<書評>カール・マイケルソン『実存と歴史−歴史のかなめ』新教出版社 Home > Archive / biblio
実存論的な組織神学への試み ―――C・マイケルソン『歴史のかなめ』――
<書評>カール・マイケルソン著、野呂芳男・小田垣雅也共訳『実存と歴史−歴史のかなめ』新教出版社
野呂芳男
初出:『福音と世界』1960年11月号、新教出版社、66−69頁
著者カール・マイケルソン教授は、既に1958年3月から8月に至るその東京滞在で、多くの日本の、神学に興味をいだいている人々には親しい名前である。われわれは今でも、彼のした、非常に興味深い、そしてわれわれの思索を大いに刺戟した講義や講演を忘れていない。さらに彼の編書や著書、『キリスト教と実存主義者たち』、『危機に生きる信仰』は翻訳され、今も多くの人々に読まれつづけている。
最近の彼の著書、『キリスト教神学に対する日本の貢献』(Japanese Contributions to Christian Theology, Philadelphia, The Westminster Press, 1960)は、彼が日本滞在中にとりかかり、アメリカ帰国後も続けて完成したもので、全般的に日本の教会の神学を批判紹介したものであるが、特にこの書物の中で彼が取り上げている神学者は、渡辺善太・熊野義孝・北森嘉蔵・波多野精一の諸氏である。この書物にあらわれている日本神学に対する彼の洞察は、非常に鋭いものであって、われわれが読んで非常に教えられるところが多い。このように彼は、日本と非常に関係の深い神学者であるが、今私がここに紹介しようとしている書物、『歴史のかなめ』(The Hinge of History, New York,Charles Scribner’s Sons, 1959)は、今までに彼が出版した書物のうちで最も神学的なものであり、長い間の思索の結晶である。
この書物の内容紹介にはいる前に、アメリカ神学でのカール・マイケルソン教授の位置づけをしてみよう。彼は現在ニュージャージー州マディソン市にある、ドルー大学神学部の組織神学の教授であって、今年確か45歳である。アメリカの神学界も、P・ティリック、R・ニーバー、N・フェレー、E・ルイス等の先輩たちの後をうけて、そろそろマイケルソン教授たちの時代がやって来たように思われる。上記の大先輩たちは皆、何らかの形で自由主義神学のもっていた、甘い人間についての考え方、楽天的な歴史進歩観、人間中心の神学に抗議するような神学形成をしたのであったが、これらの先輩たちのあとに、現在どのような神学者たちが、マイケルソンのほかに影響力の強い活動をしているだろうか。
クロード・ウエルチは、エール大学神学部の助教授の時に、三位一体論を書き、それ以来アメリカの神学界に大きな存在になりつつあるが、現在はどこで教えているか私は知らない。彼の神学にはカール・バルトの影響がきわめて濃厚である。リチャード・ラインホールド・ニーバーは、エール大学のリチャード・ニーバーの息子であり、ユニオン神学校のラインホールド・ニーバーの甥であるが、現在ハーヴァード大学神学部で教えている、少しく保守的な神学者である。彼の復活についての労作は強い反響を呼びおこした。彼はブルトマンの実存的な復活の理解に反対し、ブルトマンのような、歴史を世界史と実存史とに次元的に分離する考え方では歴史の真実が把握できないとして、信仰的な歴史理解を提唱することにより、キリストの復活の世界史的事実性を擁護している。ユニオン神学校のマカフィー・ブラウンは、既にそのフォーサイス研究により著名であるが、著名であったアダムス・ブラウンの甥であり、穏健なカルヴィン的な傾向をもっている、生粋の長老派系統の神学者である。その他、二〜三の名が私の頭に浮かんでくるが、以上の人々がマイケルソンとともに、次のアメリカの神学を背負う大きな存在になるであろう。
これは私の個人的な印象であるが、先輩格の神学者たちと、これらの若き神学者たちの神学的傾向の相違はどこに見出されるかと言うと、前者が前述したように自由主義神学との対決においてその神学形式をなしたのに対して、これらの若き神学者たちは極めて強固な聖書神学的地盤の上に立って思索していることである。すなわち、もはやこれらの若き神学者たちにとっては、自由主義神学の問題は過ぎ去ったものであって、むしろキリスト教信仰を内面的に聖書神学と対決させつつ反省したいのである。これには、アメリカの聖書神学が、過去数十年の間に、ヨーロッパに決してひけをとらないほどに進歩して来たという現実が、大きく物を言っている。
しかし、過去の聖書神学の発展は、その歴史批評的研究において著しかったのであるから、当然今の組織神学者たちにとっての最大の関心は歴史の問題である。これはヨーロッパにおいても事情は同じであるように見える。それは、ブルトマンの系統に立つチューリッヒ大学のゲルハルト・エーベリングや、ベルリンのエルンスト・フックスの活動を見れば分る。イエスと原始教会とについてのすばらしい歴史批評的研究の成果を世界中の組織神学者たちが問題にし、それとどう取り組もうかと思索をこらしているのが現状である。もはや根本主義的なキリスト教の組織的理解が、プロテスタント教会の真面目な、良心的な、有能な神学者たちによって問題にされる時代は、永遠に過ぎ去ったのである。
若い組織神学者たちがもっている聖書神学に対する態度に、二つの大きな傾向が見られると私は思う。一つの傾向は、新約聖書の興味の中心はキリスト論にあるというような聖書神学的見方に賛同する立場である。キリスト論的に聖書は理解されるべきであるとし、キリスト論を中心にした組織神学を形成してゆく立場であって、この立場に立つアメリカの若き神学者たちの主な人々が、上掲のクロード・ウエルチおよびリチャード・ラインホールド・ニーバーである。この立場に立つ人々には、もちろんキリスト論的なカール・バルトの教義学が大きな影響を与えている。もう一つの傾向は、新約聖書の中心的興味がキリストの人格に存在するのでなく、終末論にあるとする聖書神学的立場をその拠り所とする組織神学の傾向である。これらの立場の人々にとっては、それがイエス・キリスト以上に大きな主題であり、彼もその中の一つの役割を果たしているような、そういう終末の出来事こそ新約聖書の中心的興味である。終末論こそキリスト論を内包しているのであって、その逆ではない。すなわち、新約聖書においては、キリストの人格そのものよりも、キリストがもちきたらす終末の出来事、この世界の彼岸から超自然的に、しかもすぐ間近な時機に与えられるような神の国にこそ、注意が集中されているとするのである。だから、組織神学はキリストの人格よりも、キリストの業に注意を集中すべきであるということになる。これがブルトマンたちの主張する新約神学の方向であり、もはやこのようにすぐ間もなく超自然的に来るというような神の国の思想がそのまま受けとられ得ない時代に住んでいるわれわれ、そして新約聖書自体のなかで、すでにこのような超越的な神の国の思想が、パウロ書簡・ヨハネ文書などにおいて人間理解という方向に実存論的な再解釈を受けていることを知っているわれわれは、当然、新約聖書の使信全体を、徹底的に実存論的に現代の状況のなかで解釈すべきであるということになる。
現代の組織神学は、以上のように、キリスト論的な理解か、または終末論的な理解か、とにかくどちらかの新約聖書神学の立場をえらぶように迫られていると言って差支えないと私は思っている。後者の道は、未だあまり多くの神学者たちの歩んでいない、前人未踏の領域である。カール・マイケルソンは実にこの前人未踏の領域に足をふみ入れ、フックスやエーベリングなどと共に勇敢に出発したのである。もちろん、マイケルソンをここにふみ出させるに影響のあった先輩の神学者たちを忘れることはできない。例えば、ブルトマン、ゴーガルテン(マイケルソンはゴーガルテンの書物を英訳している)をドイツ神学の領域ではあげることができようし、ラインホールド・ニーバーをアメリカ神学の領域ではあげることができよう。これらの神学者は、終末論を実存論的に解釈している点で共通点をもっている。私も終末論的な聖書理解の方が、キリスト論的なものよりも、最近数十年のすぐれた聖書の批評的研究の成果にそっていると信じているものの一人である。
私は以上において、マイケルソン教授の現代神学における位置および神学傾向を述べたわけであるが、その理由は、このような背景を知らないと、この『歴史のかなめ』という書物は十分に理解されるとは思えないからである。彼の長年の思索の凝集であり、なかなか高度に学問的な書物であって、しかも、キリスト論的な教義学にのみ親しんで来た人々には異質的なものなのであるから、なかなか理解されないのは当然でもあろう。しかし、前述したように、このような組織神学こそ、実は最も聖書の歴史研究の成果を自己の背景にもっている神学なのであるから、読者は最初の異質という印象を超越してこれを理解する義務があるし、そうする時に実に豊かな深い信仰理解に導かれるであろう。この書物を真に理解するものは、マイケルソン教授が前述したアメリカの若き神学者たちのなかでも、特に卓越している、独特な神学者であることに気づかれるであろう。
『歴史のかなめ』は二部から成り立っている。第一部は「実存史」であり、第二部は「終末論史」である。そして、第一部が歴史における神の欠如について語っており、第二部が神の歴史との交わりを語っている。
この構成をちょっと見ると、何かポール・ティリックの人間の状況と神の啓示との相関関係主義をおもわせるが、マイケルソン教授の場合はそうではない。むしろ徹底的に啓示中心であって、ティリックのようにその状況を理解する哲学(ティリックの場合には後期のシェリングの実存的な思考)が、啓示の理解をも決定するということはない。むしろ、マイケルソン教授の場合には、啓示の言葉に語りかけられた時に、人間は真の自己理解を獲得するのであって、その自己理解こそ実存的な自己理解であるということになる。
第一部の「実存史」において、彼は世界史と実存史とを取り扱っている。世界史とは歴史における自然的次元であって、年代記的記述の意味における歴史であるが、人間はこの世界史の中に埋没して生きているわけにはゆかない。人間はどうしても自己の生存の意味を問うのである。しかし、人間は歴史のなかにその間いの答を見出さないのであって、歴史は無意味の間隙に満ちている。この虚無の風にさらされる歴史的人間の次元が実存史であって、実存史は問いのみあって答のない次元である。
第二部の「終末論史」は、救済史(biblical history)とキリストとしてのイエスの出来事という二つの次元をもっている。これらの次元こそ実存史への答の次元である。「終末論史」と題されているように、答は、マイケルソン教授にとって、客観的な知識――例えば従来のキリスト論のごときもの――ではなく、われわれの実存を終末論的に規定するもの、われわれに前の方から問いかけ、人生の最後的な問いに対して肯定・否定の態度決定を迫るようなもの、歴史を前向きに創造させるようなものである。客観的にイエスの人格の秘密の思索にふけることは、後向きの姿勢をとることであり、将来的な歴史創造の姿勢ではない。イエスの出来事は、神からの人間に対する、前向きの姿勢を取れとの語りかけであって、イエスの出来事は、前向きの姿勢をとらせる終末の出来事への期待のなかで考えられるべきである。すなわち、終末論がキリスト論に優先すべきである。救済史は確かに終末の期待をもつ歴史の次元であるが、しかし、この終末の期待はさらにキリストとしてのイエスの出現を通して、その究極的な意味を顕わにしたのであって、キリストとしてのイエスの出来事から、救済史といえども解釈され理解されるべきである。だから、キリストとしてのイエスの出来事が、歴史のかなめなのである。
人間は、以上の四つの歴史の次元を混同せずに生きねばならない。例えば、信仰の問題としてイエスとかかわる時に、イエスの出来事を世界的に取り扱うことは、それを終末論的な出来事、われわれを歴史創造的たらしめる出来事として理解することではなく、このような取扱いは神学として不適当である。このようにマイケルソン教授は、ブルトマンのイエスの十字架や復活の理解に賛成し、非神話化に同意している。イエスの出来事は、歴史内で神がわれわれの罪を赦し、われわれを愛するということを語ったことであり、これこそ受肉の意味である。教会は説教ならびに聖礼典を通して、この受肉の出来事を常に現在的たらしめるのである。
以上がこの書物のきわめてあらい筋書きであるが、実際には読者は、いかにもマイケルソン教授らしい文学・美術にわたっての論及と、バルトやティリックなどの現代神学者の批判や、プロセスの哲学、ネオ・トミズムや実証主義への批判等々、一ページ一ページ考えさせられ、信仰と論理との交錯の饗宴に招待されたかの感をいだくであろう。とにかく読んで、大いに論じてもらいたい書物である。
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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.7
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