野呂芳男「最後の審判について」

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最後の審判について


野呂芳男


     


初出: 『聖書と救会』8月号、目本基督教団川版局、1986年、20-23頁.





(1)

 我々の住む地球が一切を死の世界に巻き込む程に冷却するか、火の玉となって燃えつきてしまうかによって終末を迎えるか、あるいは、核戦争によって人類が自分たちを滅亡させるかによって歴史が終わるかもしれないと考えている我々にとって、聖書の描く最後の審判の物語は、そのままの形では信じがたいものであるだろう。こういう事情がまた、既に終末論の項目の中で述べた非神話化論の原因となっていたものであった。

 併し、最後の審判の物語を非神話化したところで、そこには我々の今日の生活に強いかかわりをもつ神の言が消滅する訳ではない。そういう消滅を意図するものが非神話化論(実存論的解釈)ではなく、むしろ、それは、神話として考えざるを得ない最後の審判の物語の中から、我々に対してその物語がもつ、本来の使信を聞こうとするものなのである。

 我々は日常生活の中で何らかの行動を起した時に、その行動の結果を踏まえて、その行動の動機が正しかったか、時宜を得たものであったか、行動は結果的に是認されるものか、などの評価を他人から受けない訳には行かないし、自分でも反省する。その場合に、他人からの評価は、しばしば我々の動機を誤解するものであったり、動機を顧みることなく結果だけで判断するものであったりする。その行動を自分で反省する場合であっても、正しかったか悪かったかを決める評価の基準そのものが、いつも一定しているとは必ずしも言えないし、行動の行われた時の状況判断が正確であったかどうかの疑問も、しばしばそれに付きまとう。周囲がことごとく反対しても、自分の行動は正しいから行われねばならない、と信じる時もあるであろう。特にこの問題が個々の行動の評価ではなく、自分の一生をどのように評価するか、ということとなると、もっと深刻な事柄となる。

 行動の本当の動機や隠れた動機を知ることのない他人や、自己に対して甘い判断をなし勝ちである自分の評価ではなく、個々の行動の評価であろうと人間の一生涯の評価であろうと、全く公平で客観的に、すべてを知りつくした上で評価できる存在たる神を、結局のところ我々は追い求めているし、必要とするのである。自分の本当の姿を知って貰って正しい評価を受けないでは、誤解に悩み、くやしさに涙する魂は安息を得ることができない。また、他人や自分を越えた超越者の評価がなければ、しばしば我々は他人の目から隠れ、自分に甘えて卑劣な心を作り上げてしまう。このように他人や自分を越えた存在との 交わり が、単独者の魂の孤独を作り上げているのであって、実存とは究極的にもモノローグではない。最後の審判の物語は、以上のように人間の一生の評価が神の手の中にあることを告げる神の言なのである。

 「永遠の命について」の小論で述べたように、今日の我々は歴史の未来のいつの日にか、キリストの再臨とともに世界的な規模の審判のドラマが行われるとは考えていない。最後の審判は一つの生の終りに、死において個々別々になされるところの、神によるその生の総括であろう。

 ところで、聖書の中では最後の審判の物語に、審判がなされたあと裁かれた人間はどうなるのかが描かれているが、それらの記事を土台として、教会史上に種々の説が立てられてきた。おもなものとして周知のものは、創造論とのかかわりで主張されてきた、いわゆる二重予定論である。併し、この説にも創造前予定論、創造後予定論等があり、その主張の具体相は必ずしも一定してはいないのであるが、最後の審判のあと、他を排除して特定の人々だけが永遠の生命を受領することは、どの説も主張する。排除されたものたちは永遠の滅び、地獄での永遠の刑罰に渡されるのである。二重の予定を主張せずに救いへの予定だけを唱える人々もいる。その場合でも、予定されない人々は無に委ねられるか、地獄行きとなる訳である。

 これに対して、教会史上いつも少数者ではあったが、併しいつの時代にも主張する者たちが必ず存在していた説に、普遍救済説がある。この説においては、最後の審判は一つの生涯の大きな区切りではあるが、それによって救われる者と滅びる者とが分けられることはなく、すべての者が最後の審判の直後か、あるいは何らかの期間を経たあとで聖化され、救われるのである。この説の聖書的根拠としてしばしば引用されるのがパウロの「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」(ローマ人への手紙11:32)という言葉やローマ人への手紙8:18-23 であるが、後者にもとづいて、万人の救に他の被創物も何らかの形で参与するという説を主張する人々もいる。


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(2)

 これ迄の現代神学での議論を振り返ってみよう。『信仰の答』の中でクロスターケッター (Wolfgang Klosterkötter) が、最後の審判を歴史の終りに起る出来事とする意見、即ちそれに関する時間的理解の代表者として、『終りの事柄』(Die letzten Dinge) の著者パウル・アルトハウス(Paul Althaus)をあげているが、これは、「終末論をめぐって」で紹介したように、1933年以降のアルトハウスであろう。そのアルトハウスの主張によると、歴史の中に起る出来事はどれを取っても、それ自体単独で直接的に永遠と向かいあっているものではあるが、そればかりでなく、歴史の中の過去や現在のもろもろの出来事とかかわりをもち、相互いに影響し合いながら、未来へ向かって歴史を生成させて行く。つまり、それは単独に永遠と出会い、永遠者なる神を今ここで肯定するか否定するかという局面だけでなく、歴史を形成する一つの力として歴史の生成を根拠付けているものであるが故に、一人の人間の最後的評価は、永遠との直接的出会いだけではなされ得ないものなのであって、その人物の歴史へのかかわりがすべて明らかにされるところの歴史の終り、最後の審判の日を待たねばならないのである。死後ただちに最終的な審きが行われる訳ではない。

 クロスターケッターは更にパウル・ティリッヒとカール・バルトの主張を――前者はアルトハウスの時間的理解との関係で、後者は普遍的救済との関係で――紹介しているが、今日の神学的状況を知る者にとってはやはり彼らを無視することはできない。

 ティリッヒにとって最後の審判、時の終りは時間的出来事ではない。世の終りとは、存在のすべてがいつも永遠によって制約され、支えられて存在している事情を意味している。つまり、時間は絶え間なく永遠へと移行しており、永遠こそが時間の目的なのである。

 ティリッヒにとって永遠は時間を無限に延長したものではなく、時間を支えてその根底となっているもの、そこでは過去・現在・未来が相互に浸透し重なり合い、一つになってしまっているものである。従って未来は、既にあった 永遠の想起 (ewige Erinnerung)である。そしてティリッヒの場合には、永遠たる存在の根底、つまり 存在そのもの (Sein)は、それ自体の中に 存在を否定するもの 、つまり非存在(Nicht-Sein)を含む。これが存在の根底のもつ深淵的性格であるが、ティリッヒはこの非存在の働きこそが、聖書の地獄の刑罰という神話的表現の中から、我々が読みとらねばならないものだ、とする。存在はいつも非存在によって働きかけられ、常にそれを克服することによって存在する。神の生は永遠の本質から時間の中に、存在するものの中に歩み出し、そこで非存在を克服して自己の永遠の生を豊かにする。多くの批評家が疑っているように、ティリッヒのこういうヘーゲル的な見解で、果たして 十分に 聖書的な神の人格性が守られ、神と人間との出会いが人格的なもの同志の出会いとして保証されるのかどうか、私も疑いをもたざるを得ない。また、非存在の力を究極的にことごとく克服する存在の力の主張は、勿論ティリッヒを普遍的救済説に近付けるものだが、人間が救われても神の生を豊かにするための資材にすぎない感のあるティリッヒの神学では、人間はその永遠の相において果たして尚も個的人格であり続けることができるのか。それに、存在そのものの深淵的性格、非存在と、救われた人間との関係はどうなるのか。ティリッヒの解決は、私にはあまりにも多くの疑問を残すものだと思われる。

 カルヴァン主義二重予定論との関連で、それを批判しながらカール・バルトは、キリスト論を土台として考え抜かれた予定論を展開した。彼によれば、神による選びも棄却も啓示の出来事たるイエス・キリストの現実からことごとく考えられねばならず、啓示の背後にまで行って神のみ心を推し測ることはできない。つまり、バルトによれば、選びも棄却も排他的にイエス・キリストにおいてだけ生起したのであり、イエスは我々の代りに罪人として神に捨てられ、また神を喜ばせ得る唯一の人物として神によって選ばれたのであり、イエスの外では選びも棄却もない。このバルトの立場は、エミール・ブルンナーが批評したように、不信仰者に対しても神が有罪判決をする余地をなくし、当然普遍的救済説になるはずのものである。そして、事実バルトが普遍救済論者であったと見る人々もいたのであるが、今日では大体クロスターケッターが『信仰の答』の中で言っているように、バルトの主張はこの問題においても神の恵みの自由を擁護するところにあった、とされている。即ち、バルトによれば、現実問題として、神はすべての者を救い得るが故に、神による普遍救済の可能性に対して我々は開かれていなければならないのである。

 バルトによる普遍的救済の可能性だけに留まる主張とは異なって、事実として神はすべてのものを救って下さると主張した者たちも多い。我々の存在が死で終らずに、死後も他の次元の世界を経て、すべての者が遂には聖化されて神と一つになることを主張したニコライ・ベルジャエフは、もっともオリゲネスに近い思想をこの点で所有していたし、ネルス・フェレー(Nels F.S. Ferré) の場合には、人間の魂の聖化のための遍歴は、他の次元での諸世界のみならず、この地上での転生をも含むものであった。また、ラングドン・ギルキー(Langdon Gilkey)によれば、人間の生は周囲の人々の生存や自由と結び付いているが、しかも、その結び付きは、現在の空間を分かちあう人々との間に存在するだけでなく、すべての人類、否、一切の存在と我々の間とにあるものである。我々の救いが、こういう一切のものとの きずな の中の出来事であれば、当然のこと、特定の者だけが救われるとは思えなくなる。このようにして、ギルキーは万有救済論を肯定している。


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(3)

 最後の審判のこれ迄の神学者たちの議論を振り返ってみて、この小論の初めで述べたように、やはりこれが時間(歴史)の終りに、しかも歴史内で行われるものとする見解は受け入れ難いという思いを新たにする。それは我々の今日の世界観と矛盾するばかりでなく、既に「永遠の命について」の中で検討したように、個人の死と、その最後の審判との関係などに、解決できないあまりにも多くの神学的困難を与える。それ故に、我々は最後の審判の物語を非神話化して、神が時間の主権者であり、我々のこの世での行動の一切を最後に評価するのは神のみであることを述べたのであった。

 『信仰の答』の中で、ハインリッヒ・オットはカール・バルトの普遍的救済論に対する態度を支持している。オットもバルトと同じように、普遍的救済とか地獄への棄却とかについて客観的に語ることは誤りであるとする。神の計画に関して我々は見通しをもてるはずがないからだ、と言う。神の恵みはあくまで自由であり、我々はその主張に服従しなければならない。オットにとっても勿論、地獄とか棄却とかは神との究極的な分離を意味するものであるが、我々が普遍的救済を神に祈り求めながら、しかもすべての者が救われるか、あるいは、一部の者が棄却されるのか、とにかくそういう事柄のすべてを神の自由に任せてしまう時に、我々の神との出会いは真剣味を帯び、希望に満ちたものになる、とオットは言う。

 併し、地獄へ棄却されるかもしれないという不安から、それをなし得る神への恐怖から、自分の生活を改めて神に気に入るようにする人間が、真に信仰的にほめられる存在なのだろうか。またそういう威しつけるような神が、新約のアガペーの神なのだろうか。こういう疑問は当然提起される。問題は、バルトやオットの考える神と人間との出会いの性格にある、と私は思っている。死後どうなるかは教えてやらないが私を信じてすべてをまかせねばならない、というような啓示の仕方が果たして本当に聖書の神にふさわしいものであろうか。むしろ、私の造った現実はこのような仕方で運営されており、死後はこういうようになるし、人間存在も既にこの地上で、愛に生きる時に祝福に満ちたものとなるような構造となっているが、それは死後も続くのだ、というように、神が人間を 理性的にも納得させてくれて こそ、神と人間との交わりは 人格的なもの だと言える。さもなければ、人間は神の栄光をあらわす 道具 にすぎない。普遍的救済論のほうが新約聖書の神にはふさわしい。


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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2002.9.11








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