ユダヤ・キリスト教史 1997.5.20
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第3回 ――予定説と理神論 ( 1997.5.20)
野呂芳男
1
罪と汚れの現実の中でさえも神のロゴス(救う力、キリスト)が働いて下さっていることを信じていたのが錬金術であったことを私たちは勉強したが、ではキリスト教の歴史の中には、神のこの働きを説明するどのような説が存在したのだろうか。
まず挙げなければならないのは、神は全知・全能だから、永遠の昔から歴史の中に起こることを全て御存じであり、ご自分に都合のよいように全てを動かして行かれるし、そのようになさる全ての力をお持ちである、という説である。この説では、結局神が全てを支配しておられ、人間を救うのも滅ぼすのも、神お一人の思いのままということになり、人間の救いや滅びは永遠の昔から神が定めたこととなる。そして、これにアダムの堕罪神話が結合し、二重予定論が作られた。堕落前予定論と堕落後予定論とが存在したが、前者はアダムの堕罪の前に神がどの人間を救い、どの人間を滅ぼすかを決定されたという説であり、後者はその決定を神がなされたのはアダムの堕罪後であるという説である。更に、堕落前予定論には、創造前予定論というものまである。これは、人間に対する予定を神が決定されたのは、天地創造の前であったという説である。これに対して、予定は創造後で堕落前である、という説もあった。
このような予定論に対しては、聖書からいくつかの文章を引用して弁護することもできるだろうが、私は予定説は神の愛という聖書全体が証言する事実に反すると見ている。もしも神が予定説の言うような神であるなら、このような暴君を神と信じることは私にはできない。このような神のところヘ行くらいなら、潔(いさぎ)よく地獄に落ちて人間としての誇りを守っていった方が良い。
次に取り上げたいのは、オランダのアルミニウスやその弟子たちが提唱して、更に18世紀にジョン・ウェスレーがメソジスト運動を通して広めた説である。この説は、メソジスト運動のお陰で(かっては予定論の牙城であった)カルヴァン派のほとんどの教会にも取り入れられるようになったもので、人間には神を信じるか信じないかを決める力、自由意志が与えられているが故に、その人間が救われるか救われないかは神の責任ではない、と主張する。
この説に対しては、20世紀になってフロイトやユングの深層心理学から、人間の自由意志は意識に属する問題であるが、人間の意識は幼児休験などによって形作られた無意識によって決定的に影響されているのだから、結局自由意志は存在しないのではないか、という疑問が提出されている。これは無意識による決定論(予定論)のようなものだが、矢張り無意識だけで人間の意志が左右されるという説は、人間に対して公平ではないと思える。神の意志と人間の意志との交わりとして、宗教を考えて行くぺきであろうと思う。
次に、17世紀後半から18世紀を通して、主にイギリスで大きな影響力を持った説に理神論(Deism)があったので、それを紹介しておこう。これは理性至上主義と思えるもので、天地創造とともにあった宗教(これを自然宗教と彼らは言った)は、人間が理性だけを通して知ることができるものであって、(宗教戦争などを引き起こすことのない)寛容の精神に満ちていたのだ、と彼らは主張した。つまり、聖書に書かれているような奇跡やロゴスの受肉や啓示や不死や三位一体などを信じない、理性だけで到達できる宗教を彼らは主張したのであった。彼らの説はよく時計屋と時計に喩えられる。時計屋は時計を作ってしまうと、後は時計の動きにまかせて、刻々その時計の動きに介入することはない。神も天地万物を作ってしまった後は、天地万物の動きに介入はされない、と彼らは主破したのであった。これらの人々には、次の人物が特に有名である。John Thland(1670-1772)、Matthew Tindal(1657?-1733)、Voltaire(1694-1778)、Jean-Jacque Rousseau(1712-1778)、Thomas Jefferson(1743-1826)、Thomas Paine(1737-1809)。
2
以上の諸説のどれを取っても、私には十分に納得できないものぱかりで、広い意味ではウエスレーの説の系列に属するものではあろうが、自分なりに考えたものをここで紹介しよう。そのためには、先ず用語として運命と宿命とを区別しておきたい。
運命とは、私には自分の力ではどうにもならないもの、外側から私を動かしてしまうものを指す、と思える。サイコロの運とか星の運行とかがその事情を指し示している。このような運が私たちの人生の一部分を形作っていることは疑いえない。西暦の何年生まれだとか、どこの国、どの地域に生まれるとか、どのような両親から生まれるとかは、少なくとも私の自由意志では左右できない事がらである。
しかし、宿命という言葉は元来が仏教的な意味合いを込めたものなのだろうが、私には運命では表し得ない事情を表現してくれるように思う。私たちの自由意志に根底から影響するもの、例えばフロイトが問題とした幼児体験などの埋もれた深層心理の影響や、祖先からの遺伝、また、自分の積み上げてきた過去など、私の今の宿命、私の自由意志の行使の仕方を独特なものとしているものを、宿命は表現してくれるように思う。運命さえも宿命を形作る−つの材料となってしまっている。自分の宿命の成就、神から与えられた宿命の花を見事に咲かせることこそ、生きることの意味ではないだろうか。
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入力:岩田成就
2002.7.13