ユダヤ・キリスト教史 1997.9.2


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第17回 ――カナン宗教とユダヤ人?          (1997.9.2)


野呂芳男







 カナンに入ってから、砂漠の民ユダヤ人の宗教がどのような変化を被ったかを、私たちは学んでいるのだが、カナンの王たちやその官僚たちが賄賂で懐柔されるように、相変わらず恐れと戦き(おののき)をもって礼拝されながらも、ダビデやソロモン以降になると、ヤーウェも捧げ物でどうにでもなる存在に転落して行ったのだ。話をダビデの生涯に戻すことにしよう。

 ダビデはなかなか用心深い人物であったようで、ユダヤ人たちよりも、サウルに追われていた時代に培った、互いに友情と信頼を持てる外国人たちを選び、自分の身辺警護に用いている。言わば、先鋭な外人部隊がダビデを身近に守っていたのだ(「サムエル記下」15:17 以下)。幾度もの戦いで勝利を得たことによって彼は民に人気があったが、それに加えて気前の良い人物であったので、戦利品を民と領ったことが、彼の人気を大きくし、長引かせた。彼の王国は北シリアの一部に及んだようだが、特に重要なのは南の方エドムを支配できたことであった。ここは隊商が通る、所謂キャラバン・ルートであったが、通行税のようなものをダビデはここで取り立てた。彼は贅沢はせず、大きな建築もしなかったので、彼の宮廷は経済的に豊かであった。晩年の彼をひどく悲しませたのは、息子アブサロムの反逆であった(「サムエル記下」13章以下)。ダビデの方が一時期エルサレムから逃げたが、それは自分が熱愛する息子との戦いを避けるため、また、戦略的にもその方が良いと判断したからであろう。ダビデが殺さないようにと頼んであったにも拘らず、ダビデの将ヨアブがアブサロムを殺した。敵を倒した凱旋である筈なのに、ダビデの将兵たちは王の余りの悲しみに、いけないことをしでかしたかのように声を潜めざるを得なかった。

 誰の目にもダビデが年老いて死期が近づいたと見える時がきたが、よくある王位継承争いが起こった(「列王記上」1:1-40)。ダビデはバト・シェバが生んだソロモンを後継者に選び、やがて死んだ(「列王記上」2:1-11)。







 ソロモンは王権を確立すると、フェニキア王ヒラムと同盟を結んだ。また、歩兵は時代遅れであるとして、騎兵と(馬で引く二輪)戦車による戦術に切り替えた。遂には、シリアの王たちやエジプトに武器を輸出するに至った。更に、フェニキアの幾つかの港で荷揚げされた商品を、エジプトや南アラビア(「列王記上」10章にあるシェバの女王の物語を参照)に送るに当たって、ソロモンはフェニキア王と共同で税金を取り立てた。

 フェニキア王ヒラムとソロモンは共同経営の会社のようなものを作って、紅海から海上ルートを通り、インドやアフリカと貿易をした。このためには、ソロモンが船を造り、それをフェニキアの船員たちが操縦した。

 ダビデが造ったエルサレムを、ソロモンは拡大して城壁で囲み、その中に王宮と神殿を造営した。そのためにフェニキアから職人たちを呼び寄せたし、レバノンの杉を山越えにユダヤの民に強制して運ばせた。後者はユダヤ人の不興を大いにかい、ソロモンの死後直ちにイスラエル王国が二つに割れた原因であった。つまり、南のユダ(王レハブアム)と北のイスラエル(王ヤロブアム)とに分かれ、紀元前 933年に起こったこの分裂は、その後約 300年続いたのである(「列王記下」10:1-19)。







 ソロモンの時代のユダヤ教はどうなったのか。彼が呼び寄せたフェニキアの職人たちは、勿論彼の承認の下、人身御供をすることのできるティルスの神殿に真似てエルサレムの神殿を造った。神殿内部の祭壇や部屋などは、太陽崇拝に相応しいように計算されていたし、契約の箱が置かれた部屋はケルビムやセラフィムという、エジプトやバビロニアの寺院で見かける異形の鳥が、守護のものとして置かれていた。前に原始宗教はよく動物に人間と神とを結ぶ役割を与えるものであって、モーセの場合には、それが鷲ではなかったか、と私は述べたが、「イザヤ書」6:6 を見ると、エルサレムの神殿のセラフィムが、預言者イザヤを炭火で浄化しているけれども、これは異形の鷲に見えたセラフィムには預言者も違和感を持たなかったことを示している。しかし、これがフェニキアの宗教を真似て造られたことは事実である。また、女神の象徴である木の柱も神殿の中にあったし、金の器(うつわ) や部屋の彫刻には、生産の意味が強調されていたばかりか、他の国の神々に犠牲を捧げる祭壇もあった。ユダヤ教のカナン化は相当に進んでいたと考えて間違いない。

 ソロモンの後はどうであったのか。アシュラ像 (女神) が神殿に存在したし(「列王記上」15:13)、紀元前850年頃にはフェニキアのバール神がヤーウェと共に、エルサレム(南のユダ) でもサマリア (北のイスラエル)でも礼拝されていた。紀元前の 725年頃には、銅製の蛇がエルサレムで礼拝されていた(「列王記下」18:4)。

 北のイスラエルの最初の王ヤロブアムは、ダンとベテルに、黄金で表面を飾った雄牛の像をヤーウェの栄光を表すために製造したし、紀元前850年にはアハブとその妃(フェニキヤ人)とが、ヤーウェと共にフェニキアのバールを民に礼拝するように強制した。女神アシュトレトが、宮廷でも民の間でも、紀元前721年のイスラエルが滅亡する迄、礼拝されていたことは、預言者たちの攻撃から明らかである。勿論、神殿で性の奉仕をしていた男女も存在し続けた。

 紀元前784年から740年までは、南北共に特に富める時期であった。しかし、富んでいたのは官吏、土地所有者、商人であった。農民たちは南北の戦いで傷つく者が多かったし、戦争によって夫を失った女性、両親を失った孤児も多かったので、庶民は貧しかった。このような庶民は、土地所有者や商人たちの恰好の餌食となり、貧富の差は拡大するばかりであった。預言者ホセアやイザヤが嘆いたのは、このような時代であった。祭司たちや神殿付属の預言者たちは国の経済的豊かさだけで神々の恩恵と賛美して、庶民の苦しみには目を向けなかった。ホセアやイザヤのような預言者たちは、ヤーウェの正義を振りかざしてこのような一般的風潮と戦ったのだが、彼らの言う正義とは、すべての人々に富める者になる平等の機会を提供することではなく、貧しい者に傾斜していた。富める者が、貧しい人々に奉仕することを、預言者たちはヤーウェの正義と言ったのだ。







 紀元前721年にアッシリアがイスラエルを滅ぼし、属国とした。紀元前586年にはバビロニアがユダを滅ぼした。両国の滅亡直前の宗教状態はどうであったのか。

 紀元前735年ユダの王アハズは、イスラエル王とシリア王との共同の攻撃に会い、勝利をヤーウェに祈った時、息子を犠牲とした。彼はアッシリアの援助を取りつけてこの危機を乗り越えたが、ヤーウェを第二の神とし、アッシリアの神を第一の神として、犠牲を捧げることを約束させられた。紀元前693年から55年間マナセがユダを治めたが、彼は完全な多神論者で、アッシリアの星辰信仰を取り入れたので、そのためにエルサレムに星辰を礼拝する壇を築いたりしたため、エルサレムは星の象徴で満たされてしまった。神殿には性のための神の僕がこれ迄以上に多くいたし、エルサレムの外、ヒンノムの谷では、子供を焼いてヤーウェへの犠牲とした。紀元前621年にヨシュア王の宗教改革が行われたが、預言者エレミヤによると、これも皮相的なものに過ぎなかった。







 話を預言者サムエルに向けよう。カナンにユダヤ人が侵入した時に、彼らは十戒が刻まれた二つの平たい石を箱に入れて運び込んだ。シロに小さな神殿を築いて、そこにその神の箱を安置した。紀元前1050年頃、ペリシテ人が高原を支配した時、ユダヤ人は神の箱を戦場に持ち出して抵抗したが完全に敗北して、神の箱はペリシテ人に持ち去られてしまった。七か月後に箱は返されたが(「サムエル記上」5:1-6:18)、この事件の頃、シロからそれ程遠くないラマに、サムエルという幻を見る預言者がいて、ユダヤ人の間では、よく知られていた(「サムエル記上」1:2-20)。

 サムエルに関する記事を載せている「サムエル記上」は、サムエルが活躍した時代から 400年程経って、幾人かの編集者により纏められたものだが、彼らは既に存在していた主に二つの資料を使って編集したようである。一つの資料は王政に反対する立場から書かれており、ヤーウェを信じないから王を必要とするのだと主張した。もう一つは王政に好意的であって、サムエルに王となる人物を選ばせ、全ての部族にその王を受け入れるように説得するものだった。編集者たちはこれらの資料を、自分たちの意見を挿入しながら、つじつまを合わせて纏めあげたのだ。

 ペリシテ人との戦いで先ずサムエルが取った手段は、預言者の集団を作り、ペリシテ人の目の光っていないところで、ヤーウェに乗り移られたように、ヤーウェの励ましの言葉を人々に伝えることであった(「サムエル記上」10:1-13)。今日で言えば、一種のゲリラ戦であった。それからサムエルはサウルを選択して王とした(同上 9:1-2)が、サウルは自分が王に相応しいことを人々に証明しなければならなかった。さもないと、人々が心から納得しないからであった。機会はアンモン人のナハシュが攻め上ってきた時にやって来た。(同上 11:1-15)。 8節では、サウルのためにイスラエル人が30万人加勢にきたとあるのは、とても信じられない数だが、とにかくこの戦いにサウルは大勝利して、人々に王に相応しい人物であることを証明した。この事件は、恐らく紀元前1025年のことであったろう。

 サウルは息子ヨナタンのお陰もあって、ペリシテ軍に大勝利を収めた(同上 14:1-46)。軍人王としてサウルは立派に職責を果たしたと言えるが、やがて後に述べるような事柄からサムエルの支持を失い、既に述べたようにギルボア山の戦いで、息子ヨナタンの戦死の後、死んでいった (同上 31:1-12) 。

 これも既に述べたことだが、サムエルはダビデを次の王に選んだ。ダビデに対するサウ
ルの猜疑心、また、サウルの息子ヨナタンとダビデの友情の話などが、聖書のサウルに関
する記事をますます興味深いものとしている。


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入力:平岡広志
2003.3.4