ユダヤ・キリスト教史 1998.2.24
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第35回 ――シモーヌ・ヴェーユの生涯と思想 (1998.2.24)
野呂芳男
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二元論の歴史を私たちはこれ迄に学んできたのだが、現代における二元論者、しかもフランスのカタリ派に傾倒した一人の女性の生涯と思想について知ることにしよう。彼女の名はシモーヌ・ヴェーユであるが、1909年2月3日にパリのユダヤ人中流家庭に生まれた。父親のベルナールは医師で、母親はセルマと言った。シモーヌには3才年長の兄アンドレがいた。1910年1月に彼女は重病を患い、その後生涯にわたって虚弱体質に苦しんだ。1919年(10才)に、フェヌロン校の、年齢よりも2級上のクラスに編入した。彼女は文学と数学には優秀な成績をあげたが、手先は極めて不器用であったらしい。1920年には、病弱のために休学。1921年(12才)にはギリシャ語の学習を始め、パスカルの『パンセ』を愛読したが、この年に、彼女を生涯苦しめるようになった偏頭痛の発作が始まった。1925年(16才)に、大学入学資格試験(哲学)に合格したが、同年に兄のアンドレは、大学教授資格試験に首席で合格した。この年に彼女はアンリ4世校に入学し、著名な哲学者アランに師事した。また、後に二元論の研究家として知られるようになった級友のシモーヌ・ベトルマンと親しくなった。
1928年には、彼女は高等師範学校に入学し、そこを1931年(22才)には卒業し、大学教授資格試験に合格した。その間、1929年(20才)には、彼女は平和主義運動に参加し始めた。1931年には、ルービュイの国立女子高等学校の教師に任命されたが、その年の12月17日には思いがけず、ルービュイ事件として知られる事件の主役となってしまった。たまたま失業者の代表団が市長に、嘆願書を出そうとしていたのだが、口下手でどうして良いかも分からない彼らの中に彼女は加わって、結局は赤旗を自分で持ち、市長にも話を取り次ぐ役割を引き受けてしまったのだ。新聞などを通してこの事件は有名になり、(彼女がユダヤ人であったので)「レヴィ族の赤の乙女、モスクワ福音書の伝道者」などと呼ばれたりした。1932年に、彼女はベルリンとハンブルクに旅をしたが、それはナチズムの台頭を自分の目で確かめるためであった。この年に、彼女はオセールの国立高等学校の教師に、1933年には、ロアンヌの国立女子高等学校の教師になった。1934年には1年間の休暇を貰い、労働者の生活を体験するためにアルストン工場のプレス工となった。1935年3月に、アルストン工場を退職し、ごく僅かな期間ではあったが失業の体験をした。4月にカルノー工場のプレス工となった。5月7日に解雇され、6月にルノー工場のフライス工となった。
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これらの工場労働者としての体験を通して、ヴューユは自分の思想を形成していった。この頃から彼女が独特の意味内容を付しながら使い始めた幾つかの言葉かあるので、それらを説明することを通して、彼女の思想を紹介することとしよう。
生涯にわたって彼女はローマとイスラエルの文明や文化を毛ぎらいしていたが、周知のようにこれらの文明には奴隷が存在していた。工場での労働体験を通して彼女は、機械労働が人間を奴隷にすることを知った。「奴隷」とは、彼女によると、人間としての権利を全て奪われた存在であった。決められた時間に来て、決められた時間が来るまでは、労働 者は自分のペースではなく、工場のペースで、機械のペースで働き、人間らしく考えたり感じたりすることを中止しなければならないし、工場から解放された夜の時間は、また翌日の労働のために休息し準備しなければならない。そこには自分のための時間はない。
奴隷は必ず「不幸」である。不幸な人間は他人のことを考えてあげるエネルギーを持たない。自分のことで精一杯である。そして不幸な人間は、ヴェーユが「重力」と呼ぶ力によって下方へと引っ張られてゆく。物体が全て下方からの重力によって影響されていて、それ自体または外部からの支えがない限り、地面に落下してゆくように、人間の精神も自分自身で重力に抵抗しないならば罪深い卑劣さの中へと転落して行く。人が自分のようには不幸でないことを憤り、自分と同じ、あるいは、それ以上に不幸であることを喜び、それらの不幸な人々に同情の手を差し延べるどころか、むしろそれらの人々を見下したり、疫病のように避けたりするのである。重力と闘うことは人間にとって至難の業であるが、その重力に引かれて落下する奴隷たる人間には、どうして自分はこのように不幸なのか分からないという心の空虚がぽっかりと開いてしまう。この空虚を埋めるために、人間はますます卑劣さの中に埋没するか、あるいは、その空虚を「想像力」をたくましくして「埋める」作業に熱中する。今は奴隷ではあるが、死後には永遠の命を与えられて幸福であるだろう、と空想したりする訳である。ヴェーユによると、人間はこのような「埋め合わせ」を一切拒否しなければならないのである。神がその埋め合わせをしてくれる存在として信じられるならば、その神も想像力が作り出した埋め合わせの一種に過ぎないのであって、本当の神ではない。人間が重力に抗し、空虚を埋め合わせずに耐えてゆくと、そこに「真空」が生まれてくる。人間がこの真空に耐えて神を「待ち望んで」いると、神の方からその人間と交わりを結んでくれる。
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1935年9月に旅に出たヴェーユは、ポルトガルの漁村でキリスト教との第一の出会いを体験する。そこでは人々がお祭りをしていたのだが、漁師たちが歌っている歌の悲しい節回しにヴェーユは胸を打たれて、キリスト教は奴隷たちの宗教であると思うようになった。そして、彼女はプールジェの国立女子高等学校の教師として赴任した。
1936年(27才)の3月には、農民の生活を理解するためにシェール県で農作業に従事したりしているが、やがてスペインで、世界中の政治的進歩主義のインテリーたちを憤激させた事件が7月に起こった。当時のスペインは社会主義系の人民戦線政府が治めていたのだが、フランコ将軍がこれに反旗をひるがえし、内乱状態になった。ドイツとイタリヤはフランコ将軍を支援したが、イギリスとフランスは人民戦線政府の窮状を無視してしまった。そのために、世界中から義勇兵として人民戦線政府のために戦おうとする若者がスペインに乗り込んできた。ヴェーユも8月8日にスペインに入国し義勇兵として参加したのだが、生来の不器用さのためか、食事の支度の最中に、加熱していた油鍋の中に足を突っ込んで大火傷をしてしまい、9月25日に帰国した。
1937年に彼女はイタリヤへ旅行して、アシジの聖フランチェスコがそこでよく祈ったサンタマリヤ・デリ・アンジェリ小聖堂で、第二のキリスト教との出会いを体験した。周知のようにフランチェスコは無所有の生活を送ったのであり、自ら進んで奴隷の生活を送ったとも言える人物であったが、それにも拘らず、彼は「太陽の賛歌」に象徴されるような喜びの生活を送ることができた。自ら無所有の不幸を選び、しかも真空に耐えた、愛と柔和の人物であった。恐らくヴェーユは彼において、不幸の真空を喜ぶ、美しい人間の姿を見いだし、キリスト教がそのような人物を生み出すカを持っていることに触れたのだろう。
1938年(29才)の復活節の前後10日間を、ひどい偏頭痛に悩まされながらヴェーユは、ソレムにあるベネディクト会修養院で過ごした。ここで彼女はキリスト教との第三の出会いを体験した。キリストの苦しみが彼女の中に入ってきたのである。永遠の命を信じない彼女にとっては、キリストの復活はキリスト教の中心とはなり得ず、当然キリストの十字架の苦しみが中心であった。十字架の上で、神からさえも捨てられたキリストの苦しみが、それにも拘らず神を信じ、自分を捨てて逃げ出す弟子達をまだ愛していて、両隣に立つ二つの十字架上の罪人たちにも救いの手を差し伸べるキリストが、神に向かって自分の運命を委ねようと叫ぶキリストが、真空を静かに受領している真の人間としてヴェーユの中に入り込んできたのだ。
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ヴェーユが恐れていたナチスが1932年7月にはドイツ議会で第一党となり、1934年8月にはヒトラーは総統に就任した。軍備を充実させたドイツ軍は1939年9月にポーランドに侵入し、遂に第二次世界大戦が勃発した。1940年5月10日に、ドイツ軍は西部戦線への侵攻を開始した。ヴェーユは両親と共に6月13日にパリを離れて南下したが、6月14日にはドイツ軍がパリに入城している。ヴェーユたちは7月にヴィシイに、9月にはマルセーユに到着している。ここ南フランスはかつてカタリ派が栄えた地であるが、マルセーユ滞在中にヴェーユはカタリ派に大変な興味を持つようになっていった。彼女の心の中に、今まで自分が思索し続けてきたことは、カタリ派の二元論的キリスト教と深いところで同じものだとの共感が、深く広く広がっていったものと思われる。併し、私の見るところでは、ヴェーユの思想は、少なくとも歴史上のカタリ派とは相当の距離をもつものなのだが。
1941年には、軍隊を除隊した兄アンドレが家族に合流したが、彼はやがてアメリカへ亡命した。ヴェーユはキリスト教青年労働者同盟に共鳴してその活動に参加したが、そのために、警察より数度にわたる喚問を受けた。両親はアメリカへの渡航を計画したが、ヴェーユは散々に迷った末に、両親と共にフランスを去ることにした。彼らは1942年7月6日にニューヨークに到着している。彼女がフランスを去る決心をしたのは、何かフランスのために重要な任務を帯びて、もう一度フランスに戻ろうと覚悟したからであったが、彼女の頭の中でその任務が具体化されたものが「前線看護婦部隊編成計画」であった。11月10日に彼女は貨物船でロンドンへ向かった。11月25日には、リヴァプールに着いている。ロンドンに到着したヴューユは、ドゴール将軍の率いる「自由フランス政府」の要人になっていた友人の助けで、戦争終結後のフランス再編成計画案を起草する役目を与えられたが、彼女の望みである「前線看護婦部隊」案については、何の反応もなく、彼女は敵前逃亡のように自分がフランスを去ったことを悔い、自分を無用な存在と感じて、挫折感で一杯であった。精神的にはこのように追いつめられ、身体的には(占領下のフランス人と同じ栄養しか摂らないという決心を実行したため)極度の栄養失調に陥り、彼女は1943年(34才)4月15日に意識不明で病院に運び込まれた。診断は急性肺結核であった。療養中も占領下のフランス人と同じ栄養しか摂らずに、8月24日アシュフォードのサナトリウムで死んだ。彼女は自殺には反対であったのだから、この死は厳密には自殺とは言えないだろう。フランス人と連帯していたいという彼女の希望が、彼女を死へと追いやったのだ。
彼女の思想とカタリ派の一致点は二元論にあったが、それはこの世の存在が全て悪であるが、この悪の中で真空を保てば、その真空を通過して、隣接する(彼女にとっての神である)善の世界と融合できるとしたところにあろう。
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入力:平岡広志
2003.4.30