ユダヤ・キリスト教史 1997.5.13
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第2回―― 錬金術と石信仰 (1997.5.13)
野呂芳男
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罪に汚れた人間世界は勿論のこと、物質も汚れたものであると錬金術士たちは信じていたが、その信念は、新プラトン主義の体系の一番下にあった無が上昇してきて、その上にある物質(人間の肉体も含む)を蝕んでいるからという理由に基づいていた。ほうっておけば、無は更に上昇するばかりなのだが、上の方からは神から流出してきたロゴスが下ってきて無と闘ってくれていると信じられていたのである。
新プラトン主義は一者からの流出を唱えるものであったので、汎神論に荷担するものだが、それに対してプラトンの思想では流出論は採用されていないので、神と堕落した世界との関係は聖書のように人格神と創造されたものとなっている。(但し、プラトンの神は伝統的なキリスト教が教えてきたような全知・全能の神ではない。)
錬金術では、汚れた物質を精錬すれぱ、どのような汚れた現実の底にも働いて下さっている神の力、つまり不死の薬にもなる賢者の石(ロゴス・キリスト)を発見することができて、今度はその石を用いてあらゆる物質を聖化し、術士自身も神に喜ぱれるような人間となることができる、と信じられていた。
罪や汚れの只中にも必ず神の救いの力が働いているというこの信仰は、キリスト教中世が生み出した素晴らしい遺産だと思うが、18世紀にはまだこの信仰が残っていた。19世紀以降になると、物質世界が信仰の世界と切り離されて科学研究の対象だけとなり、信仰の世界と科学の世界との不幸な分離がもたらされてしまった。
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ところで、気になるのは錬金術で救う力が賢者の石と言われていることである。これは、石そのものが古来ヨーロッパでも東洋でも、信仰の対象でもあったことを示している。日本でも石仏は、たまたま仏の姿を石に彫ったのではなく、大護八郎氏などが言うように、まず石への信仰があって、その上に仏の姿を彫ったのである。石は人間よりも長生きするように見えるし、変わりやすい人間の心と違って、いっまでも同じ姿で立っている(誠実や揺るがない信仰の象徴)。聖書の中でも(創世記28:18、22など)神との交わりが石を媒介としてなされた痕跡が見られるし、モ‐セの十戒が石の板に刻まれたとの話もある。
比較的に言っての話だが、東洋では石の種類には余りこだわらずに、形や紋様を尊ぶけれども、西洋では貴石と言って種類の珍しい石、希少な石、色彩の美しい石を尊んでいるようだ。ありのままの現実を尊ぶ東洋と、その中の特別なものを特に尊ぶ西洋の連いが見えて面白い。後者は現実を変えないと気がすまないのだ。キリスト教もそうである。
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入力:岩田成就
2002.7.8