ユダヤ・キリスト教史 1997.8.27


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第16回 ――カナン宗教とユダヤ人?    (1997.8.26)


野呂芳男







 カナンの地では、一年に三つの大きな祭りがあった。一つは「春祭り」であって、人々はこの時に、農耕民はトウモロコシの最初の実を、羊飼いたちは動物の初子(ういご)を神々に捧げた。春祭りより七週間あとには「盛夏の祭り」があり、小麦や大麦の収穫が神々に捧げられた。「秋祭り」は葡萄の収穫期に当たり、皆が酔いつぶれて大声で叫び、喧騒の祭りとして知られていた。

 パレスチナの神々はすぐに機嫌を損ねるので、人々は神々を宥めるために沢山の犠牲を捧げた。ここには、砂漠でユダヤ人が神ヤーウェと一緒に犠牲の動物を食べた時の、あの恵み深い神との愛と尊敬に満ちた交わりの思いは全くなく、むしろ神々の好意を捧げ物で買うというような、商売取り引きに似た宗教性が見られる。そして、人間の願いの通りに事柄が推移しないと、ますます多くの犠牲を捧げ、遂には困り果てると、人間を神々に捧げた(「列王記下」3:27)。アハズやマナセの例に見られるように、ユダの王たちもこの風習に染まり、自分たちの息子をヤーウェに捧げた(「列王記下」16:1-6,21:2-6)が、ユダヤ人の間では、この風習が一般的に拒否された事実が、アブラハムがイサクを捧げようとしたところ、神がイサクの代わりに牡羊を用意して下さったという物語の背景をなしていたと思える(「創世記」22:1-13)。

 冬が来て大地から作物が姿を消す体験から、秋祭りの中で、パレスティナ人たちは神々の死(冬の間の地中の種)と再生(春の芽吹き)を儀式の中で演じて、春からの豊かな生産を願った。本来ならば、神を象徴する国王が儀式の中で死なねばならないのだが、その代わりに人身御供が捧げられ、また、王の位についた男神役と女神役とが聖なる結合を遂げた。

 バビロニヤやシリヤの神話では、冬の間に地中に横たわる種を、死んだ男神タマズに喩え、その死を嘆き悲しんでさ迷い歩く女神イシュタールの嘆きを物語るが、死なねばならなくなったエフタの娘の彷徨の記述に、ある学者たちはこの神話が影響しているとする (「士師記」11:29-40)。







 ユダヤ人たちがカナンに侵入してきたのは紀元前1175年頃であったと思われるが、砂漠を他の部族と戦いながら彷徨してきた彼らは、ヤーウェを戦いの神、火と嵐の神と信じてきた。彼らが侵入してきたのはベテル付近であったと考えられるが、そこは山地であった。期待を裏切られた形で、彼らはカナン人たちの町々をたた羨むだけであった。そのようにして数十年が経過したが、セイルでの勝利がユダヤ人たちを再びヤーウェへの信仰に燃え立たせたのであった。この事件は、出エジプトの再現のようなものであった。この勝利を歌った「デボラの歌」(「士師記」5:3-5)を見ると、まだヤーウェが「シナイにいます神」と呼ばれており、ユダヤ人の信仰が完全にはカナン化されてはいなかったことを伺わせる。

 この出来事によってユダヤ人たちはカナンに定着できるようになり、技術的に葡萄栽培はできなかったにしても、カナン人たちにとっては魅力のない土地にではあったが、羊を飼うかたわら、耕作を始めた。







 ユダヤ人と違い血の繋がりを持つミディアン人、アマレク人、アンモン人がカナンの地に侵入してきたが、カナンの町は要塞化され攻めにくかったので、ユダヤ人がこれらの侵略者たちの標的になってしまった。これらの侵入者たちに対しては、ユダヤ人の中からそのたびごとに英雄が出現し、ユダヤ人の危機を救った。アンモン人に対してはエフタ(「士師記」11章)、ミディアン人に対してはギデオン(「士師記」6,7,8章)がその役割を果たしたが、後者にはユダヤ人たちはいたく感動し、彼を王にしようとした (「士師記」8:22) 。しかし、ギデオンは砂漠の民ユダヤ人の伝統通りに王になることを断ったが、その子アビメレクは自分から王になろうとしたけれども、人々から嫌われ、一人の女性に石を投げられて死んだ(「士師記」9:50-57)。アビメレクの事件がユダヤ人に、世襲の王を持つことを長い間躊躇させたのである。ペリシテ人は海に近い南の平原を占領していて、鉄の武器を使用し、銅の武器を持っていたカナン人に勝っていた。ましてやもっと貧弱な武器しか持っていなかったユダヤ人は、その敵ではなかった。だが、彼らに対してもサムソンという、神の息が臨む時に強大な力を発揮する英雄が、度重なるユダヤ人の危機を救った(「士師記」13章以下)。







 紀元前1050−1025年にペリシテ人が決起し、パレスティナの心臓部分を占領しようと行動を起こした。カナン人は完全に敗北し、立ち直れなかったけれども、同じように敗北し、シロにあったヤーウェの神殿も破壊されてしまったにも拘らず、ユダヤ人たちはヤーウェの救いを信じて徐々に立ち直っていった。この時期に活躍した預言者サムエル(「サムエル記」上、下)はサウルを王とし、その指揮の下にユダヤ人を結集した。サウルが王となったのは紀元前1025年であったが、彼の息子ヨナタン共々に、ユダヤ人にまた高原の支配権を取り戻した。しかし、サウルもヨナタンも戦場に倒れ、嫉妬深いサウルに追われて、ガトの支配者であったペリシテ人に匿 (かくま) われていたダビデが、ヘブロンでユダヤ人たちによって王とされた。

 初めペリシテ人たちは、ダビデがユダヤ人の王となったことを、自分たちの利益になると思ったようであるが、間もなくそうではないことを知るに至った。ダビデはカナンの歴史上で初めて、中心部の山の多い地域に王国を築いた。この王国は強大になり、息子ソロモンに受け継がれた。

 ダビデはエルサレムを攻略して自分の都とした(「サムエル記下」5:6-9)。確かに偉大な王であったダビデに対しても、聖書は嘘を吐(つ)かずに弱点を率直に私たちに書き残している。部下のウリヤの妻バト・シェバが欲しくなり、ウリヤをわざと激戦地に送り、策略を労して戦死させて彼女を手に入れた(「サムエル記下」11:2-12:25)。ところが預言者ナタンがこの王の不行跡を面と向かって痛罵した。ナタンの神ヤーウェがダビデへの怒りから、生まれてきたバト・シェバの子を死なせたのは、私には理解できないユダヤ人の神観ではあるけれども、ウリヤに対する王の不正をこのように責めることができるところに、聖書の持つ素晴らしさを感じ取ることができる。


5.ところで、ユダヤ人たちがカナンの地を得て、失ったものも大きい。その第一は、砂漠の神、シナイ山の神が、カナンのバールに変身したことである。ダビデの支配下におかれたカナン人たちは、ヤーウェを彼らのバールとした。そして、バールの名称のみならず、信仰心までもがヤーウェに移されたのである。つまり、ヤーウェも土地の支配者、また王となったのである。

 人の名前にバールという名称が組み込まれることが、既にギデオンの時代から流行した。ギデオンのもう一つの名はエルバアル(「士師記」6:32)、サウルの息子の一人はエシュバアル、孫はメリル・バアル、ダビデの息子の一人はバアルヤダ(「歴代誌上」8:33)というふうにである。これはバールという名称が尊敬されるに至った事実を私たちに告げるし、ヤーウェがバール化された証拠を提供している。

 ユダヤ人の社会生活も変化した。農耕社会に生きることとなって、ユダヤ人にも個人の所有物と呼べるものが存在することとなり、また、人間の上下関係も存在することとなってしまった。互いに隣人の富を羨み、あわよくばその富を奪おうとするし、持たざる者は持てる者に仕えてしか生きることができなくなってしまった。砂漠の民の持つ個人の尊厳の風姿は見られなくなってしまった。それと共に平和の観念も、人間性の積極的な充実ではなくなり、自分たちの財産が失われないだけの、戦争のない状態を消極的に指し示す言
葉に変わってしまった。支配者ユダヤ人の方が支配されるカナン人より少なかったので、
バールの性格がヤーウェに浸透し、程度の低い道徳生活がユダヤ人を汚染した。


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入力:平岡広志
2003.3.4