野呂芳男「希望の宿命論」1991
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希望の宿命論


野呂芳男

   


初出:『聖書と教会』(特集:希望)、1991年4月、日本基督教団出版局、14-19頁。




 ここで使われている「宿命」という言葉を、普通に使われているニュアンスとは違った仕方で用いるので、まずその説明をしなければならないであろう。「運命」という言葉によって私は、星の運行や賽ころの運のように、人間の主体的自由が入り込む余地のない仕方で事態が進展する決定論的な状況を意味し、「宿命」によって、事態の進展が私たちの主体的自由の介入を許し、しかもその進展によって、私たち各個人の本来そうあるべき自己が成就されるような実存的状況を意味したい。周知のように「宿命」は、仏教文学などでよく使われてきた言葉で、前生の業などがその人の内側から、その人の主体性を巻き込みながら開示されるような事態を指すが故に、「運命」よりはまだしも実存論的状況を表わすのに好都合なのである。

 A大学に勤めていた頃のことであるが、日頃尊敬していた英文学専攻のF教授がまだ人生の盛りなのに喉頭癌で亡くなられてしまった。亡くなられる2週間ほど前に先生の家を訪ねた私は、先生から何とかして病気が治るように祈って欲しい、と筆談で言われて、どうしてよいか分からなかった。医師から絶望であると聞かされていた私は、それでも先生の頭に手を載せて一生懸命に祈った。

 教会の役員を勤めていた信仰深い先生にとっても、まだしたい仕事が一杯あるのに、あの年齢で死ぬことは実に無念であったのであろう。勿論キリスト者として先生は、死後神の御許に行けると信じて、死の際にもそこに希望を持っていたであろうが、併しこの地上でもっと長く生きていたかったのである。普通キリスト者は、人間の生死は全く神の支配下にあり、死は神の善しとする時に私たちに神が与えるものと信じているのだが、もしもそうであるならば、F先生のようにこの地上でもっと長く生きたいと望むのは神への不服従、不信仰ということになる。私は30歳代の時に95歳のご老人の病気を見舞って、もっと生きたいという切実な叫びに驚いたことがあった。併し、自分が今老年になってみると、その叫びがよく分かるのである。つまり、人間はすべて、老いも若きも健康でいつまでも生きていたいのである。精神や肉体の病気で自ら死を望む状態は、肉体の壊滅の前に既に死がその人の生活の中で猛威を振るっているに過ぎないのである。

 作家の椎名麟三氏もどこかで書いていたが、肉体が死を迎えるということは、それが自殺であろうと事故死であろうと、また病気や老衰によるものであろうと、確かに一応は生物学的出来事であり、川に飛び込んだとか自動車に轢かれたとか細胞がすべてもう駄目になっているというように、科学的な原因・結果の関係で説明できるのであるが、併しこれでは(他人ではなく、まさに)私の死に対するどうしようもない私の恐れや、死で一切が(神を信じない人々が感じているように)消滅することに由来するニヒリズム、自分の人生は結局無意味であったという実感を説明することはできない。このニヒリズムは生物学的な次元とは違った実存的次元に属するもので、いつまでも生きたいという人間の存在の奥底から迸(ほとばし)り出てくる欲望が成就されないところに由来する。この欲望は、死にたいなどという人間の病的なカムフラージュにも拘わらず厳然と潜在しているものなのである。

 キリスト教信仰の名において死を美化することは止めたほうがよい。健康で真・善・美を憧れ続ける存在こそが、神の求める私たちの在り方なのである。嘗てのアラビアの砂漠の修道僧のように、1本の樹の上にただ座って痩せ細って行くことが神への奉仕なのではないし、殉教も、神の栄光を表わすにはその方法以外に無いところまで追いつめられて止むを得ずに為すものであって、自分の存在を抹殺したいとの自殺願望の美名とされてはならない。

 キリスト教の神は哲学の言う存在そのもの、あるいは絶対無とは異なる。存在そのものや絶対無は、その中に真や偽り、善や悪、美や醜、個として存在し生成することや消滅することなどのすべてを含むのであり、存在するすべてのものがそこに由来する根源である。それに対してキリスト教の説く創造神は、すべての存在に真・善・美に憧れ、偽りや悪や醜さを厭(いと)い、すべて存在を無化しようとするものと戦うようにと造られるのであり、ご自身もまたそのように戦われるのである。パウロが言うように死は神の「最後の敵」(「コリントの信徒への手紙1」15章26節)なのであって、サタンの力であり、神の善しとされる存在を無化する。天地創造の物語は、神が混沌たる無を征服しつつすべての存在を造られる過程の叙述であり、無の抵抗こそがサタンであり悪魔と言われているものである。私たちも、宇宙も、神と悪魔の闘争の場であり、そこでは真・善・美への憧れに満ちつつ存在させようとする神と、すべてを無の偽りと醜さと悪とに、病と死とに突き落とそうとする力とが互いに鬩ぎあっている。自然の動きや法則は神と無との妥協の産物である。

 今日のキリスト教は、もう一度復活の勝利のどよめきを取り戻さねばならない。キリストが死を征服されたことこそが使信の土台なのである。キリスト者は死の際にも、死という悪魔と戦うのであるから、(たとえ自分が95歳であっても)自身悪魔のような形相をして「死にたくない」と叫びつつ死んでいってよいのである。イエスも十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(「マルコによる福音書」15章34節)と叫ばれたが、これは神に訴えて助力を求め尚も死と戦っているイエスの叫びであろう。

 マルチン・ハイデガーのように、死は私に、他の誰でもないこの自分が死ぬべき存在であることを知らせ、私を(自分は、いつまでも生きていられるという錯覚に基づいた)怠惰な日常性から解放してくれるが故に、賛美されねばならない、とするのも間違っている。自分が止むを得ず死なねばならない存在であることは、確かに私たちの人生に区切りを与えてくれて、怠惰な日常性を追放してくれるが、併しこれは死が私たちの最後でなく、その後も神との永遠に渡る交わりが存在するという希望が在ってこそ受け入れられる事柄である。ハイデガーの言うように、死で一切が無に帰するということであれば、聖人君子はいざ知らず、私のような罪人は、それなら一瞬一瞬に罪を犯してニヒルに人生を笑ってやろう、ということとなる。わざと怠惰に日々を送るのである。

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 もしも人生に希望があるとすれば、神によって死が征服されたものであることを先ず信じなければならない。死こそがニヒリズムの根源なのであり、復活信仰は払たちを絶望という根源的な罪(絶望は罪である――キルケゴール)から解散する。このように死後の命を信じ得て初めて、やがては死なねばならない地上の人生にも真・善・美を追求する意味があり、それを幾分なりとも実現しようとする希望と意欲が涌いてくるのである。つまり希望には2つの次元が存在する。1つは、来世への希望、死後の命を与えられることへの希望である。もう1つは、私たちがこの地上で真・善・美を追い求めるように神によって造られているならは、この地上でもそのような理想を幾分なりとも実規する可能性があるという希望である。

 諦めは絶望とは異なる。今の段階では自分の希望が周囲の状況や、自分の意志や感情や身体的状況のために実現できないと締めても、そのことは、近いまたは遠い未来においても、それを諦めることには必ずしもならないし、どうしてもこの地上での実現を諦めなければならないならば、死後神の御許でそれが実現されるのを待てばよい。諦めにはこのように戦略的な意味があるが、絶望にはそれがない。

 周知のようにキリスト教は世の終わりを待ち望み、死後の命を信ずる終末論的宗教であるが、エリザベス・フィオレンツァも言っているように(『彼女を記念して』山口里子訳、日本基督教団出版局、194頁以下)私たちに世の終わりに与えられる神の国は、既にイエスの到来と共に幾分かは地上にも、私たちが体験できるものとして与えられているのである。つまり、終末は地上を超越しているとともに内在してもいる。もっともフィオレンツァが、黙示文学に現われてくるサタンや悪霊をここで単に社会的な抑圧権力構造また非人間的権力構造と同一視しているのは、私には不十分と思われるのであるが。彼女自身が他のところで(198頁)サタンの働きを病気を起こすものとして描いているように、聖書で神話的にサタンや悪霊の働きとして書かれている無の力、神に抵抗する無の働きには個人的な次元も、社会的な次元もすべて含まれているのである。それはとにかくとして、キリスト教は超越的終末論のみならず内在的終末論を説かねばならない。

 それ故に、現世を全く捨てて来世の幸福だけを追求するという姿勢は誤りである。イエスによって明らかにされた内在する神の国は今もなお働いているのであるから、払たちはこの地上でも幸福になれるし、ならねばならない。隣人の幸福だけを追い求めて自己の幸福を投げ捨てることだけがキリスト者の愛であるとしばしば説かれてきたが、同じ人間であるのに、1人を幸福にし1人を不幸にすることが何故に愛なのか、さっぱり解らない。こういう説教は、人間性の本質に反するが故に、表面は柔和で、実は欲求不満な人間を産出するだけである。すべての人間が真・善・美への潜在的な憧れを持って生きているのであるから、真の自己成就たる幸福の追求が、いきなり他者の不幸と繋がる筈はない。ご利益信仰と軽蔑されようとも、自分の幸福を含めて、すべての人々のできる限りの地上的幸福を追求しなければならないのである。さもなければ、キリスト者が社会的実践などに懸命になる必要は全くない。幸福追求が悪いのではなく、他を犠牲にする幸福追求が罪なのである。なるほどある時には、病気や貧乏が私たちの精神の向上に役立つことはあるであろう。だからと言って病気や貧乏が善とはならない。これらの生のマイナス状況が、 それにも拘わらず 生のプラス状況を生み出す契機となるだけである。

 これが十字架と復活が表わす真理なのである。聖書が救済史として展開する物語によれば、イスラエルの民が神に背いた時に、イスラエルに反省を促すいろいろの手段を試みられて失敗した神は、次に預言者たちを送られたのであるが、この民は背き続け、預言者たちをも迫害した。そこで遂に神はご自分の独り子イエスを送られたところ、民はイエスを十字架に架けて殺した。死が神に勝ち、神は詮方尽きたかのようであった。ところが神はそこで独創的な行動に出られた。死を死の中で征服されて、ご自分の独り子を復活させたのである。十字架というマイナス状況は、神の創意工夫を刺激する契機となり、死の征服というプラス状況を招来した。イエスがその弟子たちに、日々自分たちの十字架を負ってイエスに付いて来るようにと言われた時に、神の力によって十字架というマイナス状況が必ず復活というプラス状況に変えられることを前提として言われたのである。十字架と復活は過去の出来事であるばかりでなく、イエスにおいて日々語られるケリュグマに対して私たちが決断する時に、私たち個人にとっての今ここでの出来事となるのである。キリスト者の希望には、来世の幸福の次元ばかりでなく、この地上での現実的な、深い意味での幸福の次元が――その幸福が結局のところ不十分で、いつも破れを持ち、来世の幸福を憧れさせるものではあっても――含まれていなければ、真にケリュグマを私たちが聞いたとは言えない。キリスト教は、人生には何も新しい事は起こらない、決断などしようにもできないという決定論ではないし、人間は運命の川の赴くままに流されて行く木の葉ではない。

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 哲学者ウイリアム・ジェイムズが何処かで書いていたが、人間に自由意志があると主張することは、世の中に希望が存在すること、私たちの生活や世界には改良の余地があることを意味する。予定論を信じて、自分が永遠の救いに予定されていると確信している人にとっては、これほど便利な教義はないが、自分が永遠の滅びに予定されているのではないかとの疑惑に苦しめられている人にとっては、これはまさに今、既に地獄に日々入れられている感を与える教義である。少し考えてみれば、予定論ほどに残酷な、愛のない教義は他にない。かつて教会が語ってきた予定論は大体において少数者しか救われないと言うものであるから、確かに信者の、嫌らしいエリート意識には満足感を与えるではあろうが、何故にその信者は滅びゆく大多数の人々と共に自分も進んで地獄に行こうとしないのであろうか。地獄の中で神の愛を説くためだけでも。否、それを考える前に、たとえどんな罪人であろうと、人間を 永遠の 刑罰で苛め抜く神を、どうしてイエスを送って十字架に架けてまで私たちを救おうとする神と同一視できるのだろうか。

 人間に自由意志があることは客観的に証明することがむずかしい。客観的に分析すれば、私たちのなすすべては、生まれた時から持っている遺伝や、行動した時の自然的あるいは――身近な人々との関係を含む――社会的環境によって説明され得るものである。自由意志は、決断し、行動している当人の、自分の責任においてそれを行なっているという自覚以外のところで最後的には知られ得るものではない。勿論この自覚は、上に述べたような、客観的には決定論としか言いようのない、自由意志否定を可能にするほどに、その時の環境と主体との密接で錯雑した関係の中でしか起こらないものであるが。客観的な自由意志否定は、生命を把握しようとして、殺した蝶の体の中にそれを探すのに似ている理解姿勢に由来する。人間が自由な存在であるということは、直感で知り、信じなければならないものなのである。キリスト教では神も人間も主体で自由意志を持つ存在として信じられているのであるから、神と人間とが織りなす歴史、私たちの間で展開する神の摂理は、主体と主体との間に時の流れに応じて自由に進展するものである。ちょうど2人の人間が共同で小説を書いて行く作業に似ている。物語は前に書いた部分を受けて、2人の相談によって書き続けられて行く。但し、キリスト教では神が創造の時に、人間の身体のみならず精神にまで影響を及ぼす無の抵抗にも拘わらず、その抵抗に打ち勝って人間を真・善・美に憧れる存在として造ったが故に、人間は自己成就のために神を慕う。このように、人間は自己成就のために神を信じ、神のところに行かねばならない宿命を背負っているのであるから、当然のこと、神と人間の関係では神が優位に立って事を運ぶ。人間がどれほどに抹殺しようと努めても、この自己に対する暴力的な罪にも拘わらず、魂の奥底にある憧れは消えてくれない。

 神は人間のこの憧れに働きかけて、人間が神の方に向きを変えてくれるのを待つ。これまでのことも、これからのことも、一切を赦していつまでも待つ。神の待つこれからは、(神の愛に支えられてではあっても、主体的な人間が自分から納得して自らの力を振り絞って神の方に歩み行くのであるから)死後の、気の遠くなるように長い聖化の道程を指しているのである。死んだらすぐ奇跡的に全く聖化されて神の御許に行くというのは、死後もいつも神が側にいてくださることの神話的表現としては通用するが、人間の主体性に反し、文字通りには受け取れない。神と人間との織りなす歴史、愛のロマンは私たちの死後も永遠に続く聖化の過程であり、しかもそれは決定論的なものではない。人間の心の動きや行動を見守りながら、神はご自分の行動を模索される。そしてイエスをこの世に送られた事実に見られるように、実に創意工夫に満ちた、独創的な行動によって私たちを助けられるのである。私は無の働きを不条理という言葉で表現しているのだが、神は不条理に打ち勝てるところではそれを征服し、打ち勝てない場合にはそれから迂回し、不条理というマイナス状況をプラスに変え得るところではプラスに変えて人間を導かれる。この神の創意工夫に倣って、払たちも自分の人生を幸福にして行くのである。

 最終的に人間が――地上でか死後においてか――神のところに帰らないわけにいかないのは、神の愛の恐ろしい魅力に引かれるからである。すべてを赦して、いつまでも待ち続ける神の愛に(ニコラス・ベルジャーエフの言い方を使えば、あまりにも神が哀れになって)私たちは自ら進んで神に捕らえられて行くのである。これが神の全能であって、それは愛の全能であり、なんでもできるという意味のものではない。神はF教授の癌を直せなかったし、老衰で死にゆく人を若返らすこともできなかった。併し、神はそういう不条理たる死を死なせて、お2人に永遠の命の道を歩ませておられる。こういう不条理は諦めるべき事柄ではあっても、絶望すべき事柄ではない。

 いつまでも待つ、すべてを赦して待つ神の愛には、この地上でか、あるいは死後の命においてか、遂にすべての人が自ら進んで虜となり、万人が、否、パウロが「ローマの信徒への手紙」8章で言っているように万有が救われる。(詳しくは拙著『神と希望』〈日本基督教団出版局〉を見ていただきたいが)地獄などというものは、私たちが自ら造りあげた精神空間で、使徒信条のキリストの冥府下りに表わされているように、遂には神の愛によって打ち破られるものである。パウロが言うように「死も、命も、天使も、支配するものも、……他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」のである。

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入力:黒田良孝
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2006.01.30





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