ユダヤ・キリスト教史 1997.5.6
講義「ユダヤ・キリスト教史」
第1回 ――18世紀のキリスト教と錬金術 ( 1997.5.3)
野呂芳男
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聖書を読むと言っても、どのように読むかがとても難しい。聖書の一字一句がそのまま神の霊感によって書かれたものなのだから、そのまま間違いの全くないものなのだという逐語霊感説的な読み方もあるが、これは今日の科学的な時代には通用しないものであろう。このような読み方をしていると、科学文明を土台としている日常生活に破綻を来してしまうからである。科学的な聖書の読み方が正しいと思うが、そのような読み方をしながら、聖書の持っている宗教性を大切にし、信じる人々にも納得の行く読み方があると私は思っているので、まずそのような読み方がどのようなものであるかを、具休的に紹介してみたい。この点で18世紀のキリスト教が近代以降のキリスト教のあるベき姿を予め示しているように思えるので、その姿をゲーテの「ファウスト』を利用して勉強してみよう。18世紀は、まだ中世のキリスト教信仰が豊かに残り、しかも近代科学の発端にあたっており、後に述ベる科学と信仰の正しいあり方と私には思える、両者の次元的区別と相互影響の端緒が見られるからである。
これまでに最初に勉強したのは、近代の初めの18世紀もキリスト教は、神が住んでおられる上の世界と人間や動物たちの住む地上の世界とが、類比的なものであると信じていたことである。つまり、上で起こることは下でも起こると信じていた。教会の礼拝は上の世界で行われている礼拝に類似的。
ここには、初代教会時代にキリスト教に大きな影響を与えたプラトン主義の跡が見られる。プラトン哲学では、人間の魂は真・善・美の神的な上の世界から堕落して、肉体や物質の世界に転落したもので、今も尚、もう一度上の世界に戻りたいという憧れを持っている。上の世界と下の世界が、全くは断絶していなかったのである。「ファウスト』もその意味ではプラトン的であると言えるし、18世紀のキリスト教はルネサンスに復活したプラトン主義に立っていたと言える。
2
ところで18世紀のキリスト教の特徴をこのように勉強してくると、キリスト教は何時の時代も同じであるべきで、時代によってその様相を変えると考えるのは間連いではないか、という疑問が起こってくる可能性があるけれども、2000年にわたるキリスト教の歴史を一瞥するだけで、そのような考えは崩れてしまう。
この点でカットリック・モダニストと言われた人々や聖公会のある神学者たちのように、キリスト教は時代によってその様相を変えながらも、その本質を失わないと主張して、グーウインの進化論を神学に取り入れた人々がいたが、これらの人々の立場は正しかったと思う。そのように考える場合に、何がキリスト教の本質なのか、が重要な事がらになってくるが、それはそのうち、聖書を勉強してゆくうちに明らかになって行くだろうと思う。
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今日から比ベると、既に述ぺたように18世紀のキリスト教には、キリスト教ぴ)時代と言われた中世の影響がまだ色濃く残っていたが、現代人にも通用するような神と人間との関係を考えるに当たっては錬金術について考えるのが一番手っ取り早い。神学用語で言えば、聖霊が私たちに影響するということの意味を探ることになるだろう。「ファウスト』の魔女の厨(くりや)には随分と戯画化された形ではあるが、錬金術のことが取り入れられている。
錬金術については、最近になって多くの研究書が出版されているが、それらの書物が必ず指摘することは、錬金術が新プラトン主義(プロチヌスの哲学)に深く影響されたことである。中世の錬金術士は汚れた物質の深みにある、黄金のような美しい「賢者の石」を追い求めた。これは「キリスト」とも呼ぱれたが、ここにはキリスト教が、初代にグノ‐シス運動や、中世にカタリ派などに影響された二元論的な信仰が土台となっている事実が示されている。一者と無との二元論。
新プラトン主義は次の図式で説明されよう。
一者
ロゴス
世界霊魂
物質
無
一者から無の力ヘの運動は流出であり、物質より一者への運動は本源への回帰である。人間は、その霊魂においてロゴスと世界霊魂に参与し、肉体において物質に参与していると考えられたのだが、錬金術は汚れたこの世界(無に浸透された物質世界)の奥底にも神のロゴス(賢者の石)が働いていると信じた、一種の礼拝行為であり、「賢者の石」を見つけれぱ、今度はそれによって汚れた物質を黄金に変えることができるとしたのだ。実際に黄金を作れたかどうかは、二の次の間題であった。
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入力:岩田成就
2002.7.2