ユダヤ・キリスト教史 1998.2.17


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第34回 ――キリスト教二元論?    (1998.2.17)


野呂芳男







 パウロ派について述べよう。この派は、東方教会の地域であるサモサタの近くで(650−660年頃に)発達した、マニ教の再来とも言えるものであった。但し、この派の信者たちは、自分たちがマニ教とは関係がなく、ただパウロの教えに従うと言ってはいたが。そして、聖書を勿論信じていたけれども、彼らは自分たちの聖書からペテロ関係の文書を削除して使っていた。

 彼らの信仰も二元論であった。それによると、世界は悪の力によって創造されたのであるが、人間の魂は善なる神の国から出てきたものであった。キリストは善なる神から遣わされた天使で、神によって養子とされた存在で、その意味で神の子であった。そして、キリストの救い主としての役割は、主に信者を導くところにあった。彼らは、キリストの体が私たちのものと同じであったとは信じていなかったし、悪の力が作った体の欲望を禁欲しても仕方がないと考え、修道院には反対していた。物質は本来的に悪だと信じていたので、カトリック教会の持つ(物質を用いる)秘蹟と関係するもの、サクラメント、十字架、聖像、聖遺物をことごとく否認した。またカトリック教会の位階制も、悪魔の支配下にあるとして反対した。

 信者は巡回説教をし、また写字生として聖書を写し、人々の用に供することを義務とした。彼らは東ローマ帝国に広まったが、特にアルメニヤに深く根を下ろした。彼らはその軍事力の強さのために、コンスタンティヌス5世によって752年に、ブルガリヤ人に対する防衛として、バルカン半島に移住させられた。同じことがもっと大規模に、皇帝ヨハンネス1世によって969年に繰り返された。

 バルカン半島で彼らはボゴミール派の成立の起源となり、ボゴミール派は南フランスのカタリ派の発展に大きな影響を与えた。







 南フランスを中心としたカタリ派に話を移すことにするが、この地に強力なカタリ派が成立するに当たって、原因として考えられるものが幾つかある。先ず考えられることは、西方世界においてはマニ教が根絶していなかったことであろう。マニ教の二元論がカタリ派の中に息を吹き返した、とも言えるのである。更に、東ローマ帝国の皇帝が、パウロ派やボゴミール派を迫害する政策を取り出し、そのため両派の信者たちが西方に逃れてきて、マニ教の流れと合流した。もう一つ考えられることは、十字軍によって東方との新しい接触が西欧において起こり、ローマ・カトリック教会だけが宗教や文化の所有者ではないことが、改めて人々に認識されてきたことである。

 ギリシャ語の「清い」という語 katharos からカタリ派という名称は取られたが、この派の中心地がアルビであったことから、アルビ派とも呼ばれた。この派は南フランス、北イタリヤ、スペイン北部に広がっていった。1167年にはトゥルーズの近くのサン・フェリ・ドゥ・キャラマンで、各地からの代表者を集めたカタリ派の会議が持たれたことから考えても、この当時に既に相当の教勢を持っていたことが分かる。12世紀の終わりには、南フランスの人口の過半数及び諸侯の支持を受けていた。北イタリヤの状況を見ても、1228年にはフィレンツェの住民の三分の一がカタリ派であった。1200年までにはカタリ派は、ローマ・カトリック教会の最大の脅威となっていた。

 ここまでカタリ派が人々の支持を得た理由には、当時の禁欲的な時代精神にこの派の信者の禁欲的な生活が適合したことを挙げることができよう。また民衆は、カトリック教会の富と権力、また偽善に反感を持っていたのだが、カタリ派が(カトリック教会の秘蹟による)聖職者の位階制を否定したことを歓迎したのである。

 カタリ派はその教理において、穏健派と徹底派とに分けることができよう。(ボゴミール派も穏健派であったが)北イタリヤのカタリ派は穏健派で、南フランスのカタリ派は徹底派であった。穏健派はグノーシスの系譜を継ぎ、善なる神からの発出の途中で何らかの理由で悪が存在するようになってしまった、とする考えであった。これに対して徹底派はマニ教の系譜を継ぎ、善と悪とは永遠の昔から永遠の未来にわたって対立抗争すると考えるのである。穏健派は、善なる神にはサタネルとキリストという二人の息子があって、その内の兄の方が悪の指導者になってしまったとする。但し、両派ともに、善なる魂が(体を含めた)悪のこの世の虜になっているとする点では同じであった。

 カタリ派の考えでは、アダムとエヴァの原罪は、人間の体の、生殖による再生産を行なったところにあった。この世からの人間の救いは、悔い改め、禁欲、慰めの儀式(consolamentum)の受領によってのみ可能であった。人間は慰めの儀式を受けることによって、その罪を赦され、神の国に受け入れられるのである。この儀式は、既に慰めの儀式を受領した者が、その儀式を志願する者の頭に「ヨハネ福音書」を置いて按手することによりなされた。(ここで、ローマ・カトリック教会の司祭側に見られるような、秘蹟による位階制が排除されていることに注意する必要がある。つまり、カタリ派にとっては慰めの儀式こそが、使徒以来ずっと継承され使徒職の継承〈使徒伝承〉なのであった)。この按手を受けた者たちは完全者(ペルフェクトゥス)――フランスではボノム(善人)と呼ばれた――と呼ばれ、実際的には彼らがカタリ派の司祭であった。

 この儀式の受領の後、完全者は結婚することを控え――既に結婚している者たちは、性の交わりを控え――、誓約することを拒否し、戦うことなく、財産も所有しないし、肉や乳や卵のような(再生産による罪の所産である)ものを口にしてはならないのであった。カタリ派にも、教皇や司祭が存在したという伝説もあるが、カタリ派における具体的な階層は分かっていない。

 カタリ派では大多数の信徒は死ぬ前に慰めの儀式を受領した。それ迄は、結婚し、財産を持ち、この世の良きものを享楽し、表面上はローマ・カトリック教会に所属していてもよかった。慰めの儀式を受けないで死んだ者は、最後に神によって受け入れられるまで、人間または動物の体に生まれ変わり、転生する。

 カタリ派の中には、旧約聖書は全てが悪であるとして退ける者たちもいたが、詩編と預言書だけは受け入れる者たちもいた。新約聖書は善なる神から与えられたものとした。物質を全て悪と考えたので、キリストが生身の体を持っていたことを否定した。そのため、十字架でキリストが殺された筈がないので、彼らにとっては、十字架は何も特別なことを意味しなかった。パンやぶどう酒を遣う教会の秘蹟(サクラメント)は、物質を使うが故に否定されたし、教会堂も物質でできているものであるから、彼らによって造られなかった。従って、カタリ派の礼拝は極めて質素なもので、新約聖書(特に「ヨハネによる福音書」)が読まれ、説教がなされ、ついで(神の霊が宿ると信じられた)完全者の前に信徒がひざまずき、祝福を受けたのである。礼拝の中では、祈りとしては「主の祈り」だけが用いられ、月に一度、パンだけが聖別されて共同の食事(愛餐)がなされた。完全者になるには男女の区別はなく、記録によると完全者の半分は女性であった。







 教皇イノケンティウス3世は、最後の十字軍をカタリ派に向けることに決め、南フランスにおいて十字軍の残虐行為が繰り返された。カタリ派を支援していた南フランスの領主たちは、教皇軍に加わった北フランスのルイ9世を迎え撃ったが、徐々に敗退していった。天下分け目の関ケ原とも言うべきは、スペイン国境に近いモンセギュールの攻防であった。ここに立てこもったカタリ派信者とその支援兵たちは、1243年5月13日に十字軍に取り囲まれ、翌年3月13日の(停戦協定による)開城まで戦い抜いた。立てこもった者たちは投石機に負けたのだが、信者たちは支援兵たちを無事に送り出して、篭城中にカタリ派の品性に感化されて慰めの儀式を受けた兵隊やその家族と共に山を下り、設けられていた火刑台に上り、220人程が殉教していった。カトリック教会はこの後もカタリ派全滅に努め、異端審問官による組織的な異端裁判が実行されるに至った。



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入力:平岡広志
2003.4.30