野呂芳男「神の死の神学」1974
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神の死の神学
野呂芳男
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初出:『教義学講座3 現代の教義学』日本基督教団出版局、1974年77−99頁。
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一概に「神の死の神学」と言っても、その陣営に属する神学者たちの思想が、全く同一傾向のものであると言う訳ではない。現代の神学界において、神の死を意識的に問題にし、「神の死の神学」の台頭のきっかけを作ったのは、ガブリエル・ヴァハニアンの『神の死』(1)の出版であろう。これに少しおくれてヴァハニアンは『偶像をもたずに待て』(2)を出版しているが、そこで彼が展開したのは、現代人はもはや神を 必要 としなくなっているという現代文化の状況である。自律的人間、自分の人生を自分で初めから終わりまで始末する人間性が近代以来確立されてきたのであり、現代人は、人間の生を説明する仮定として神を援用する必要がなくなったというのである。自律的人間の確立の前においては、人間は自分の死への恐怖、絶望や罪から逃れるための仮説として神への信仰を必要としたが、キリスト教文化の終焉に生きる現代人は、神や来世への信仰を必要とするほどには、自分の死や罪や無意味さを恐れない。
ヴァハニアンは、こういう現代文化の自律性を描写したのであり、彼の神学的立場は、こういう文化的状況を真剣にとりあげることから出発する。彼によれば、近代は キリスト教文化 が考えていた神、即ち、人間の生の仮説としての神が死んだことを告げるのであるが、そういうキリスト教文化の神は実は聖書の絶対他者(the Wholly Other)としての神ではない。聖書の神こそ、信ずべきなのである。したがってヴァハニアンの立場は、後述するような神の死の神学者たち、まさにこの絶対他者としての神を否定した彼らとは異なり、人間が生きるために必要であると考え、そして、人間が作りあげる神の否定である。
絶対他者としての神が人間の自律に矛盾すると考え、そういう神の死を主張している神の死の神学者たちは、その思想的な系譜を辿って行けば、ニーチェにまで行かざるを得ないであろう。周知のようにニーチェこそ、意識的に神の死を取り上げた哲学者であった。
ヴァハニアンもそうであるが、神の死の神学(あるいは、徹底的神学)の陣営に属するトーマス・J・J・アルタイザー、ウィリアム・ハミルトン、ポール・ヴァン・ビューレンはみなアメリカ人である。彼らに類似の思考をしている神学者は勿論ヨーロッパにもいるが、アメリカの彼らは自分たちが一つの陣営に属しているという強い意識をもっている。特に、ハミルトンとアルタイザーはそうであり、彼らは共同で一冊の書物を出版しているほどである(3)。しかし、彼らの思想の源流はアメリカの思想界に限られておらず、ニーチェ、ヘーゲル、ウィリアム・ブレイク、ディートリッヒ・ボンへッファーに及んでいる。アメリカの思想界で彼らに影響を与えた存在として、我々はパウル・ティリッヒを忘れてはならないであろうが。そして、彼らの主張する 神の死 は、ニーチェの主張するものと本質的に変わっているものではない。
よく引用されるニーチェの言葉に次のようなものがある。
神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?――神だって腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! それもおれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ? ・・・それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか? これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった――そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ! (4)
ここには「神殺し」をした人間としてのニーチェの、時代の先覚者たる自覚がよく表現されている。神殺しをした人間たちのお蔭で、後の時代の人々は、前の時代の人々よりも人間らしい生活がおくれるのである。その理由は、人間の主体性、自律をおびやかす神が存在しなくなったからである。
ニーチェにとって神は、その目で すべて を、人間の深みやきたないもの、人間の隠れた恥辱や醜悪を見る存在であった。神はその憐憫において少しも慎みを知らないのであり、ニーチェのもっとも汚れた心の隅まで入り込んできた。神はあまりにも出しゃばりであり、なさけ深すぎるがゆえに、また、そのような仕方で人間の生の証人となる神を人間はがまんできないがゆえに、ニーチェは神を殺したのである(5)。ここに我々はニーチェの人間としての誇り、「もし神々が存在するなら、どうして私は神でないことに耐えられるだろうか」(6)というほどの誇りを見る。人間の悪や悲惨に対して、「人間は地球の皮膚病」(7)というほどに敏感であったニーチェではあったが。
神殺しをしなければ気のすまない近代人は、人間の宿命を人間だけで背負おうとする。絶対他者なる神が圧制的に定めた人生行路ではなく、主体的に自由に自分の宿命を形成し、それを歩もうとする。その 自由の実感 の中に生きることの強烈な喜びを求める。その自由はまた、同じ部屋の中に神を感じその絶えざる凝視を受けるのではなく、何の凝視も恐れることなしに物思いに耽りたい人間の欲求でもあり、悪魔の行為の可能性さえも自分のものとしながら、それを拒ける喜びや、そういう主体的で自由な決断から生まれた行為が失敗した時に、その悲しみをどん底まで味わう、人間らしい体験をもつ権利でもある。身体の死が人間にとって一切の終わりであるということへの恐怖におののきつつ、それゆえにこそ、今の一日また一時を無上に尊重しいつくしむという体験への権利でもある。
我々はニーチェのこのような体験へのあこがれと類似のものが、神の死の神学者たちの中にあることを忘れてはならないであろう。
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ハミルトンは19世紀以後の文学作品の分析やボンヘッファーの紹介においてすぐれた論文を発表しているが、彼の得意とするところはむしろ通俗的に、神の死の神学の主な強調点を解説するところにあるようである。オグッレトリーが特徴づけているように、ハミルトンの著作の特色は 率直さ (candor)であり、自分の思索において正直であろうとするため、ハミルトンの著作はしばしば自分の体験の告白の形態をとる(8)。自分にとって神がどのような理由から、また、どのような思想的経過を辿って死んで行ったかを正直に語るのである。
1964年頃から今に至るまでのハミルトンの思索こそ神の死の神学の名称にふさわしいものであるが、その前の労作は我々にそういう名称で呼ぶのを躊躇させるようなものである。1956年に出版された『キリスト教的人間』(9)は、教養ある信徒を対象にしたキリスト教的人間論であり、そこに我々はほとんど教会の伝統的な教えから一歩も外に出ていないハミルトンを発見するのである。人間は神による被造者であり、被造者たる特徴であるところの自己充足性の欠如が、男・女の性別と、互いに異性を求め合うところに見出されており、キリストによって神の前に罪人でありしかも同時に義人である人間の姿が描写されている。
1961年に初版が出された『キリスト教の新しい本質』(10)には、既に彼の今日の立場の萌芽が見られるのであるが、そこに展開されているものは 神の死 というよりも、 無力な神 (the impotent God)の思想である(11)。即ち、この世の一切を支配するところの改革派的伝統に立つ全能の神の観念が死んだのであり、その代わりに、この世の悲惨に対して人間とともに苦しむ 無力な神 をハミルトンは主張するのである。したがって、生活においてもキリスト者は、 無力な神 の受動性、男・女の性別の中の女性的なものに象徴される受動性を身につけて、生活の中の退屈なものやきまりきったものに耐えて行くことを通して、かえって生の中を流れる神の愛の意志に出会う。
どういう具体的な事柄がハミルトンをして、こういう 無力な神 の存在さえも否定させたのか我々にはよくわからない。明らかなことは、「キリスト教の新しい本質」の中にも表現されているように、ハミルトンにとっては世の中にどうしてこれほどまでに悲惨な事柄が存在するのかという、悪の問題への関心が初めから彼の思索の重要な部分を占めていたのであり、彼が今日のような意味での神の死を主張するようになった理由の大きなものは、まさに神信仰がこの問題の解答を与えてくれないということなのである。そして、彼の論文に書かれているもう一つの重要な理由は、ボンヘッファーの路線を継承しながら、ニーチェの提起した人間の主体性の尊重を徹底させようとすることなのである。ボンヘッファーは、この世の事柄を処理するに当たって、現代人は神という仮説を必要としないほどに成人したとなし、 神の前に神なきかのごとくに生きる ことを我々に要求した。それはハミルトンが『キリスト教の新しい本質』の中に展開した 無力な神 の思想に近いものであったが、そういう神さえもハミルトンにとっては、人間の主体性の確立と矛盾するがゆえに、死んでもらわなければならなかったのである。
ハミルトンとアルタイザーは、前述したように共同して『徹底的神学と神の死(12)』(邦訳『神の死の神学』〈小原信訳、新教出版社、1969年刊〉)を出版しているところからも明らかなように、彼らの思想においてある程度の類似性をもっているのであるが、相違も目立っている。相違は、二つの焦点に絞られるようである。第一は、史的イエスに対する両者の態度である。アルタイザーは、今日の聖書研究の成果から見て、イエスの史的実体を回復し得るという希望には悲観的である。むしろ、聖書の中に描かれているイエス像によって象徴されている、背後の形而上学的出来事、後述するところの彼の理解するような神の死の出来事に我々の注意を向けようとする。ところがハミルトンは、この点でもっと楽天的であり、我々は史的イエスの人格についてその大体を知り得るとなし、神の死んだ現代状況の中では、我々の倫理的生の規準として史的イエスの献身的な生の姿勢をもつべきであるとなす。この点で我々は、アルタイザーとハミルトンとの間に、史的イエスに対するブルトマンとブルトマンの弟子たちとの関係に類比のものを見出す。
第二は、両者の 聖なるもの に対する態度の相違である。両者共に超越的な意味で、即ち、人間の自律に反する意味での聖なるものを否定するのであるが、しかし、非聖の社会・世俗の社会・神の死んだ社会に対して、ハミルトンの方が楽観的であり肯定的である。彼にとっては、世俗そのものの中に聖なるものが存在するのであり、我々は彼の主張する聖なるものが、全くヒューマニズムの領域に属するものであるとの印象をもたされる。彼は、加速度的に機械化されて行く世俗の世界に対して、それへの批判をあまり持たずに肯定的なのである。アルタイザーの場合にも、確かに聖なるものは世俗の底に存在するのであるが、彼の場合には、ハミルトンのとった聖なるものの世俗化の道よりかは、むしろ世俗なるものの聖化への道が開かれ得る余地がその神学の中にはある。現代状況への批判の余地を、アルタイザーの神学は所有している印象を与えるのである。
さて、ハミルトンの史的イエスへの愛着は、彼のプロテスタント的なキリスト教の理解が倫理的なものであることを示している。彼によれば、今日プロテスタント教徒であるということは、ルターの修道院廃止に表現されているような、聖なるものから俗なるもの、この世への運動を更に押し進めること、俗なるものこそ聖なるものであるとなすところまで行くことなのである。即ち、その中心を自由なる人格の形成に重点を置いた近代主義キリスト教でもなく、信仰義認論に重点を置いた伝統的プロテスタント主義や弁証法的神学でもなく、第三の立場とも言うべき倫理的神学に行くべきであると彼は言う(13)。そして、史的イエスに愛着するということは、隣人に固着すると言うことと同じであり、ハミルトンの神学はこのようにして、信仰を愛の中に解消させている。
最後の審判についてのイエスのたとえに出てくる義しい人々が、それまでイエスに奉仕していたことを知らなかったように(マタイ25:34)イエスはこの世に隠されている。隣人の中に、この世の仮面を被って。キリス卜者はその仮面をはいでイエスを発見し、彼とともにとどまらなければならない(14)。また、良きサマリヤ人のたとえが暗示するように、我々自身がこの世で、一人のイエスにならなければならないのである。
ハミルトンのもつ世俗の社会への楽観的肯定、及び、キリスト教を愛の倫理に解消してしまう傾向などは、我々をして彼の神学が結局のところ、近代主義神学と大差ないものであると考えさせる。そして、こういう我々の受ける印象は当たっているのである。しかし、我々は彼の神学を無神論と言うことはできないであろう。なぜなら、彼にとって神はかつて存在していたのであるが、イエスにおいてご自分を死なしめる行動を開始されたのであり、その死は19世紀において完結したのだからである。その神の死の反映こそ、ブレイク、トルストイ、ニーチェ等の思想に見られるところの神の死、あるいは、世界への神の徹底的な内在なのである(15)。
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アルタイザーにとって、神の死は19世紀に完結しておらず、神は今も死につつあり、その死の完結こそ歴史の終末である。しかし、ハミルトンと同じように、彼にとっても19世紀の思想家たちが、もっとも顕著にこの神の死を告げているがゆえに、大きな影響力をなしている。ニーチェとともに我々は、特にヘーゲルの影響がアルタイザーに強いことを注意しなければならないであろう。アルタイザーは独特な仕方で詩人ウィリアム・ブレイクの思想を解釈しており、ブレイクの彼に対する影響も我々は見逃してはならないのであるが、その解釈はヘーゲルの歴史弁証法を手段として用いている。
どのような仕方でアルタイザーは、その神学形成のためにヘーゲルの弁証法を用いているのであろうか。まず彼にとっては、旧約聖書の創造者なる神(絶対他者なる神)と被造物とが、また、聖なるものと世俗のものとが、ヘーゲルの弁証法の正と反として全く対立する。このようにして、ヤーウェの神は人間に律法を与え、それへの服従を人間から要求する。ところが人間は、個人としての主体性を確立するにつれて、実のところいわば外側から与えられた枠のごときものであるこの律法――律法は人間一般を対象としたものであるから、人間のもつ個人差などは無視してしまうところの抽象的標準であるがゆえに――に反逆するのは当然である。そこに神と人間の対立抗争が起こらざるを得ない。
神話的にアダムの楽園の状態で象徴されているような人間の無垢を、人間性を豊かにするための前進を行なう以上は、人間は捨てない訳には行かないのであり、そのためには罪は必然的なものである。即ち、無垢という 正 と、罪という 反 との 総合 としてしか、人間性の豊かさは獲得されないのである。
アルタイザーにとって、キリスト教は東洋的神秘主義と異なり、歴史の終末を期待する。それは、歴史の前向きの動きたる連動であり、その運動の始まる前の静かなる根元的一致に帰ろうとするような後向きの宗教性とは異なる。
こういう後向きの宗教性をアルタイザーは 宗教 と呼び、キリスト教を宗教とは考えず、むしろ世界を非宗教化しようとのボンヘッファーの提案に賛成する。世界を前向きの姿勢で、その終末から理解しょうとするのである。この点で東洋の神秘主義はまさに 宗教 であるとアルタイザーは考えており、それは歴史という時間的なものに対立する点で、キリスト教の教会教父以来の神観と一脈相通ずるものがある。アルタイザーによればキリスト教神学は、教会教父以来これまで、永遠なる神を時間と運動や変化の世界に対立するものと考え、アリストテレス哲学の影響もあって、神をご自分では少しも動かずに他のすべてを動かす存在、 静止の始動者 (the unmoved mover)として考えて来た。これはギリシア哲学のもつ神秘主義によって色濃く影響されたものであるが、しかし、こういう動と対立する神秘主義、時間を否定することを通して実在の根源を求め、神に至る道を求める神秘主義においては、キリスト教的神秘主義よりも東洋的神秘主義の方が、はるかに深いとアルタイザーは判断する(16)。
このようにアルタイザーによれば、キリスト教においては歴史が前に向かって動き終末に至るというところに、その独自性が存在するのであるが、それは互いに正・反として対立する神と人間とが創作する歴史である。アルタイザーはその神学の路線を、終末の聖霊の時代が既にイエスより始まったとしたヨアキム・デ・フローラや、現在も働いて啓示を今、直接に人間に与える聖霊を説いた、キリスト教史上聖霊派とも呼ぶべき一群の人々の伝統に沿うものとしている。即ち、彼にとって聖霊とは、神と人間という相反するものの 総合 (coincidentia oppositorum)を表現するのである(17)。
歴史の中に聖霊の時代を到来させたのが、 神の死 の出来事であるが、それは、キリストの出来事を出発点として、神がその超越性(被造物に対して絶対他者であること)を捨てて、人間の歴史の中に内在化し受肉するということを指す。これこそパウロが言う 謙虚 の出来事なのである(ピリピ2:6−8参照)。イエスの誕生、その生涯、特に十字架の死によって象徴されているのは、超越の神の内在の神への 変態 (metamorphosis)であり、歴史への神の内在化・受肉は今もって完成されていない。その完成を我々は歴史の終末に待望するのであり、その時にはブレイクの言うように、「永遠の、神的な偉大な普遍的人間性」(The Eternal Great Humanity Divine)が出現する。そこでは普遍的人間性が全く神と融合する(18)。
神は、人間が豊かに主体性の深みを味わい得るようにと、人間への愛のゆえにキリストの出来事を通して死んでくださったのである。この死んだ神、あるいは、内在の神は現在も、哲学や文学や美術などを通して直接にご自分を人間に啓示されている。こういう神の死の現実の中で、もしも今もなお我々が超越の神を説くならば、それは神の愛への裏切りであり、人間性を豊かにすることになるどころか、かえって人間を殺す悪魔を説くことであるに過ぎない。
神と人間との対立を表現していた 律法 は、キリストによって終わった。したがって、罪はもはや存在しない。なぜなら、罪とは律法への違反なのであるから。ルターの説いた 罪の赦し の意味は、まさにこのことであり、成人した世界に住む人間は、自分の罪を忘れることができなければならない。罪の赦しとは罪の忘却なのである。我々は失われた無垢にあこがれることを止め、律法の存在してはならない世界に生きるものとして、律法という我々の行動を規制する枠を破っても、具体的な現実に密着して、その時その場でもっとも良い行動をとらなければならない。罪とは、抽象的な律法への違反なのであるから、神の死の時代に生きる者にとっては亡くならなければならないと、アルタイザーは主張する(19)。
現代に生きるキリスト者にとってのもっとも深い信仰の体験を神の死の体験に求める者は、自分の死の苦痛と恐怖を寸分といえども逃げずに、沈潜してそれを味わいつくさなければならない。現実を逃避させるような死後の命への期待をもたずに、死を友として、死によって限定されているこの人間の一生のもつ悲しみや喜びを底の底まで味わいつくすことこそ、神の死を体験することなのである。ニーチェの永劫回帰の思想に象徴されているように、死と悲しみによって限定されている人間の生であっても、我々は明るい肯定をなし得なければならない。世俗の中で、その深みで聖なるものの体験がなされなければならないのであり、例えそれが苦しみや悲しみで満ちていようとも、そういう世俗のものから逃げるところ、この世の否定に聖なるものの体験が求められてはならない。この世のこういう積極的な肯定の姿勢こそ、我々を愛するあまり神がご自分を死なしめることによって、我々に可能にしてくださったものなのである(20)。
ここで我々は、前にハミルトンについて論じた時に、少しく触れた事柄に戻らなければならないのであるが、それは 世俗のものと聖なるもの との関係についての両者の相違である。ハミルトンがあまりにも現代文化に心持ちよく安住している感を与えるのに対して、アルタイザーは幾分違った印象を我々に与える。神の死の時代とは、絶対他者なる神と被造物との、聖なるものと世俗のものとの、即ち、相反するものの弁証法的統一によって招来されたものであった。それゆえに、世俗のものが、その聖なるものとの一致を通して深められ、その意味では変化するという余地が、 原理的には アルタイザーの立場には存在する。現代文化のもつ悪に深刻に目覚めている我々にとっては、ハミルトンほどに現代文化について楽観的になれず、この点でむしろアルタイザーに親近感をもつと言わざるを得ない。
終末の神の国の実現までは、聖なるもの(死んだ神)は世俗のものの中にありつつもなお完全には溶解していず、そこには幾分の距離がある。このような仕方での聖なるものと世俗のものとの把握は、神を人間にとっての存在の根底(the Ground of Being)、人間存在の深みの次元(the dimension of depth)として抱えたパウル・ティリッヒと少しも変わらないのである。ティリッヒにとっても、神は人間の他律ではなく、人間性と切断し得ない密着したもの、人間存在の根底でありつつ、しかも水平面において生きている人間の日常性が、通常は忘却している深みの次元なのである。そこには幾分の距離が見られる。
以上の論述より明らかであるように、アルタイザーの神学は終始キリスト論的である。そして、そのキリスト論は謙虚キリスト諭(kenotic Christology)に属している。絶対他者なる神が、イエスにおいてその超越的形態を空虚にされて、ご自分を全く受肉され、歴史の中に内在化されて行くのである。アルタイザーがしばしば引用するブレイクの言葉「神はイエスなのである(21)」は、アルタイザーの謙虚キリスト論をよく表わしている。キリストの出来事とはイエスによって決定的に始められた神の死の出来事であるが、それは この世の中で現在 体験されるものであり、こういうキリスト顕現こそ、いつも今繰り返し生起しつつある受肉の出来事なのである。こういう仕方で神の言葉(キリスト)は、現在という時に、我々の実存にいつも受肉するのである。また、このようになおも働き続ける 死んだ神 こそ、イエスの復活や昇天という聖書の幻の意味するものであり、今もなお生けるキリストについての、あるいは、聖霊についての伝統的な教理が意味したことなのである(22)。
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アルタイザーの神学は多分に存在論的な雰囲気をもったものであるが、我々がポール・ヴァン・ビューレンの思想を瞥見するならば、直ちにそれが全く異なった思想的雰囲気をもつことに気付く。もちろん我々は神の死の神学者たちの一人一人について、彼らの思想が既に固定したものであるかのごとくに取り扱ってはならないのであるが、ヴァン・ビューレンの場合には既に、今までの主著とも言える『福音の世俗的意味(23)』(1963年)から少しく違った歩みを見せ始めている。1968年の『神学的探究(24)』において我々はその違いに気付くのであるが、しかし、我々の今の課題が神の死の神学の研究にあるがゆえに、それと深く係わりをもつ『福音の世俗的意味』の内容についてだけ取り扱うことにしたい。
ヴァン・ビューレンの思想的雰囲気は、言語分析哲学のそれである。彼はキリスト教の思想伝統と分析哲学との総合とも言うべきものを作り上げようとするのであるが、その場合、彼にとって分析哲学を代表するのはルドウィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)のそれである。
ヴァン・ビューレンの試みたものが、キリスト教思想と分析哲学の 総合 であるとしたのは、あるいは正確でないかも知れない。と言うのは、彼が分析哲学に異常な執着を示すのは、それが自分のキリスト者としての信仰体験を理解し表現するのに、もっとも良い言葉を提供してくれるからである。即ち、イエス・キリストの出来事を理解し表現するに当たって、分析哲学がもっとも良い思想的道具となるからなのであり、キリストへの信仰が先に来て、それへの理解が後に来る。それは決して、分析哲学に福音の方を適応させるというようなものではない。少なくともヴァン・ビューレンの自覚においては、そういうものではないのである。
オーストリア生まれで英国において生活し、ケムブリッジ大学で教えたヴィトゲンシュタイン(1889−1951年)の思想で特に我々が注目すべきなのは、その死後出版であるところの『哲学研究』(Philosophical Investigations)であり、それには1920年代の彼の思想と違った1930年後の思想が盛られている。
1920年代のヴィトゲンシュタインにとっては、世界は無数のアトムのような事実(atomic facts)から成り立っていた。これらの諸事実を描写するものが命題の根源的形態なのであり、意味をもち、我々に何かを告げてくれる諸命題、即ち世界を描写するあらゆる命題は自然科学に属するものであった。その他の命題はすべて、同意語の重複か無意味な言語かのどちらかである。論理学や数学の命題は同意語の重複であり、形而上学的な哲学の諸命題は無意味な言語であった。即ち、意味をもつ言語は一種類しかないのであり、それは経験的に立証できるような主張から成り立っているものであった。こういうヴィトゲンシュタインの立場からすれば、神学の言語である「神」とか「救い」とか「永遠の生命」とかいうようなものは全く無意味なものになる。
ところが、1930年頃からのヴィトゲンシュタインは率直に前の立場を捨てて、言語には幾種類もの区分けがなされなければならないとした。それらの区分を彼は言語ゲーム (language−games)と呼んだのであるが、言語には、命令を与えたり、物語を創作したり、謎をといたり、感謝したり、詛ったり、あいさつしたり、祈ったりするゲームの幾つもの種類がある。そして、哲学的分析のなすべきことは、この一つ一つのゲームが、それぞれ別々にもつところの規則を発見することである。こういうヴィトゲンシュタインの立場ならば、神学の使う言語は神学独自の規則によって使われているのであり、それが経験的に立証されなくても、そのために神学の言語はすべて無意味であるということにはならない、というような主張がなされ得る余地が存在する。換言すれば、後期のヴィトゲンシュタインからは、経験的に立証されるもののみが真理であり、それですべての他の言語を判断しなければならないとするような、狭い実証主義的態度がないと言える。
さて、ハミルトンやアルタイザーと同様にヴァン・ビューレンも、キリスト者であるということは現代文化の世俗性からはみ出すことではないとする。むしろ、それに深く係わることでなければならないのであるが、ヴァン・ビューレンは世俗性の特徴を大雑把に 経験的な態度 (empirical attitudes)と呼ぶ(25)。それは我々の文化が技術と工業化とによって形成されているからであるが、このような我々の経験的な気質と両立し得るようなものが、福音の世俗的意味なのである。
ヴァン・ビューレンの神学の経験的な方法論は、その認識的命題(cognitive propositions)と非認識的命題(non-cognitive propositions)に見られる。認識的命題とは、その命題を語る者の態度や感情からは独立して、現実についてある事柄を言うような命題であり、公開された仕方での調査にたえられるような経験的な事柄についての命題である。非認識的命題とは、現実についての客観的な描写と言うよりも、現実を見る角度や態度の叙述なのである。それは人間の生がどのようにしたら意味あるものになり得るかという、特定の見解の表明である(26)。したがって非認識的命題は経験的に立証され得るようなものではないが、それにもかかわらず無意味なものではない。その命題が意味するような行動を、実際にその命題を語るものがとっているかどうかが、その命題の有意味性を立証する鍵である(27)。
ヴィトゲンシュタインに従うと言いながら、ヴァン・ビューレンは認識的命題と非認識的命題という二つの言語ゲームしか許容しない。そうすると「神」という言語はどうなるのであろうか。神は、客観的に公開された形での経験的調査によって立証されるような存在ではないがゆえに、神に関する命題はことごとく認識的命題ではない。そこからヴァン・ビューレンにとっては当然のことながら、神という言語は非認識的なものとなり、生に対するある特定の態度を意味するところの主観的なものとなる。もしそうであるならば、神という言語は人を誤らせるものであるから、捨てられなければならないのであり、そうすることによってもっと直接的に人間について語らなければならない。即ち、聖書の中に神という言語によって語られているものを、すべて人間の生への態度に翻訳しなければならない。ニーチェの神の死とは、こういう形での神という言語の死として理解されなければならない(28)。
聖書の中で神という言語で表現されているものが、イエスの生に対する態度の中に権威ある仕方で具現されているのである。したがってヴァン・ビューレンにとって、イエスの生に対する態度――それをヴァン・ビューレンは死をも恐れずに、いつも隣人の要求に対して開かれている自由と考えるのであるが――において神の啓示、神という言語によって表わされているものの啓示が存在するのであり、その意味でキリストなるイエスは神の神・光の光・真の神の真の神なのである。こういう仕方でヴァン・ビューレンの神学は、徹底的にキリスト論的であり、彼がカルケドン信条に表現されている神・人二性の一人格のキリスト論と、自分の立場とを同一路線にあるとしているのは、不思議ではない(29)。
キリスト者とは、このイエスの 伝染性の自由 (contagious freedom)によって把えられた人間であり、そういうキリスト者の状況、イエスの先手にとらえられたという状況こそ、聖書の中にある、弟子たちのイエスの復活体験であり、教会の中に働く聖霊を体験することであり、イエスを主と告白することである。このように恵みによって救われたキリスト者は、他者のために自分の命を捧げるほどに自由な人間となるのである(30)。
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神の死の神学が、我々に投げかけた問題は種々ある。それは死後の命、超越の世界を否定し世俗性を強調するがゆえに、キリスト教の教理、復活や死後の命や神の審きの思想に深刻な影響を与える。この神学の主張によれば、成人した世界に住む人間は、もはや上述したような教理への信仰をもたなくても、この世界で充実した人生をおくれる。否、こういう教理への信仰をもってはならないのであるが、それはこういう教理が現世の人間らしい喜びや悲しみを味わいつくすのを妨げるからである。即ち、現世をえらぶか来世をえらぶかは、 あれか−これか の選択に属する事柄であり、 あれもこれも 持つ訳には行かない。神の死の神学のこういう主張に対して我々は、これらの教理が単に聖書に書いてあるから信じなければならない、というような反論をなすべきではないであろう。むしろ、彼らの言うようにこの問題は、 あれか−これか の選択に属するものか、それとも何らかの形で あれもこれも 持てるものかを、自分の日常の 体験 の場で、ゆっくりと反省し咀嚼しながら結論を出すべきであろう。
神の死の神学は、アルタイザーのイエスにおける神の死の出来事は律法の終わりであるという主張によく表現されているように、我々の倫理生活に大きな反省を強いる。律法を与える神は死んだのであるから、人間があらゆる倫理的状況の主となり、自分たちの理性と力とに頼りながら、その置かれていを状況にもっとも適した倫理を創作して行かなければならない。これはいわゆる 状況倫理 と呼ばれるものの提唱であることは勿論である。ところで、キリスト教倫理は 状況倫理 であってよいのだろうか、ということは矢張り論じなければならない問題であろう。
しかし、神の死の神学が提出したもっとも大きな問題は、神をどう考えたらよいのかということであろう。そして、我々はこの神学の神観がその人間論と密接不離に関連しているのに気付く。この事情は何もこの神学だけに限られたものでなく、いかなる神学でもそうであり、人間とは何かということの理解が、神をどう考えるべきかを規定しているし、この逆も真なのである。ところで、神の死の神学はきわめて不十分な人間理解を土台にしている、と我々は思う。
ルネサンス以来の人間性の解放、ニーチェの神の死の告知の中に宿る人間の主体性の尊厳という真理契機を、我々も喜びをもって受け取りたい。ニーチェと同様に我々も、この地上の人間らしい喜びや悲しみを奥底まで味わうのを妨げるところの、人間の主体性と矛盾する神には、やはり死んでもらわなければならない。こういう主張では我々もハミルトンやアルタイザーと違いはしない。ところが、人間の主体性はモノローグの主体性ではなく、対話の中の主体性でなければならないのではないか。特にハミルトンやヴァン・ビューレンに対して我々が言いたいのは、人格的な神という対話の相手を失った時に、時間を長くかけて観察するならば、人間は結局のところ主体性も喪失して行くのではないか、ということである。旧・新約聖書を貫いている人間の主体性についての考えは、ユダヤ教の神学者マルチン・ブーバーの周知の用語を借用して表現すれば、「我−汝」という形態でのそれ、宇宙の根源である人格的なものに対する応答としてのそれなのである。応答する相手を持つということは、いきなり人間の主体性の否定につながりはしない。その相手がこちらをこちらなりに生かそうとしている 愛 であるならば、かえってこちらの主体性は励ましと慰めのうちに生かされるであろう。むしろ人間は、自分の 外 に愛の相手を所有することを通して、自分の内側のすべてを――自分の内側に神的なものが存在しないから――奥底から何ものも恐れずに反省する主体的な勇気をもつであろう。アルタイザーの言うように、 神的なもの (死んだ神)が人間性の根底につながっていれば、人間はその根底には自分の反省の眼差しを向けるのを、恐れとおののきとをもって躊躇するであろう。とにかく、人間の主体性の尊重から神の死を主張するのは、 神が愛である ということ、神についての誤解から出発していると言わざるを得ない。
ハミルトンやヴァン・ビューレンの神学においては、人間の所有する対話の相手は、自分と同じ人間、あるいはその集団としての人類であろう。しかし、それが人間性のモノローグであることに変わりはない。そこでは人間 (あるいは人類) は、自分以上の崇高なもの、それに向かって礼拝や愛や犠牲を捧げることのできる相手を喪失したのである。人間以上のものが存在しなくなったり、このままの人間が神的になったりした宇宙は、何というみすぼらしいものであろう。こんなに無力な、汚れた、罪深い人間以上のものの存在しない世界、しかも人間性をさいなみ、歪曲し、苦しめる不条理な出来事が一杯である宇宙を、我々はあっさりと肯定できるのであろうか。
ヴァン・ビューレンが現代人のもつ世俗性の特徴を 経験的な態度 となし、意識的にヴィトゲンシュタインの分析哲学を、自分の神学を形成するに当たって思索の土台としたことは、我々の興味を大いに喚起するのであるが、我々はヴァン・ビューレンがもっと1930年後のヴィトゲンシュタインの主張を取り入れたら良かったと思うのである。どちらかと言うと、ヴァン・ビューレンの思索は1920年代のヴィトゲンシュタインの実証主義的思索を思わせるところが目立つ。ヴァン・ビューレンの言うように、命題を認識的命題と非認識的命題という二種類だけに分類し、それ以外のものを認めなければ、当然のこととして神という言語は無意味になってしまう。神は公開された仕方での調査に耐えられるような誰でもが経験する事柄でなく、信じるもののみが体験し得る存在なのであるし、また、神は生に対するある特定の態度を意味する人間の主観的現実ではなく、人間の対話の相手なのである。
ヴァン・ビューレンは、始めから神の存在を考慮できない方法論を採用しておいて、神を無意味であると言っているにすぎない。ところが、1930年後のヴィトゲンシュタインの思索においては、キリスト教という宗教が使用する言語のもつ意味が、キリスト教の人間に与える体験自体の中で探求される余地が存在するのであり、神という言語がどういう意味をキリスト者にとってもつものであるかが、キリスト教と異質の方法論をどこからかもって来ないで、キリスト教体験それ自体の内部で問題とされ得る。
更に我々は、ヴァン・ビューレンの神学も結局のところ、神の問題から逃れることができていないという点を注意したい。イエスのように隣人に対して開かれた心、死をも隣人のために受容する開かれた自由を人間がもった時に、どうして人間はほんとうに人間らしく生きられるようになっているのか。そういう体験がもてるように、人間を作り生かしているある力が、我々の生の奥底に流れ働いていることを仮定せざるを得ないであろうが、これは不十分ではあるが神を指向するものではないのか。更に、ヴァン・ビューレンがイエスの 伝染性の自由 について語り、それが人間を把えるものであると語る時、ここでも不十分な形においてではあるが、彼の神学がキリスト論をもっと徹底的に問題にしなければならないということを指し示してはいないだろうか。
現代的であることを誇りにしているにもかかわらず、この神学には多分に神話的要素が存在すると言わざるを得ない。ハミルトンやアルタイザーが、かつて存在していた絶対他者なる神の死を語る時、それは無神論よりも現代人にとって信じがたいのではないだろうか。しかも正確に言うならば、アルタイザーの神学は神の 死 について語るものとは言えないのではないか。それは我々にとって、初期のバルト神学の絶対他者なる神と、パウル・ティリッヒの存在の根底としての神を、イエスを結合点として接合した感を与える。アルタイザーの言う神の死とは、実は死ではなく、絶対他者なる神が存在の根底に 変化 したのに過ぎない。そうすると、ティリッヒの「存在の根底」としての神に対しての批判と同じものが、アルタイザーの 死んだ神 に向けられてくる。
ある大学院の学生がティリッヒの神の観念について言ったことであるが、「存在の根底」として神がいつも、切っても切れない人間の深みの次元である時には、人間はプライヴァシーを喪失し主体的な自由を享受していない。神には、もう少し人間から離れて住んでもらい、審きや干渉がましい愛の目から離れて、人間が善いことも悪いことも、あらゆる可能性を考え抜いて、その上で決断するような余地を与えてほしい。我々はこういう幾分ユーモラスな批判を通して、ティリッヒやアルタイザーの神学が、人間の主体性を真に重んじてはいないことを知らなければならない。
我々は旧・新約聖書が、神を霊として表現している点にもっと注意を払わなければならない。ネルス・フェレーが言うように、キリスト教の神は「愛なる人格としての霊(Personal Spirit as Love)と表現するのが適当であろう(31)。聖書において神が霊であるということは、神の存在が月や太陽のように他の存在するものと同様の仕方で、どこかに存在するということの否定である。また、何かの 物 ではないということなのである。神の死の神学者たちは、神を 何かのもの のように、また、 どこか に存在するかのように考えているのであり、そういう神の死を告げているにすぎない。更に、霊なる神は、人間がプライヴァシーのほしい時には、人間から遠くに離れていることのできる存在であり、近くにいてほしい時には、人間が自分に近いよりも、もっと自分に近くいてくれる存在なのである。超越の神が死んだり、あるいは、死んで内在化したりするような神の幼椎な観念、旧約聖書でさえも本質的には所有していないような観念を、我々は捨てなければならない。
人間同士の愛においてもそうであるが、愛は相手の主体性を少しも脅かすことなく、その相手を とりこ にする。愛しているものは全く自由に愛しているのであるが、しかし、愛の対象の魅力にとりこにされていることを実感する。イエスの十字架に象徴される人格的な愛の神は、人間の主体性を殺す他律ではなく、人間は自由にその神のとりこになるのであり、その神のために自分を捧げ犠牲にして行くことが、自分を豊かにし、自分の宿命を成就することなのである。したがって、罪とは真の自己自身への反逆であり、同時に、神の愛への人間の自由な裏切りなのである。
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参考文献
(1)アルタイザー、ハミルトン著『神の死の神学』小原信訳、東京、新教出版社、1969年。
(2)van Buren, Paul, The Secular Meaning of the Gospel, London, SCM Press, 1963.
註
(1)Vahanian, Gabriel, The Death of God, New York, George Braziller, 1961.
(2) Vahanian, Gabriel, Wait without Idols, New York, George Braziller, 1964.
(3)T.J.J. Altizer, and W. Hamilton, Radical Theology and the Death of God, New York, The Bobbs Merrill Co., 1966. 小原信訳、『神の死の神学』、新教出版社。
(4)ニーチェ「悦ばしき知識」No.125『狂気の人間』信太正三訳、理想社刊。
(5)ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』67、「もっとも醜き男」参照。
(6)同上、24「幸福の島にて」参照。
(7)同上、40「偉大なる出来事」参照。
(8)Ogletree, Thomas, W., The Death of God Controversy, New York, Abingdon Press, 1966, P.29.
(9)Hamilton, William, The Christian Man, Philadelphia, The Westminster Press, 1956.
(10) Hamilton, William, The New Essence of Christianity, New York, Association Press, 1961, (Revised Edition, 1966).
(11)ibid., (Revised Edition), p.54.
(12)T.J.J. Altizer & Hamilton, Radical Theology and the Death of God.
(13)ibid., pp.36ff.
(14)ibid., p.49.
(15)ibid., Preface, p.XII & p.37.
(16)Altizer, Thomas J.J., The Gospel of Christian Atheism, Philadelphia, The Westminster Press, 1966, pp.37ff.
(17)ibid., p.27.
(18)ibid., pp.69ff.
(19)ibid., pp.122ff.
(20)ibid., pp.154ff.
(21)ibid., p.68.
(22)ibid., pp.120ff., pp.132ff., p.25.
(23)van Buren, Paul, The Secular Meaning of the Gospel, London, SCM Press, 1963.
(24)van Buren, Paul M., Theological Explorations, New York, Macmillan, 1968.
(25) van Buren, Paul, The Secular Meaning of the Gospel,p.20.
(26)ibid., pp.96ff.
(27)ibid., p.156.
(28)ibid., p.103.
(29)ibid., pp.33ff.
(30)ibid., pp.126ff.
(31)Ferre, Nels F.S., The Living God of Nowhere and Nothing, London, Epworth Press, 1966.
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.8.21
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