1964年刊、350頁以下を参照のこと。
(28)Moltmann, Jürgen : Theologie der Hoffnung, München, Chr. Kaiser Verlag, 1966.
(29)Teilhard de Chardin : The Phenomenon of Man, trans. by Bernard Wall, New York, Harper & Row(Harper Torchbook), 1961.
―― : The Future of Man, trans. by Norman Denny, London, Collins, 1964.
(30)シュヴァイツァーが、いかなる価値体系をももたないという事情が、その思索のもつ不十分さとともに、ある新聞記者とのユーモアに満ちた会話、人間と細菌の生命とどちらが大切かという会話の中に見られる。Anderson, Erica : The Schweitzer Album, New York, Harper & Row, 1965, p. 143. ところで、シュヴァイツァー自身の矛盾の露呈であるが、倫理的決断のために、方向づけとも言うべき理想を語っている。これは明らかに状況倫理を制約する1つの枠である、アフリカの一夫多妻制が、その社会構造と密接に結合してるが故に、それを国家の法律で破壊せずに、社会構造を変えることによって自然に減滅させるべきことを説いた中で、シュヴァイツァーは、「もちろん一夫一婦制を理想として、またキリスト教の要求として、かかげなくてはならない」と言っているが、これなどはシュヴァイツァーの矛盾を示す一例であろう。シュヴァイツアー著(浅井真男訳)「水と原始林のあいだ」(シュヴァイツァー著作集第1巻)、東京、白水社、1956年刊、148頁。
(31)拙著「実存論的神学」、253頁以下参照のこと。
(32)同上、339頁以下。
(33)シュヴァイツァー著(国松孝二訳)「文化の頽廃と再建」、292頁。
(34)拙著「実存論的神学」、105頁。
(35)Fromm, Erich : The Art of Loving, 1956.懸田克躬訳「愛するということ」、東京、紀伊国屋書店、1959年、82頁以下。
(36)シュヴァイツァー著(国松孝二訳)「文化の頽廃と再建」、288頁以下。
(37)Tillich, Paul : Morality and Beyond, New York, Harper & Row, 1663, p. 22.
(37)ibid., p.23.
(38)ibid., p.24.
(40)ibid., pp.77ff.
(41)ibid., pp.89ff., Tillich, Paul : The Protestant Era, Chicago, The University of Chicago Press,1948. Introduction, pp. xvii ff.
(42)拙著「実存論的神学」、178頁以下。
(43)Altizer, Thomas J.J. : The Gospel of Christian Atheism, 1996. pp. 150-151.
(44)Anderson, Erica : The Schweitzer Album, New York, Harper & Row, 1665, p. 64.
(45)ジッツオー伯爵夫人宛、1923年1月6日、リルケ「芸術と人生」、富士川英郎訳編、東京、白水社、3頁。
(46)ジッツオー伯爵夫人宛、1923年1月6日、同上、35頁。
(47)後者の立場を私はかつて展開した。拙著「実存論的神学」、387頁以下参照。
後記 神学科にとって長い間主任をして下さった浅野順一教授の定年退職は実に大きな損失である。我々教授一同にとって、何か車輪の軸が抜けてしまうかの如き感がする。併し、これも仕方がない。後は与えられた条件の中で我々一同が何とかしなければならない。幸い先生は、今後も神学科で講義をして下さるので、続いて色々の形で我々を指導して下さることを期待したい。
先生は牧会者と神学者というように、実践と学問との両方に生きておられる。こういう方はそう沢山はおられない。この点で私はいつも、先生とアルバート・シュヴァイツァーとの類似を考えてしまう。シュヴァイツァーには随分以前より興味があり、種々考えてきたので、浅野先生への感謝を表現するこの機会に彼の思想について書かせていただいた。なるべくシュヴァイツァーの思索を内側に入って書いてみた。批判するよりも、彼の立場を理解するということに重点を置いた。常々彼の思索が、多くの人々の批判に反して、前衛的な面を多分にもっていると感じているので、それを書いてみた。
実践と学問との関係ということは、浅野先生が我々に残して下さっている最大の問題である。この両者の関係をどう考えて行くかに、神学科の将来がかかっていると言っても、過言ではない。我々一同この問題を真剣に、今後も取り上げて行きたい。
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入力:黒田良孝
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2004.11.4