「宗教的回心について」1984
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宗教的回心について
野呂芳男
NHKラジオ、1984年8月12日06:30〜07:00放送 。
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今日は「良きサマリヤ人」の喩え話を考えながら宗教における回心とは何か、をご一緒に学んでみようと思います。「良きサマリヤ人」の喩え話は新約聖書の「ルカによる福音書」第10章に書かれている、イエスが語られた喩え話であります。イエスを快く思っていなかったある律法学者が、律法には「あなたの隣り人を愛せよ」とあるが、その場合の隣り人、隣人(りんじん)とは誰のことかと尋ねました。それに対してイエスは、当時のユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人を中心人物に仕立てあげた話で答えたのであります。
エルサレムからエリコという町へ行く途中で、ある人が強盗に襲われ、着物もはぎとられ、半殺しにされた状態で倒れていました。何人かの人々が通りかかったのですが、見て見ぬ振りをして行ってしまいました。ところが旅をしていたサマリヤ人が、その人の傷にできる限りの応急処置をした上、恐らく自分が乗ってきた家畜なのでしょうが、倒れていた人をそれに乗せて宿屋に行って介抱します。次の日には宿屋の主人にお金を渡して、足りなかったら自分が帰りがけに払うから、と言ってその病人の看病を頼んで出掛けた、と言うのです。イエスは、このサマリヤ人が旅の途中に偶然見付け倒れていた人物の世話を徹底的にしたように、相手が自分にとって大切な人であろうと大嫌いな人であろうとも、そういう事に関係なく、誰であろうと自分が出会う人に愛をつくすのが「隣り人を愛する」ことだ、と教えておられるのです。
さて、回心という文字を見ましても、心をめぐらす、と書きますから、自分の心を180度ぐらい違った方向に向けるという事を意味するのでしょう。これ迄歩んで来た自分の人生の道が、とんでもない所へ自分を連れて行きそうだと悟って、正しいと思われる方角に改めて足を踏み出すことであります。ある場合には、これ迄と全く逆の方向に、180度くるりと回って、歩み出さねばならないかも知れません。ですから、宗教における回心体験は、それを体験する当人にとって、なかなかつらい事が多いですし、これ迄とあまりに違った心の風景に接するために、当人にとっては奇蹟に出会ったように感じる場合が多いし、しばしば劇的な体験なのであります。
(2)
ところで、回心の体験と「良きサマリヤ人」の喩え話とには何かの関係があるのでしょうか。私は大いにあると考えております。回心体験は、自分を隣人のように愛することで成り立つものだ、と私は思っております。自分という人間を好きでたまらない人もおりますし、自分という人間が嫌いで仕方がない人もおられるでしょうが、好きでも嫌いでも、私たちにとって自分という人間は、いつも隣りにいて離れてくれない存在なのです。否応なしに、一生苦楽を共にしなければならない隣り人なのです。
瀕死の重傷を負って倒れている自分を見付けた時に、私たちはどうしたら良いのでしょうか。置去りにして逃げて行きますか、それとも、傷が全治するまで徹底的に付き合いますか。
一つ回心体験の例をあげてみましょう。アメリカの黒人作家にジェイムズ・ボールドウィンという人がおります。『もう一つの国』とか『ジョヴァンニの部屋』とかいう作品で知られているばかりでなく、黒人解放運動にたずさわった事でもよく知られている人です。併し、ボールドウィンがある時期キリスト教会の牧師であったということは、あまり知られていないようですが、1953年に出版された小説『山に登りて告げよ』は、一人の青年の回心の体験から牧師になって行く一時期を描いたもので、自伝的要素の強い作品であります。
先程、私は、回心体験がしばしば劇的で、体験している当人にとって奇蹟のように見えるものだと言ったのですが、『山に登りて告げよ』の主人公の体験も、そのようなものとして描かれております。他の人々が讃美歌を歌っている間に、聖なる神のあわれみに打たれ、自分の
汚れをぬぐい取って下さる神に身をゆだねた主人公は、教会の床(ゆか)の上に倒れてしまうのであります。涙でぐしょぬれになった顔で見上げると、彼の回心を祝福する教会の人たちが主人公を見おろしている。彼を助け起こすようにして、仲の良い友だちが「とうとう救われたね」と言う。主人公は、心の底から涌き出してきたような新しい声で「そうだ、救われた」と言うのであります。
ボールドウィンの伝記を書いたエックマンによりますと、ボールドウィンはこの体験のあとで、ホーリー・ローラー派の教会の説教者になったのですが、数年の後には牧師をやめております。どうも教会の中でのボールドウィンの回心体験は、その劇的な有様にも拘らず、本物ではなかったように私には思えます。むしろ彼の場合には、白人社会の中で、自分の皮膚が黒いために嫌われていることをよくよく知るようになって、黒人としての自分のアイデンティティーに目覚め、黒い皮膚に誇りをもつようになったことのほうが、私には本当の回心体験であったような気がしてなりません。
では、どうして教会の中での回心体験が本物ではなかったのでしょうか。小説や伝記から分かりますように、ボールドウィンにはその頃、義理の父親との間に、愛と憎しみとが共存したような葛藤(かっとう)がありましたから、いつの間にかボールドウィンの心の中にある父への愛と憎しみが神に投影されて、その心の葛藤に堪えられなくなったボールドウィンが、無意識にではあっても、神と和解して心の平和を獲得したのだ、それが彼の救われた回心体験なのだ、と言うこともできると思います。
併し、もう一つの面があるように思います。エックマンによると、ボールドウィンが牧師になったのは何と14歳の時です。今日の日本の殆どのキリスト教会では、牧師になるなど考えられない程に若い年齢であります。そのために彼の牧師生活は思春期と重なります。この時期には誰でも、心や身体の大きな変化を経験して戸惑い、自分が汚れていると感じるものです。心や身体の汚れから逃れて清浄無垢になりたいと夢見ます。
この時期の回心体験がことごとく偽りのものである、と私は言いたくありません。ただ本物の回心体験であっても、この時期の回心には、自分でないものになりたい、という、自分からの逃亡の要素がつきまとうものであります。自分でないものになりたいのは、自分が嫌いだからです。自分を愛することができないからであります。自分という隣り人を愛していないのです。
こういう場合に私たちが取るべき本当の態度は、自分の汚れの感情がどういう所から来ているかを深く理解することです。自分への深い愛からくる洞察力を働かせて、自分の心の傷の原因をさぐり、癒そうとする姿勢が大切なのです。
ボールドウィンの義理の父への憎しみも、それから逃げてしまうのではなく、父を理解し、また何故自分が父を憎むのかを洞察することによって、氷を温かさが溶かすように、愛によって解消させなければならなかったのです。どうもボールドウィンの回心体験が本物でなかった理由は、彼が自分でないものになろうとした所にあるようですが、父に対する愛と憎しみとの両方から成り立っている自分の世界の緊張に堪えられないで、一方的に愛だけの世界という幻想へと倒れ込んだようであります。
自分でないものになって暫くの間は良いかも知れません。併し、そういう生活は長くは続かないものであります。いつかは化けの皮が剥がれてしまうものであります。
「ルカによる福音書」の11章には、イエスの喩え話として次のようなものが書かれております汚れた霊が人から出て、ゆっくりと住みつける所を探したのですが見付かりません。そこで元の所に帰ろうと考え、前に住みついていた人物の所に来てみますと、汚れた霊が住んでいた家、即ちその人物の心の中は、掃除がしてあって、その上に飾りつけがしてあった、という訳です。恐らくこれは、掃除をして空っぽになった部屋に、偽りの飾りを状態を指すのでしょう。空しさを隠すための虚飾と言ったらよいのでしょうか。
とにかく、その人物の心の中は満足で一杯になっていないのです。活きいきとした考えで一杯になっていれば、飾りつけなどをする隙間はない筈であります。ところが、今この人物の心は飾り付けをして空元気(からげんき)を示さなければならない程に空しいのであります。こういう状態を見た汚れた霊は、「また出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中に入り、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」とイエスはこの話を結んでいます。自分でないものになろうとすればする程、私たちの生活はますますひどくゆがめられた、いやらしいものになって行きます。
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ボールドウィンの牧師生活はやがて終止符を打ったのですが、これは彼の本当の自己が偽りの自己に復讐したのだ、と言えます。そして御存知のように、彼は自分の皮膚の色も恥じない、たくましい作家として成長し、アメリカの黒人解放にも尽くすようになるのですが、私は、このように黒人としての自分に目覚めて行ったボールドウィンの成長過程に、むしろ本当の回心体験に近いものがあるように思います。そこには前のような劇的なものはありませんし、長い期間にわたって少しずつ成長して行った緩慢さが目立ちますが、こういう回心もあるのです。
牧師をやめ神を棄てたボールドウィンのこの時期について、宗教上の回心を語るのは難しいことかも知れません。併し、自分でないものになるよりかは、嘘偽りのない生活をし始めることのほうが、はるかに宗教上の回心体験に近い、と私は信じております。
ところで、この話を私はアメリカ作家に関することから始めてしまいましたので、ついでにもう一つアメリカの小説に触れさせて下さい。それは1953年に映画にもなりましたので、私と同じように映画を観た方々も多いのではないかと思いますが、もとは1949年に出版されたジャック・シェーファーの書いた小説『シェイン』です。西部劇というのは、物語が残酷だったり、アメリカ・インディアンに対する差別と偏見で一杯だったりして、私は普通はあまり好きではないのですが、この物語にはとても惹きつけられます。今でも善良なアメリカ人の中に生きている、生きることへの勇気がこの物語からは伝わってきます。
物語の舞台は、ワイオミングの小さな田舎町ですが、そこから少し離れた谷間の片一方の斜面に、何軒かの開拓農民が牧畜をしながら生活しています。ある日、どこからともなくシェインという渾名(あだな)の男が馬に乗って現れ、その開拓農民のリーダー格の家、ジョー・スターレットの家で一晩世話になります。シェインはジョーの妻や、幼い男の子にも気にいられ、一日一日と滞在を長びかせて、遂にジョー一家の下で働くことになります。
谷を隔てた向側の斜面にはルーク・フレッチャーという大きな牧場の所有者がいます。フレッチャーはこちら側の斜面も自由に使いたいので、色々の嫌がらせや脅しをかけて開拓農民たちを立ち退かせようとしますが、ジュー・スターレットの指導力のために、フレッチャーは自分の欲望を遂げることができない。最後の手段としてフレッチャーは有名な殺し屋を何処からか雇ってきます。殺し屋はわざと挑発して開拓農民の一人に銃を握らせ、その農民を正当防衛の名目で射殺します。
フレッチャーは殺し屋と一緒に、ジョー・スターレットに最後の圧力をかけてきます。ここから出て行かなくてもよいから、自分に雇われて働け、という訳です。勿論、スターレットがその申し出を拒否し、ここを去らなければ、殺すということです。物語の終りはいかにも西部劇らしく、その殺し屋とシェインが対決し、殺し屋とフレッチャーとを正当防衛という形で射殺して、何処ともなく去っていく訳です。
実に、息もつけない程に面白い物語ですが、私がこの物語を引き合いに出しましたのは、次の場面を使いたかったからです。
あまりにも家族やシェインを苦しめていることに、居たたまれなくなったジョー・スターレットは、シェインのいない所で妻と息子に、この家を売って他の所に行こうと言い出します。この時期には、シェインは一家の尊敬のまとになっていたのですが、妻が夫のジョーに反対して叫びます。
「逃げ出すなんて、そんなことをしたらシェインは決して私たちを赦しはしない。それは逃げ出すことなのよ。」
これはもはやフレッチャーとの争いだけではなくなっています。フレッチャーが牧場として使いたがっている土地を、彼に渡さないということだけではないのです。
「ジョー。私には説明できないけれども、私たち皆よりも大きな何かに私たちは結び付けられているのよ。逃げ出すなんて、私たちに起り得るどんなことよりも悪いことなのです。逃げ出すようなことをしたら、私たちにはもう本当の未来はないのです。」
まさにこの通りです。自分のいるべき場所から逃げ出したら、私たちに本当の未来はありません。どんな自分が嫌いであっても、自分のいるべき場所は自分の中だけなのであって、自分でないところのものになろうとするなど、以ての外です。
しかも、ジョーの妻は、逃げ出してはいけない理由として、自分たちが、自分たちよりも大きなものと結ばれているからだ、と言います。
この、私たちより大きなものに私たちが包み込まれているということを、仏教では山川草木にはことごとく仏性がある、すべてのものの中にはほとけの性質が宿っている、という言い方で表現しています。どんなものも、その奥の方でそのものを越えた大きなもの、ほとけと繋がっている、ということです。同じことをキリスト教では、人間は神のかたちにかたどって作られたものであるから、神の像をもっていると言います。人間は魂の一番深いところで神と結び付いている、ということであります。
そして、宗教は、ほとけや神が慈悲深く愛であるので、私たちが逃げ出すのは愚かであると教えてくれるのであります。自分でないものになるということは、自分がもっている神やほとけとの結び付き、命綱を断ち切ることですから、自分はやがて栄養失調になり、痩せ細って変形し、遂には見る影もなくなります。外見でどんなに威張っていても内側は寂しく荒涼たるものです。
ほとけや神は大きく自分を包んでくれているのだから、何処へ行ってしまっても、自分が自分でないものになってしまったところで、繋がりはもてるのではないか、と思う人があるかも知れませんが、そんなものではありません。丁度、生まれた場所や年月日時が二つとないように、ほとけや神と、私とのつながりはたった一つです。どの人にも、他の人とは全く違った、その人だけのほとけや神との結び付きがあるのです。人間は一人一人、この、生きて行くのに一番大切なところで、一人ぼっちです。お互いに励まし合うことはできるのですが、ほとけや神と一つになる魂の奥の細道は、一人でなければ通れません。一人一人、別の宿命を生きているので、最後のところ、親子、兄弟、夫婦も助けになりません。人はすべて孤独です。
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ほとけや神との結び付き方は、今話しましたように一人一人独特の形をもっているのですが、併し、私たちが結び付いているほとけや神が、私たち一人一人にとって別々の存在である、というのでは勿論ありません。こちらは千差万別でも、あちらは一つです。慈悲であり、愛です。従って、別の言い方をすれば、人間の心の奥底に辿り着くと、そこには誰でもが、美しいもの、真実なもの、善いものへのあこがれをもっている、ということになります。そして、誰でもがもつ同じ真・善・美へのあこがれが、その人その人によって違った、千差万別の形でこちら側では表現される訳です。ある人には芸術への好み、ある人には社会を良くするための活動、ある人には逆に真・善・美への憎しみという形で表れ出てくるのであります。
今、真・善・美への憎しみと申しましたが、そういうものは本当にあります。いや多少なりとも誰でもがもっています。この世の中を生きて渡るのに、真・善・美へのあこがれをもっていると却って邪魔なので、人はしばしば、わざと忘れようとします。みにくい周囲のものに迎合した方が楽なのです。このようにして忘れることに一応成功する人々もいますが、忘れようとしても忘れることができないとなると、人は真・善・美を憎み始めます。人間の本来あるべき姿は、真・善・美に根をおろし、そこから栄養分を吸い取って大きく成長して行くことなのですが、そうしないで、本来の姿からゆがんでいる状態にあるのを、私たちは疎外と呼んでおります。
自分の本当の姿を疎んじ歪曲し、本当の自分から外にずれているのが疎外ですから、別の言い方をすれば疎外とは病気のことだ、とも言えます。ただ、病気には手遅れになるまで自覚症状が全くないものもありますが、疎外とはそういう病気とは違って、いつも当人に、何処かおかしい、とささやき続けます。人はこのささやきと戦いながら、このささやきを圧しつぶし沈黙させて、自分のゆがみを大きくして行きます。熟練してくると、沈黙させることが上手になるかも知れませんが、併し、何処かおかしいのではないか、というささやきは、どんな人の心の中ででも一生涯続くものです。
だから遂に、このささやきに耳をおおい、それから逃げることを止めて、魂の奥底に涌く命の泉に返ろうと決心する人が出てきます。これが回心だった訳です。自分の病気をいやすこと、道端にほこりまみれで転がっている傷ついた自分の魂を家畜に乗せて、本当の休息の場所に連れて行かねばなりません。自分の魂への隣人愛です。宿屋へ行く途中、自分の魂の不平、不満をよく聞いてやらねばなりません。自分へのカウンセリングです。作家のボールドウィンが牧師になったように、どうして本来の自分から逃げ出して、自分でないものになろうとしているのか、自分の魂を、愛と同情から出てくる洞察力で良く理解してやらねばなりません。そして、真・善・美の命の泉から離れてきた自分の魂には、自分の魂なりに理由があったことを理解してやらねばなりません。つまり、とても自分にはそんなきれいな世界はむいていない、自分にはそこに居続ける能力がない、こういう自分の魂の劣等感を理解してやらねばならないのです。更に魂は、競争の激しい、すさまじいこの世を生きて行くのに、真とか善とか美とかを追っていたのでは、とても普通に生きては行けない、落伍者になってしまう、という自分の魂の恐怖を理解してやらねばなりません。でも理解したあとで、自分の魂をゆっくりと説得しなければならないのです。劣等感は持つべきではない、何故なら慈悲のほとけや愛の神が、このだらしのない私を受け入れてくれているのに、だらしないからと言って自分が自分を受け入れないということは大変傲慢な態度だからです。ほとけや神が受け入れてくれているのに、自分は受け入れないというのは、ほとけや神より自分の方が偉くなっているからです。また、この世の生活で恐怖をもつべきではないのです。何故なら真・善・美に生きてこの世の競争で負けたようであっても、本当は勝っているのですから。結局この世はほとけや神の働きがしみ透っているところなのですから、目先のことで負けるからという訳で真・善・美を棄てることは、ほとけや神の働きの強さを本当に知らないところから来る焦りの行動なのです。
慈悲とか愛とかは本当に強いものです。力づくで何かをすることは、手っ取り早いように見えますが、長い目で見ると決して良い結果を生んでいません。結局は負けです。色々の問題を解決するためには、こんがらがった糸を丁寧にほどくような努力が必要です。自分の問題もそうです。ゆっくりと自分の言い分を聞いてやり、丁寧に自分の間違いを説得する必要があります。自分という一番身近な隣人の心の中に入って、その苦しみや悲しみを理解できないようでは、とても自分よりも遠くにいる人の気持ちなど分りっこありません。一生懸命人のために尽くすのだけれども、却って他の人々から余計なお世話だとされ、迷惑がられる人々が案外世の中には多いものですが、こういう人々は、自分を本当に愛したことがないために、他人をどのような仕方で愛したらよいのか、全く知らない人々なのです。
このように私が自分を愛することについて語りますと、聞いておられる皆さんの中に、それでは我儘(わがまま)な、利己的な人間を作ってしまうことにならないか、という疑いをおもちの方もあるかと思います。確かに人間は我儘ですし、自分中心ですから、集団で住んで行こうとするなら、お互いに規制し合うことは必要ですし、そのために社会には法律もあり警察も存在します。併し、法律も警察力も最後のところ、慈悲の心や愛の心に基づいて作られねばならないものであります。法律や警察力は人間をもう一度、社会が成立っている基本のところに連れ戻すためのものです。つまり、慈悲とか愛の心へ連れ戻すのです。
結局のところ、人間は他の人を愛して、それらの人々と一緒に助け合って生きて行かない限り、本当の自分自身になれない、自己実現ができないように、初めから作られているのです。一人一人が千差万別の生き方を許されていながら、すべての人がほとけや神と、その一番深いところで結び付いているというのは、そういうことなのです。お互い、相手のために生きてこそ、自分も生きられるようになっているのです。
以上のように考えてきますと、宗教的回心とは自己発見の旅だ、と言えます。旅の始まりは、ある人には劇的なもの、今迄の生活を180度変えてしまうようなものかも知れません。併し、ある場合には、ふらりと外へ出て触れた事柄が面白くなり、だんだん引きずられて旅をすることとなり、気がついてみたら随分と遠くに来ていた、というような、ゆっくりとした散歩で始まった旅もあるかも知れません。ジェイムズ・ボールドウィンの回心体験のように、床に倒れて転げ回るというようなことは、あっても不思議ではありませんが、無くても別に構わないでしょう。回心体験の在り様も人さまざまであってよい訳です。
併し、それは自己発見の旅ですから、いつ終るとも知れない旅です。自分というものは、知れば知るほど不思議なもので、ますます神秘なものとなります。このことは同時に、他人の命の不思議にも通じます。自分のものにしろ他人のものにしろ、命は実に面白いものです。回心体験はこの命の深みに、その素晴らしさに目覚めて、ほとけや神との結び付きのところに入り込んで行くことですから、何処まで行っても限(きり)がありません。この意味では、人間の一生は回心体験の連続であり、繰り返しであるとも言えるかも知れません。
先程引き合いに出しました『シェイン』と言う小説は、ある批評家たちによりますと一つの神話であるということですが、この場合に神話とは、人間の運命の一番深いところは論理形式で表現できないので、物語で表現する、ということだそうです。そう言われて見れば、シェインは西部の何処からか谷あいの村にやって来て、そこに定着しようとするのですが定着できず、またいずこともなくもとの西部の方へと一人で旅立って行きます。まるで作者シェーファーは、自分の魂がどうしてもそこにいなければならなかった西部から、つまり自分の本当の姿から逃亡してきたシェインが、結局はどんなにさびしく、思う通りにならない所であっても、そこ以外に自分のいる場所のない西部へ、もう一度帰って行くという仕方で、人間の運命の厳しさを表現したかったのかも知れません。馬の踝(くびす)を180度めぐらせて、かつて逃げてきた道をもう一度ひとりでとぼとぼと辿って行くのです。
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.11.20