野呂芳男「キリスト教の時間論」1975

Home  >   Archive  /  Bibliography

キリスト教の時間論

野呂芳男

        

初出:エピステーメー12月号、1975年、朝日出版社、220-230頁。

1

キリスト教の時間論を探求するということになれば、それは必然的にキリスト教における時と永遠との関係を探るということになる。永遠との関係を考慮しなければ時について思索できないという事情が、キリスト教に固有の性格であることは、過去のキリスト教思想史をみても、現在のキリスト教神学や宗教哲学をみても、永遠と時とがいつも共に論じられてきていることから明かである。

キリスト教における時とは、また、永遠とは一体何か、更に、その相互の関係はどうなのか、というような事柄が、この小論で幾分なりとも明確にしたいところのものなのであるから、我々はそれらについて今は甚だぼんやりとした理解のままで出発することにする。そして、いきなり時と永遠との関係の問題点に焦点を合わせてみよう。

小説家はしばしば、彼自身論理的に整理できず、解決を与えることもできない場合でも、人間が生きて行くことに含まれている種々の問題を鋭敏に感じとり、叙述してくれる。時と永遠に関しては、キリスト者作家椎名麒三の「長い谷間」
(1) がそういう役割を果してくれる。主人公大塚は26才のバーテンダーであるが、1つの恥しい考えに苦しめられている。それは、いつの日にか自分が死ぬばかりか、この地球にも何十億年先であろうと終末がやってくるという考えである。彼は自分の仕事には責任感をもち、いつか小さな自分のスタンド・バーを持ちたいという希望を実現するために、貯金さえもしているのである。併し、そういう小じんまりとした希望の底には深い絶望が、地球が確実に滅んでしまう以上は、自分の墓石さえも安泰ではあり得ないという絶望が横たわっているのである。1日が24時間であるという時計が告げてくれるような時間の、ある時間からある時間まで店を開いて客に接するというような日常性の中では、主人公の小さな希望が支配的であるけれども、眠りについたあとに、時計の告げる時間がおおい隠している深みから絶望の叫びが噴き出してくる。「たすけてくれ」という自分の声に驚いて主人公は目を覚まし、静まりかえったアパートの様子に、誰も自分のこの叫びを聞かなかったのを知って安堵する。

主人公大塚は、店によくやってくる植田敬子と深い関係をもつようになる。彼女ほブルジョアで、未亡人で、キリスト者であるが、「どんな現実も、彼女の前では、痕跡もとどめずに風のように過ぎ去ってしまうらしい」のである。キリスト者としてこの世の悪や罪から救われてしまっている彼女は、傍でやくざの刃傷沙汰があって、とばっちりを受けてバーの止り木から床へ突き落されても、他の客とは違って無関心に汚れたワンピースの膝のあたりを雑巾で拭くだけなのである。彼女の兄が、自分の経営している会社で組合の役員たちを首にした時、会社の工員から兄へのとりなしを頼まれた彼女は、「兄とは何の関係もないの」と言いつつ、いやがらせをする工員たちについて「でも、いいひとたちじゃない? わたし、あんな人たち大好きよ」と、まるで資本家と労働者との対立は既になくなってしまい、すべてが解決ずみの天国が到来してしまっているかの如くに振舞う。神によって既に救われてしまっている彼女は、罪からも救われてしまっているので、主人公の大塚やその他の男たちと性的交渉をもっても平気だし、また、死んでも死なないですむ訳であるから、死の現実にも無関心であるが、それと対照的なのは、心筋梗塞で死んだ大塚の父親である。ふだんはおとなしい人物なのだが、死に向って「この野郎!」、「畜生!」とわめきながら、その病院始まって以来そんな患者は初めてという程にあばれて死んで行ったのである。主人公大塚は、この父に肉体的な共感をもつ。救われてしまっている敬子から「助けて」という悲鳴を聞きたい大塚は、荒川堤に涼みに行った夜、電車が迫ってくる総武線の鉄橋のレールの上に彼女をねじ伏せる。併し、「駄目よ、大塚さん、レールが、レールがちがうわよ」と彼女が言う通り、彼が彼女をねじ伏せたのは、その電車が通るレールではなかったのである。小説の最後で、主人公は「つづけて行くだけなのだ。ただ、つづけて行くだけなのだ」と呟くのであるが、恐らく椎名麟三はこの主人公の言葉によって、真夜中に「助けてくれえ」と叫びながらも主人公は生きつづけるし、また、敬子によって代表されているキリスト教とも関係をもち続けて行くことを表明したのであろう。

この小説は、永遠と時間に関するキリスト教の伝統的思索への椎名麟三の挑戦とも見られる。アンリ・ベルグソンの思索に多くを負いながら、時間に関して発言したローマン・カトリックの宗教哲学者フリードリッヒ・フォン・ヒューゲル(Friedrich von Hügel)が言ったように
(2) 、人間の体験する時間には2種類ある。1つは、人間の体験の言わば外面にあるもので、概念的・人為的な時間であり、「相互に排除し合う同様な長さの時の均等の連続」、即ち、時計の時(clock-time)である。椎名の小説の主人公大塚が、責任をもたされているバーを、きちんときめた時間通りに開店し閉店すること、また、彼が真面目に働いて貯金し、将来は小さくてもよいから自分のスタンド・バーをもちたいという希望をもっていることなどは、この流れ行く時計の時の周囲にまとわりついて行く人生の諸現実である。併し、フォン・ヒューゲルが言うように、人間が体験する時間はこういうものだけではなく、「多少、相互に滲透し合う決して等しい長さをもたない、多様に集中もしくは延長された連続」である時間もある。フォン・ヒューゲルはこれを持続時(duration)と呼んだが、これは人間の時間体験の深みの次元であり、我々はこれを実存時と言ってもよいであろう。即ち、この実存時においては、時計の時で言えば現在にいて、しかし時計の時で言えば過去を想起の中で体験し、その成功を喜び、あるいは、その罪の責任に苦しむのである。また、現在にいながら時計の時の未来に世界の終末を予想して、生きることの空しさに絶望し、あの主人公の大塚のように「助けてくれえ」と叫ばざるを得なくなるのであるのである。時計の時では起こり得ない事柄、過去と未来が現在に侵入するということが、実存時には起り得る。それ故にこそ、「死に至る病」におかされて疎外状況にある自己が、真の自己になろうと決断するというような瞬間(キールケゴール)が、実存時の中で生起し得る。「死への存在」(Sein-zum-Tode)が、自己を真正のもたらしめることにより、救おうとする事態がここで起り得るのである。

我々が、実存時は人間の時間体験の深みの次元であると言ったのは、我々の日常性(ハイデッガーのAlItaglichkeit)では、実存時は時計の時に蔽われ、また、抑圧されているからである。それは、実存時のあからさまな表出は、日常性の糊塗された平和と秩序とを乱すからであり、日常性は実存時のあからさまな表出や爆発を人間として恥ずべき行為と見做すからである。従って、あの主人公大塚も、真夜中でなければ、しかも人に聞かれないところでなければ、「助けてくれえ」とは言わない。

ところで、我々は、この実存時を表面が時計の時である時間のもつ深みの次元として考える訳であるが、実存時は、時間とは全く異質のものたる無時間性(Timelessness)の中に根拠をもち、究極的にはそこから発出しているものであるとなし、実存時の底で接触するものは無時間性であるとする立場がある。フォン・ヒューゲルの持続時は、まさにそういう立場で考えられたものであるが、これがキリスト教思想史の正統的な立場であった。フォン・ヒューゲルによると、1つのプリズムのようなものが存在していて、統一された光線はそれによってスペクトルへ拡張されるように、無時間的実在が我々の意識に入り込んで来る場合には、空問的には並置の形、時間的には継起の形においてである
(3) 。そして、フォン・ヒューゲルにおいても正統的キリスト教神学のように、この無時間性こそ永遠である。

時間の深みの次元で、人間を真の人間たらしめるものに我々が触れるとする点では、フォン・ヒューゲルの思索も実存的なものであるが、彼はその深みの次元をあくまで時間との絡み合いで考えている訳ではない。むしろ、フォン・ヒューゲルはその絡み合いを断ち切り、時問とは質の異った無時間性の方から我々の方に向かってきたものと、実存時の底で我々を出会わせようとする。我々も永遠なるものが時間と質的に異なったものであることを主張したいのであるが、それは無時間性というようなものではなく、むしろ時間を湧出させる源泉、時間の充満と考えたいのである。

どうしてキリスト教思想史の割合に初期に、無時間性こそ永遠という主張が現われてきたのであろうか。仮にそれがキリスト教以外の思想から移入されたものであったとしても、それを受容するキリスト教の側に、それを自分のものとして怪しまないだけの理由があった筈である。その理由は、「一寸先は闇」という諺にも表現されているように、時間の中に生き、それによって制約されている人間にとっては、そのために自己の生存が自由であるとともに不安だからである。神への信頼において死をも征服し、人生の無意味さの絶望から救われることを願う人間は、神に対しては偶然的なもの・予期し得ない出来事は存在しないと言い切ることによって、その神に守られている人間自身も、時間が未来から運んでくるものが何であっても安全であるとしたいのである。人間にとって、歴史や自分の人生は1つの巻物を少しずつ広げながら読んで行くようなものであるけれども、永遠の中に住まう神にとってはすべてが軸のまわりに巻きつけられて、過去も現在も未来も1つのもの、今として存在する。すべてが永遠の今(nune aeternitatis)なのである。

従って、この正統主義の論理を追って行けば、永遠の今である無時間性は、元来時間とは全く質的に異なるものなのであるから、永遠と時間とは混同されてはならない筈である。両者を混同しないならば、信仰者も相変らず時間の中に生きているのであるから不安でなければならず、しかも逆説的に神による自己の救が確かであるという安心をもっていなければならない。と言うのは、不安をなくすような仕方で安心をもとうとすれば、永遠を時間の中に引摺りこむことになり、永遠の時間化がそこで起るからである。ところが、まさにこのことがキリスト教思想史の上で起った。神の歴史に対する支配は、時間の中に生きる人間にとってしばしば決定論と見做されるに至った。要するに、歴史は神が作った静止した青写真に従って動くものとされ、人間の自由な創意工夫によるものではなくなった。我々の生における、躍動する創作性と、相即不離な不安も抑圧されたのである。信仰においては一切が解決ずみであるので、死や不条理への抵抗も労働運動も罪責も必要がないということになりかねない。そこでは、時間への無関心、生きることへの無関心が基本的な態度となる。そこでは、時間の中での充実した生が死によって失われることへの恐怖から出るか、あるいは、充実した生でなければならない筈の時間の中の生が死によって既に無とされていることへのやり切れなさから出るか、いずれにしろ出てくる「助けてくれえ」という叫びは、不信仰と見做されて抑圧される。従って時間を真剣に生き、生きることの喜びと悩みとに浸り切っている椎名の小説の主人公大塚と、永遠を時間化してしまったキリスト者の敬子とは心中することもできない。レールが違うのである。

> TOP



キリスト教思想史上の時間論で、まず我々が足を停めるべきなのは、初代キリスト教の思想的最高峰と言われているアウグスチヌス(Aurelius Augustinus)であろう。彼はマニ教から新プラトン主義の影響下にキリスト教へと改宗したのだが、その有名な『告白録』の中で
(4) 永遠と時間について次の如くに述べている。

汝(神)は時間において時間に先んじておられるのではない。さもないと、汝があらゆる時間に先んじておられるということにはならないであろう。しかし、汝は常に現在であるところの永遠において、あらゆる過去に先んじ、あらゆる未来の後に残られる。未来も過ぎ去るならば過去になるが、汝はなおそこにおられる。汝は常に同一であり、汝の年は去り行きもしなければ来りもしない。しかもわれらの年はすべて未来の年が来る余地を作るために、去り行きまた来たる。汝のすべての年は同時的に存在している。そして、汝の年は去り行くにあたって、来るべき年によって押しのけられない。何故ならば、それは過ぎ去らないから。しかしわれらの年は、われらすべてが存在しなくなってもなおも存在しているであろう。汝の年は1日であり、汝の日は日毎に新たになるものではなく何時も「今日」である。何故ならば汝の「今日」は「明日」によって滅ぼされず、「今日」も「明日」も「昨日」につづいているものではない。汝の「今日」は永遠である。それ故汝が、汝とともに永遠な者(キリストのこと――引用者注)を生まれた時、汝は彼に向かって言った、「われ、今日汝を生めり」と。汝はすべての時を、お造りになった。それ故に、あらゆる時の前に汝はおられ、汝の時がなかった時はない。

我々はここに、永遠なるものを時間と断絶させて考えていた新プラトン主義の影響を見るべきであろうが、アウグスチヌス自身の思想における時間と永遠との質的相違はきわめて明瞭である。

ところで、時間性のもつ意義、人間の生の中から自由と不安とを失わせるような仕方での時間と永遠との混同であると我々が批判したところのものが、アウグスチヌスにもたぶんに見られる。アラリック(Alaric)がローマを劫略した後の暗き日々、紀元412年から426年にわたってアウグスチヌスが書きつづった「神の都」(De civitate Dei)は、彼の歴史哲学とも言うべきものであるが、アウグスチヌスはこの中で、ローマの古き神々を崇拝しないキリスト教徒が、ローマの衰頽に責任を負うべきであるという異教徒たちによる批難に答えた。アウグスチヌスによれば、古き神々の崇拝が別にローマ帝国を益したわけでもなく、唯一の神を礼拝することこそ真の益なのである。それを言うために、アウグスチヌスは創造について、悪の起源と結果について語らざるを得なくなる。人間による神への最初の反逆以来、2つの都が歴史に登場した。地上の都は、神を軽蔑する人間の自己愛により、神の都は、自己を軽蔑する人間の神への愛により形成されている。そして、地上の都は、神の都が拡大されて行くにつれて過ぎ去って行く。神の都の構成員たちは、神によって選ばれた者たちであって、キリスト教会という組織の中に生活している。徐々にではあるが、この教会がこの世を支配して行くようになることが歴史の目的なのである。

こういう論理が、ローマン・カトリック教会の支配した西欧中世を指向したものであったことはさておいて、我々が今注意したいのは、歴史が一定の方向に神によって動かされて行くというアウグスチヌスの摂理論であり、その土台をなしているアウグスチヌスの決定論的思考である。アウグスチヌスによれば、人間は初め神によって義なる正しい存在として、また、自由意志を持った不死の、罪を犯さない可能性を所有した存在として造られたのであるが、最初の人間アダムの傲慢の故に堕罪し、その結果、神に棄てられ、善なる性質を失って魂は死んだ。アダムの堕罪は完全であり、永遠の死こそその当然の結末であった。そして、アダムの堕罪は全人類を巻き込み、生れいずる人間は皆、どんな赤児であっても生れながらにして神の呪いの塊であって
(5) 原罪を背負っている。こういう絶望的状態より救われるためには、人間は、ひたすらに救主キリストの恵みに頼る外には道がないのであるが、原罪によって既に自由意志を失った人間には、罪を犯さないことは不可能であるし、キリストを信じることも不可能なのであって、神がご自分の意志のままに、救おうと決心された人間だけが救われるのである (6) 。即ち、アウグスチヌスによれば、神が救う人間と滅ぼす人間とを予定されているのであって、両方の人数さえも前もってきめられているのである。

勿論、我々はここで、アウグスチヌスの決定論によって表現されているところの宗教的体験の深さを見過してはならないであろう。自分のなし得ることはことごとく罪によごれているので、全くの他力で、神の恵みの力だけでしか自分は救われないのだという、人間のもつ宗教体験の尊さを我々も理解しなければならない。併し、永遠なるもの(神の恵み)と時間(人間の生)との出会いが、どうして決定論という、時間の流れを青写真の中に凍結したような形態をとらざるを得ないのだろうか。こういう仕方では、時間の中での人間の主体性は顧みられなくなってしまう。キリスト教決定論は、神が永遠の昔に、何かを定められたと主張することにより、過去回想的姿勢を人間にもたせ、未来を創意工夫する自由を失わせることになりかねないのである。それにしても、キリスト教正統主義の決定論的思考の成立には、人間が、時間の中に自由に生きることに当然ともなってくる不安から逃れたいということばかりでなく、深い他力の宗教体験があったことも我々は知っておかねばならないのである。従って、我々の思索は、この宗教体験を何とかして十分に表現しながら、しかも、人間の時間性(歴史に対する人間の自由と責任)が決定論によって圧迫されないようなものとならなければならない。

アウグスチヌスのみならず、新プラトン主義に強く影響された神学者たちは、元来神との深い神秘的一致を追求するところに重きを置いた宗教心の所有者たちであったが、そのため神を知る方法は神秘的洞察に頼り、宗教的真理は人間理性の把握を越えたものであるとした。併し、我々が次に問題にしたい13世紀最大の神学者トマス・アクイナス(Thomas Aquinas)までの時代に、キリスト教世界の状況は大きく変わってしまい、そこから新しい神学への傾向が生れてきたのである。シシリー島や当時イスラム教の支配下にあったスペインにおいて、キリスト者はイスラム教、ユダヤ人、異教の哲学者たちと交渉を持たざるを得なかった。何故いずれの宗教よりもキリスト教が正しいかを、キリスト教の思想家たちは非キリスト者に対して、いきなりキリスト教の権威たる聖書や啓示を引合に出して説得する訳には行かなかった。キリスト者にとっても非キリスト者にとっても、論議の共通の地盤となり得る人間本来の理性に訴える以外に方法はなかった。そして、12世紀にはすでに、スペインのイスラム教徒やユダヤ教の思想家たちを通して、フランスやイタリアにはアリストテレスの形而上的著作が広く知られていたのであるが、時代の要請に答えてキリスト教神学を新しい土台の上に築こうとしていたトマスは、人間が自然の世界をその感覚によって観察したところから出発したアリストテレス哲学こそ、その土台を提供するものであると確信したのである。トマスは、神の存在も自然に対する理性的な接近によって証明されねばならないとし、かの有名な神の存在の5つの証明を書いた
(7) 。トマスは、キリスト教の真理のすべてが人間の理性によって認識し得るものとは考えておらず、例えば、神が三位一体であることは、啓示によってのみ人間が知り得るものであるとしたが、それでも、啓示によって知られ得る真理も、理性によって獲得される真理と矛盾してはならなかったのである。「信仰の真理、啓示された教義に反する事柄はすべて、真なるものとして主張されてはならない。併し、我々が真であると考えるものなら何でも、それを信じなければならない箇条と見做すことも許されはしない。と言うのは、もしも、必要な科学的知識をもっていないカトリック教徒の誰かが、科学的吟味によって誤りであることが分っている事柄を教義として主張するならば、我々の信仰の真理は異教徒たちの間であざけりの対象となるからである」(トマス)。

ところで、トマスの神の存在に関する5つの証明の中で、もっともアリストテレス哲学の影響を露呈している第1と第2と第5だけをここで取扱いたいが、それらは次の如きものである。第1は、運動からの証明であり、トマスによれば、運動の状態にあるものは他のものによって動かされているのであって、そのものもまた他のものによって動かされている。これは無限に続く訳には行かないので、当然第1の始動者たる神に辿りつく。第2は、有効原因からの証明である。存在するどのようなものでも、それ自体の原因であるということはない。併しながら、結果であるそのものの原因――即ち、有効原因――を、鎖の輪を無限に1つずつ辿って行くようにさかのぼって行くことはできない。第1有効原因たる神に到達する。第5は、世界の統治方式からの証明である。世界の中では、知力をもたない存在さえある目的のために動いているのであるが、それは、矢が弓を引くものによって射られて目標に向かうように、知力をもつ存在によって動かされているからである。そうすると、この世界のあらゆる現象は、究極的には神と我々が呼ぶところの存在によって、ある特定の目的を実現するために定められているのである。

これらを一瞥して、これらにおいて世界の究極的な目的や諸現象の運動が語られているが故に、トマスが、我々が前に展開した如き実存時の体験を真に重んじていたのではないかと考えるかもしれないが、それは誤りである。この点で、トマスはアリストテレスと全く同じように考えている。周知の如く、アリストテレスは原因に関して4種類を考えていた。何か(例えば、テーブル)をそれから造り出すところの材料(例えば、木)たる質料的原因(material cause)、造り出されるものの性質(例えば、テーブルという形態)を決定する形式的原因(formal cause)、結果を生み出す動因たる有効原因(efficient cause)、運動の究極的目的たる究極的原因(final cause)がそれである。そして、こういうアリストテレスの考えが、前述したトマスの神の存在の証明の中に活かされていることを言うには多弁を要しない。ところで、トマスやアリストテレスは世界観が、結局は静的なものであることは、彼らの有効原因についての見解からだけでも明らかである。アリストテレスにおいては、有効原因の役割は、それが働きかける対象が既にもっている可能性を現実化するに過ぎないのであり、トマスにおいても、第1の証明の中で展開されているところによると、ものの運動は可能性から現実態への働きなのである。こういう考えの中では、カトリックの婦人解放の神学者の1人メアリー・デイリー(Mary Daley)が言うように、未来は現在から何の質的な飛躍なしに訪れてくるものとなる
(9) 。あらゆる運動の目標は既にあるもの、否、前からあったものなのであって、未来は本質的に我々にとって閉鎖されたものなのである。更に、これも周知のように、アリストテレスの絶対者は、あらゆるものを運動させるが、それ自体は動かないものであった。即ち、最高者たる究極的存在はそれ自体の善の魅力で他の一切の存在を引きつけて動かすけれども、それ自体は完全であり、何の可能性をも内に所有していないが故に動かない。運動は不完全の証拠であるがために絶対的存在は不変の・静止の始動者なのである。

絶対者を運動から、従って時間から無関係なところに位置付けてしまったアリストテレス哲学の強い影響下に、トマスの神観も形成されたのであるから、そこでも我々は結局のところ神と時間との積極的な関係を認めることができない。トマスは、キリスト教の神学者として当然、神が人格的であることを主張するのであるが、そのことがアリストテレス的な絶対者の完全性と矛盾しないようにと細心の注意を払っている。例えば、トマスは、神に意志の存在することを認めても、その意志は時間の流れのある特定の時と場所とに係り合って、その時その場で新しい将来を創造しようとするようなものではなく、永遠においてすべてを知っている神の理性が善と理解するところのものを意志せざるを得ないような意志なのである
(10) 。もっとも時間と関係をもたざるを得ない筈の神の愛の思索においてさえ、トマスの言うところは我々にアリストテレスの静止の始動者との類似を想起させてしまう (11) 。トマスによれば、誰かを愛するということはその人のために善を欲することである。それ故に、自分を愛する人間は自分のための善を欲するのであり、できる限りその善と自分とを結合しようとする。ところで、神にとっては、最後的に愛するに価する善とは、ご自分だけである。ご自分のための善は、本質的に善そのものであるご自分以外にない。神が人間を愛するのは、その人問のための善を欲すること、即ち、人間が神を慕って神ご白身の善にあずかり、その善をわかちもつに至ったその程度に応じてなのである。矢張りトマスの思索に基本的なのは、人間を神がその魅力で引き付け動かすという事情であり、人間を、本質的に時間と関係のない神ご自身の性質にあずからせるところに、信仰の在り方を据えてしまっている。ここにも、時間への嫌悪とか憎悪とかは言えないまでも、時間のもつ意味への無関心が支配しているのである。

> TOP



これ迄にアウグスチヌスとトマス・アクイナスとを紹介したのは、彼らが初代及び中世のキリスト教思想の代表者であるためばかりではなく、トマスの思想は今日でもカトリック正統主義の思索の基本であるからであり、また、時間と永遠とに関する限り、プロテスタント宗教改革が大体のところ、アウグスチヌスの思索を踏襲しているからである。確かに宗教改革者ルター(Martin Luther)やカルヴァン(Jean Calvin)によって、その信仰義認論の主張のため、神の恵みの絶対性がアウグスチヌスにおけるよりも強調されたが、そのことは彼ら、特にカルヴァンをして、ますます歴史の動向や人間の運命に関する決定論に向わしめただけであった。

併し、時間への無関心や、時間や歴史の決定論的理解は、現状肯定的な人間にとっては都合がよいけれども、主体的な現代人、歴史を新しく創作しようとの情熱をもつ者には受けいれ難い。思想上での決定論が一時期強烈な実践を生みだすことはあっても、その決定論と直結する実践が、やがては歴史の具体的状況に適合しなくなり、いつのまにかその思想は忘れられて行くのである。

カトリシズムにおいてもプロテスタンティズムにおいても、この決定論的思考は、近年特に評判が悪い。今、私は特にプロテスタンティズムに限って論議を進めたいのだが、この問題に関する限り、長い神学的伝統の重荷を背負わされているヨーロッパの教会よりも、比較的に言って思想上の柔軟さをもつアメリカの教会の方が、よりよい方向に進んでいるように思われる。その中でも特に、プロセス神学と言われている神学者たちがそうである。

現在、彼らはシューバート・オグデン(Schubert Ogden)やジョン・カップ(John B.Cobb,Jr.)を中心としてその影響力をひろげているのであるが、勿論このグループは哲学者ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)の強い影響を受けているのである。ここで私は、既に故人となったが、カール・バルトなどの弁証法的神学の流れに棹さしながらも、早い時期にホワイトヘッドのプロセス哲学の影響に進んで身をさらしたエドウィン・ルイス(Edwin Lewis)に焦点を合わせて、この問題を追求してみたい。

ルイスもこの問題をめぐっては、アウグスチヌス的な永遠の今という思想で出発したのであるが、やがてそれを破棄するに至った。その理由は、正統主義の理解する時間と永遠との関係によっては、ルイスが聖書の中心的真理であると次第に強く感じ始めた神の悲劇が十分に表現され得ないからであった
(12) 。古典的理論が言うように、神にとっては過去も現在も未来も同じ今として、いわば一望の下に見渡せ掌握されてしまうならば、歴史上のあらゆる問題は神にとって既に解決ずみである。人間の罪に人間と共に苦しんたり、人間の喜びを共に喜ぶ神を語ることは、こういう考えでは本質的に困難である。そこで、ルイスは、神の絶対的な全知という如き新プラトン主義やアリストテレス哲学の影響下に正統主義が形成してきた形而上学的概念を棄て、神の知力を制限し、それによって神の悲劇を生かそうとする。聖書の神話を尊重しながらこれを更に説明すれば、人間を自由なる存在として神が造られた時に、神にとっても人間が神に反抗するかどうかは確かではなかった。人間の反抗の後になって痛み傷つけられつつも、その苦しみにも拘らず、神は反抗する人間を救おうとする。このように、ルイスによれば、歴史は人間の自由が織り成すものでもあるが故に、歴史には神にも予測することのできない局面がある訳である (13)

いかにも神話的な様相をもつルイスの発言であるが、ここに我々が看取しなければならないのは、正統主義が永遠を決定論という形で時間化してしまったのに対し、ホワイトへッディアン――今はルイスを取上げているだけだけれども――には、永遠の時間化が別の形でなされていることである。永遠なる神が歴史(時間)の中を通り抜けて、歴史上のあらゆる体験、人間各人のもつ喜びや悲しみ、罪と善という如き体験さえも、ご自分の体験の中に取り入れて行くのである。従って、ホワイトへッディアンの場合には決定論のように時間のもつ特性を傷つける仕方ではなく、永遠の時間化が行われ、時計の時という表面的なものをも含みつつ、時間の深みである実存時が、その自由と不安が、永遠なるものたる神にとって本質的に重要なるものとなっている。それ故に、それに相即して、そういう神を信じるキリスト者は、実存時の中でしか神と出会わないが故に、歴史や時間から逃避した安らぎをもつことはできない。実存時のもちきたらす自由や不安の中に安住する外ないのである。

そして、他のホワイトヘッディアンはさておいて、ルイスの場合には、永遠と時間との質的相違が、神の適応性(Adequacy)という概念の中に生かされている。ルイスの説明によれば、

私はこの「適応性」という概念を次の事柄を意味するものとして使用する。すなわち、神にはどのような事態にも対処する力があり、もし神ご自身の目的を達成するために、その事態が処置されねばならない時には何時でも、神のこの力が発動される
(14)

歴史は青写真があって決定論的に進む訳ではないので、ルイスにおいては、神は将棋差しの如くに局面の展開に応じてその駒を進めて行くのであり、ある意味神は冒険者(Adventurer)でもあるが、併し、ホワイトヘッドのプロセス哲学と違うのは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事に象徴されているように、歴史のどんな詮方無い状況(十字架)も、それを打破するか、打破できない場合には迂回するか、あるいは、可能ならばその状況を逆に利用して、人間性を生かし豊かにするよりよい状況(復活)に進出させてくれる力が歴史の中に働いていることを信じていることである。適応性というと何か状況に人間が順応して行くことであるかの感があるが、ルイスの場合、これは状況創造的な意味合いを含めて使っているのであるが、それはさておき、ホワイトヘッド哲学で言えば、仮に歴史の中にルイスの言うような適応性のカが働いているとしても、それは実存時の底の更に向う側から実存時の底に接触してくるものではなく、まさに実存時の底の次元にすぎないであろう。ここが恐らく、哲学と神学との違いなのであろうが、ルイスの場合には、歴史の中に働く神は必ずその天地創造の意図をその創造的適応性の力を発揮して実現するのであり、人間一人一人について言えば、人間にとっての一番詮方無い状況たる死さえも神は克服してくれると信じるのである。死の克服は哲学の可能性というより、信仰によるものである。残念ながら、死は時間の終りであり、時間の中に生きている人間にとっては未知なものであるから、我々はその未知なるものの中へ歩み入ることの恐ろしさから「助けてくれえ」と叫ぶであろうが、死が自分の一生の一切を無意味にしてしまうという絶望には信仰のお蔭で陥らないであろう。永遠なるものが死さえも克服してくれる以上、ルイスの場合には、永遠なるものと人間との接触は確かに実存時の底でなされるのではあるけれども、それは時間を越えたものが、実存時の底の向う側から実存時の底に触れてくることによるのであり、ここで永遠と時間は質的に異なっている。

併し、ルイスの歴史における創造的適応性を十分に言うためには、もう1つの角度からの補足が必要ではないかと私は考えている。カントを引合に出す必要もなく、人間は時間と空間とに、縛られている存在である。これ迄に永遠を時間の角度からだけ問題にしてきたのであるが、今やそれを空間象徴を使って考えてみる必要がある。即ち、バウル・ティリッヒ(PaulTillich)のように永遠なるものを存在の根底(Ground of Being)として考えるのである。神を我々存在するすべてのものを存在させる力、存在するすべてのものを支える大地の如きものとして考えるのである。永遠なるものに関するこのような空間象徴が、創造的適応性という時間象徴と組み合わされる時に初めて、時間の中での人間が、その自由と不安の中に安住を見出すという根拠が与えられるのではないか。人間がその自由の使用を誤って罪を犯し倒れたとしても、倒れた場所がどこであろうと、その人間は、創造的適応性を人間に滲透させてくれる大地の上に倒れたにすぎないのである。時間のどこをうろついても、時間のどこで倒れても、死んでも、人間は永遠なるものの外に出ることはできないのである。プロテスタンティズムが主張する、全くの神の恵みの力だけによる救、絶対他力の救も、ここで考えられねばならない。どんなに度々倒れても、いつもこの愛の大地がもう一度我々に創造的適応性を滲透させ、主体性に追い返してくれるのであり、この他力で救われて行くのである。

> TOP



1――椎名麟三「長い谷間」、講談社、昭和36年。
2――von Hûgel, Friedrich:Eternal Life, Edinburgh, T.&T. Clark, 1913(2nd edition), p.231,p.298.
3――von Hügel, Friedrich: The Mystical Element of Religion, vol.2, London, J.M. Deut & Sons, 1927, pp.247― 248.
4――Augstinus: Confessions, liber ??, 13, 2.
5――Augustinus: De peccato originali, 34.
6――Augustinus: Enchiridion, 107 & 109.
7――Thomas Aquinas: Summa Theologica, Pt.?. Quaest. ?. An Dens sit? Art.3.
8――Thomas Aquinas: De potentia, 4, 1.
9――Daley, Mary: Beyond God the Father― Toward a Philosophy of Women's Liberation, Boston, Beacon Press,1973, pp. 181ff.
10――Thomas Aquinas: Summa contra Gentiles, C.72.
11――Thomas Aquinas: Summa Theologica, Part?,Q.??.c.1.
12――Lewis, Edwin: A Christian Manifesto, New York, Abingdon Cokesbury Press,1934
13――Ibid., p. 155f.
14――Ibid., p. 156.

※ なお、雑誌掲載論文には註8に対応する本文の表示が欠けていますが、ここでも欠けたまま掲載しています。

> TOP


入力:黒田良孝
入力: 黒田良孝
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dmd-note/
http://web.archive.org/web/20051219224159/http://blog.livedoor.jp/p-3862657/
2004.2.16