ユダヤ・キリスト教史 1997.5.27[
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第4回 ――我と汝 ( 1997.5.27)
野呂芳男
運命を含めた宿命という(前述した)私の考えは、実存的な考え方とも言えるのだと思う。つまり、神と人間との関係を実存的に把握しようと努力しているのだが、実存的思考とはどのようなものなのかを、更に明らかにするために、ここでマーチン・ブーバーの「我と汝』に触れておきたい。
ブーバ―は人間と人間、人間と物との関係には、「我と汝」及ぴ「我とそれ」という二つの次元が存在するとした。ここで注意したいのは、「我と汝」は人間と人間、「我とそれ」は人間と物との関係を必ずしも表現するものではないということである。「我と汝」の関係が人間と物との間に、「栽とそれ」の関係が人間と人間との間に成立することだっておおいにあり得るのである。例えば、私が相手の人を物扱いしているような場合には、私と相手との関係は「我とそれ」だし、オルゴールの音色が私にそれを贈ってくれた人物の思い出を誘う場合には、そのオルゴールは私にとって「我と汝」の関係の中にある物なのである。
別の言葉で表現すると、「我とそれ」の関係は、冷静に眺め、分析し、総合する科学的な態度、「我と汝」の関係は、自分がその中へのめり込んで行くような、主体的で感情的で意志的な、つまり実存的な態度なのである。両方を区別しながら生きてゆくことが、いつも私たちには要求されている。あばたをえくぽと間連えて両次元を混同して女性を愛する男性は、あばたを冷静にあぱたと熟視しながら、しかもその女性を人間として愛する男性よりも生き方が下手なのだ。
神に対しても、両次元を区別しながら共に持つことが正しいのである。神との「我と汝」の関係では、人間は信じるか拒否するかのどちらかを選ぱねばならないが、「我とそれ」の関係では、神を冷静に科学的に思索する神学を人間は互いに楽しむことができる。更に、両次元が区別されながらも、互いに影響しあうことも、私たちは忘れてはならないだろう。顔の片一方に大きな傷のある男が、その顔の面をいつも見せないように人と話をする癖をもつよになり、劣等感に悩まされているとしたら、その男と「我と汝」の関係を持つことは、「我とそれ」の関係をもってその男の傷を知ることと無関係ではあり得ない。
信仰や宗教は科学ではないが、そうかといって科学と無関係ではない。ゲーテは科学に没頭し自分でも科学的な著述である『色彩論』を出版した程であったが、ローマン主義的な、個を重んじた信仰に生きたし、両次元は深く関わりあっていた。
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入力:岩田成就
2002.7.17