野呂芳男<書評>ターナー『ウェスレー神学の中心』(1959) Home > Archive / biblio
相対的愛の完全性を主張
<書評> G・A・ターナー著『ウェスレー神学の中心問題』福音文書刊行会
野呂芳男
初出『興文』1959年5月号、キリスト教出版協会、11頁.。
ウェスレーの著書ならびにウェスレーに関する著書は日本語で本格的なものが今迄全然なかったと言っても過言ではない。この頃になってようやくそろそろそのような刊行の計画が発表されるようになって来た。この『ウェスレー神学の中心問題』は George Allen Turner : The more excellent way のホーリネス系統に属する方々による苦心の訳である。
ターナー教授は現在合衆国のアズベリー神学校で聖書を教えているが、この書物は彼のハーバード大学に提出した哲学博士論文である。聖書的完全の概念とウェスレーの完全の概念との比較研究が中心になっている。二部より成り立っているが、第一部で聖書的根拠を、第二部でウェスレーの完全の教理を中心にした歴史的発展を扱っている。
第一部では主に完全に関係した旧新約の言葉の、詳細なる言語学的研究がなされているが、その結論の方向は、旧新約においても、ウェスレーの主張したと同じ意味での、この地上での相対的な愛の完全が主張されていると言うことである。しかしこの書物は第二部の方が優れているように私は思う。第二部には仲々大胆な主張が色々な根拠の上になされている。例えばウェスレーが自分自身この完全を獲得したと公に言ったことはないのであるが、ターナーは伝道日記を引用しながら、ウェスレーがそのような告白をしていると主張している。また、ウェスレーの罪に対する理解は従来色々と批判されて来た。主な批判として挙げられるのは、ウェスレーが意識的でない罪は罪ではないと主張したではないかと言うごとき批判である。この点に関するターナーの研究は立派である。彼はこのような批判が根拠なきものであることを徹底的に示している。恐らくこの書物の最も良き部分はこのウェスレーの罪理解の研究であろう。
ターナーは特別自己の神学的主張をしている訳ではないが、彼の立場が、愛の完全は第二の賜物としてこの地上で与えられ得るものであると言う立場であることは明瞭である。
訳文も平易でありこなれている。しかし、再版の時にはヌードソンの序文と詳細な原著者の注を訳して戴きたい。
二三私なりの批判をこの書に対してなすことを許して戴きたい。第一部の取扱い方があまりに平面的であり立体感を読者に与えない。単に言語的研究だけで旧新約の完全の思想を研究するのは少しく簡単に過ぎると思う。もう少し思想の流れやそれらの流れの相剋、および、歴史的地理的環境の研究をかえりみるべきではなかろうか。例えば、新約聖書の終末論を殆ど完全との関係で取扱っていないが、この点、もう少しつっこんだ研究をして欲しかった。第二部においても、欲を言えば、ウェスレーの体験主義の問題と完全の教理との関係をもっと掘下げてみたらよかったと思う。また、原著者はルター、カルヴィン、および現代のネオ・オーソドックシーの神学者達を簡単に片づけてしまっているが、読んでいて一寸はらはらする。
しかし、このような批判は決して、この書物の価値についての正しい認識を妨げてはならない。真面目な立派な学問的な労作として多くの人々に読んで戴きたい書物である。これを機会にしてセルやリンドシュトレームや、シュミットやラッテンペリーや、ピエト等のウェスレー研究の古典書が翻訳されるのを希望したい
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.6.21