野呂芳男<書評>八木誠一『新約思想の成立』(1964)  Home  >   Archive  /  biblio

『新約思想の成立』の独創性と問題性
<書評>八木誠一著『新約思想の成立』新教出版社

 野呂芳男

 
 初出『福音と世界』1964年3月号、新教出版社、62−66頁



 この書物を読み終って、これは日本のキリスト教界が産んだ重要な書物の一つであるとの感想を私はもった。実に独創的であり、著者八木誠一氏(関東学院大学神学部専任講師)のもっている人の良さと勇気と情熱とが満ち溢れている書物である。

 この書物の独創性は、実存論的な思索がキリスト教のケーリュグマの理解に適用されているばかりでなく、それが仏教とのパラレルを求めるような形でなされているところにある。内容は、実存論を媒介としたキリスト教と仏教との比較研究、すなわち、比較宗教学的な試みの独特な形態であるとも言えると思われるが、日本のような仏教国の中で、これほど重要な仕事はほかにあまりありえないであろう。しかも、著者は、見事に困難なこの仕事を一つのまとまった形で提供してくれている。終戦後のキリスト教界には、若干の重要な書物が出版されたわけであるが、私はこの書物を、そのリストに付け加えなければならないと考える。

 簡単な内容紹介を行なってみよう。この書物全体が、整然とした論理の一貫性をもっているので、読者は、その構造を知るのに苦労しない。著者は、ナザレのイエスについての史的研究の結果出来上がったイエス像を史的イエスという言葉で表現しているが、史的イエスの使信および生き方を、原始教会のケーリュグマの中に現われているイエス像は、相当隔たりのあるものとしている。史的イエスと終末論との関係についても、著者は、それが聖書資料からは明瞭に把握されないものとしており、むしろ原始教会のケーリュグマの終末論的な、あるいは、律法を過剰に意識することから出来上がった枠からはずれているようなイエスについての物語の中に、史的イエスの真の姿を求めているように思われる。さらに原始教会のイエスについてのケーリュグマを、著者は大きくわけて、二つの類型に区別する。第一は、宗教心理学的類型であるが、この中には、聖者伝説と奇蹟物語が入る。第二は実存論的類型を類型A・B・Cと分けて考察する。

 宗教心理学的類型に関する著者の分析は、ルドルフ・オットーの「聖なるもの」の中に使用されている観念、 被造物感情 という言葉を借りたヌーメン的なものという著者独特の概念を中心として展開される。これは、人間が異質のものに対して持つ感情であり、このヌーメン的なものは、プロ・ヌーメンとアンティ・ヌーメンという二つの観念に区別される。プロ・ヌーメンは、人間が異質のものに接した時に抱く尊敬と驚異と畏敬の感情であり、アンティ・ヌーメンは、それとは逆に、異質のものに接した時に抱く、それを汚れたもの・悪霊的なもの・怪奇なものとみなす感情を言う。以上のプロ・ヌーメンとアンティ・ヌーメンとが、聖者伝説および奇蹟物語を構成する感情的な要因として把えられている。イエスについての聖者伝説は、自分と異質のイエスに接した人間たちのプロ・ヌーメン感情の作りあげたものであり、奇蹟物語は、イエスへのプロ・ヌーメン感情をもった人々が、イエスは異常な多くの業をなすことができたという尊敬を表白したものとされている。そして、イエスへのプロ・ヌーメン感情が、逆に、イエスと対立するものに対しては、アンティ・ヌーメン感情を抱かせる。

 著者の資料分析を一々ここに挙げることはできないが、特に指摘しておかなければならないのは、著者が、心理学的類型に属するこれらの伝説や物語は、非ヌーメン化されなければならないと考えている点である。そして、非ヌーメン化をわれわれに迫るものは、著者によると、二つのものである。第一は、近代科学であるが、異質のものを科学は、理解させることを通して異質でないものにさせ、従ってプロ・ヌーメン、アンティ・ヌーメン感情をわれわれから剥奪する。第二に、実存論に徹底する時に非ヌーメン化が行なわれると著者は主張しているが、なぜ実存論に徹底すると非ヌーメン化が行なわれるかという点では、著者の論埋は必ずしも明解でない。

 しかし、著者がもっとも情熱をもって書いているのは、実存論的類型によるケーリュグマの区分であろう。その中の類型Aとは、律法との対立でイエスを把握したものである。律法への関心を棄てきれない原始教団の人々の間にうまれたイエス理解である。それによると、イエスは、人間が律法に違犯した過去の罪を贖うために十字架の死をとげた存在であるとされる。しかし、これにも進歩的なものと保守的なものとがあり、保守的なものは、過去の罪からあがなわれた後、人間はもう一度、律法を守らなければならないとしたユダヤ教的キリスト者たちのケーリュグマであり、進歩的なものは、律法とは無関係に人間が新しい命を歩まなければならないという立場をとったペテロ、ヨハネたちのケーリュグマであるとされている。類型Aは、原始教会の歴史的状況を背景にして、類型Bを生み出した。類型Bのケーリュグマによれば、復活のキリスト、すなわち、霊のキリストが、キリスト者の実存を支配する。そこには、浄土系の仏教とパラレルの実存類型が見られるとされている。天にあげられた霊的なイエスが信者の中に内住し、信者に霊的な生活を歩ませる。念仏を唱えることもアミダの慈悲によって起こるとされているように、類型Bにおいても、信仰さえも内住する霊のキリストの力によって起こるものとされている。ここではもはや、類型Aのように、律法が信者の生の根底としてとらえられていない。霊のキリストとの一致が、信者の実存の根底とされる。さらに、類型Bは、その中に類型Cを暗黙の中に含んでいるが、原始教会のケーリュグマにおいては、CはBの中に含まれた形でだけ、すなわち、Bから分離せずに、存在している。類型Cは仏教の禅宗とパラレルをなすものであり、愛の実存である。愛を行なうことが直接に神の中にいることであり、人の愛を通して神ご自身が働く。ここにはイエスの十字架や霊のイエスという媒介は役割を果たさない。愛そのものが、神との一致である。

 著者によると、類型Cが、史的イエスの実存と直結する。結論的に言うと、イエスの死後弟子たちが、イエスの死を贖いの死と考えた類型Aのあのケーリュグマが出現すれば、原始教会の状況の中では必然的に、Cが出現することになるが、このCによって、ナザレのイエスの実存がケーリュグマの中で回復された、というのが著者の主張なのである。

 著者は、以上のシェーマの下に、パウロ神学およびヨハネ神学の構造を分析する。パウロ神学は、類型AとBの神学であり、ヨハネ神学は、主に類型B、そして、その中にCが含まれたものである。また著者は、イエスの復活信仰の成立にあたり、どのようにこれらの実存論的類型が働きかけたかを考察し、聖書の中にある資料が仏教の経典の中にある資料と対比されて、復活信仰の成立が決してキリスト教独特のものではなく、仏教の中にもパラレルのものがあると理解されている。復活信仰は、結局のところ、イエスの実存を自分の実存としてとらえた信者たちの体験の表現である、と結論されている。

 著者は、自分の立場を 宗教的 実存論という言葉で表現しているが、既に述べたところから明瞭であるように、キリスト教のケーリュグマと仏教との間にパラレルを求め、パラレルになるような実存論的な生の理解が、両者に存在していることを示そうとの努力を一貫してなしている。その実存論的なパラレルのものを摘出する手段になっている重要な観念が若干存在するので、その観念を取り上げながら、内容紹介をもう少し続けて行くことにしよう。

 先ず、文化という観念が大きな比重を占めている。文化とは、著者によれば、人間が生を豊かにするために作りあげて行くものであるが、その形成に当たって、人間が使用するのは 観念 である。観念とは具体からの抽象であり、具体を支配するために必然的に人間がつくるものである。文化は抽象的な観念を土台にしているがゆえに、他者との根元的な交わりを失わせる。そのような 対他連関 をもう一度回復することは、一応、文化を根底から破壊することであるけれども、同時に、それは文化を真の文化たらしめることでもある。著者によっても文化破壊が正しいものとはされていない。著者は、対他連関の回復の手段として 純粋直観 を提唱する。純粋直観とは、観念化されない以前の根元的な他者との交わりである。著者によると、純粋直観、対他連関を回復するのが、宗教的実存論の役割なのであるが、これらがもっともよく現われているのは禅宗である。著者は豊富な知識を利用しながら、禅宗の本質が純粋直観・対他連関であることを説明し、キリスト教のケーリュグマの究極的なものと著者の考えるあの実存類型Cとどのようにそれが結びつくかを説明している。

 私自身、この書物から実に多くのことを教えられ、強い感動をもって読み終った。さて、新約聖書神学からの批評は私にはできないが、組織神学を専攻する一人として、若干の質問を提起してみたい。

(1)私は著者が、キリスト教の教埋と実存を分離しうる、と考えている点について疑問をもつ。もちろん、著者の主張する 精神科学 としての 宗教的 実存論は成立すると思うが、しかし、教理史を顧みる者が、理解することのできるように、キリスト教の教理は実存の問題と無関係に、単に客観的に神やキリストについて語ったものとは私には思えない。例えば、著者がどれほど教理と実存とを分離できると考えたとしても、著者のようにケーリュグマの類型Cをキリスト教にとって本質的なものと考えたり、また、復活に対して著者のような取扱いをした場合に、正統主義的な贖罪論や復活の理解に立つ教義学は明らかに成り立たないであろう。私は、一応は教理と実存とは分離できると思うけれども、無関係ではないのであって、その関連の面を著者は、ほとんど無視していると思われる。こういう宗教的実存論と 協力できる 組織神学は、少なくとも正統主義的な組織神学ではなく、実存論的な組織神学だけであろう。その場合にも、両者は無関係ではありえない。協力できる以上は、そこに積極的な関連を認めるわけである。

(2)著者の 純粋直観 という言葉の使用は不幸であったと思う。純粋直観とは、人格以前の問題であって、人間が他者と人格的な交わりをもつというよりも、 神秘的 な一致をもつということではないであろうか。こういう対他連関は実存的であると言えるであろうか。キェルケゴールがヘーゲルに対抗したのは、実に、このような問題性をキェルケゴールが理解していたからではないであろうか。われわれが普通実存という言葉によって表現するのは、主−客未分の状態である純粋直観ではなく、主と客が分れた後で、主体性をもった人が歴史をつくりあげるために、他者と一つになるような創作的な交わりではないのか。純粋直観という言葉は、実存論の展開に当たって用いられるには、不似合な言葉だと思う。しかも、これは、著者が仏教、特に禅宗とキリスト教とをパラレルにしている鍵になる言葉であるだけに、問題性を孕んでいるように私は思う。

 著者が新約聖書の類型BおよびCをとりあげて、それを浄土宗や禅宗とパラレルなものとした時に、キリストの内住や愛の実存が、仏教の生き方と果たしてパラレルになるであろうか。著者は、あまりにも両者の間にあるパラレルを求めるのに急であって、相違には目を注いでいないのではないか。この点でティリックが日本の仏教学者たちと行なった対話は、大変参考になるように思う。もちろん、両者の間にパラレルがあるかどうかは実証の問題であるから、結論は詳細な実証的研究を行なわなければ出ないであろう。私は、この点での仏教の側の人々からの意見を聞きたいと思う。

(3)著者がキリスト教と仏教との両者にパラレルとしてみるものの中に、私はまだ完全には同質のものばかりでなく異質のものを見るように思うのであるが、もしそうであるなら、著者のいう精神科学としての宗教的実存論は、異質のものの中にある平行的な現象の追求であろう。この点、著者がケーリュグマの中の主要な要素である神の恵みという観念を、ほとんど取り上げていないことは気になる。神の恵みは、浄土系の仏教とパラレルのものとして見る類型Bのキリストの内住によっては説明つくされないものがあるのではないか。恵みは、人格的な神が、人間にイエス・キリストをおくられた点にその中心がある。そこでは、 「我と汝」という形で 、神という 主体 と人間という 主体 との 交わ りが、象徴的にとらえられていなければならない。実に、ルターがカトリシズムに反対して神の恵みを強調した時、ルターのみたのは、カトリシズムが神秘主義的であり、我と汝という形での神と人間との出会いを真剣に取り上げなかったからであった。カトリック教会も、人間が自力の業によって救われると言ったのではない。人間は神のカによって良い業をなし、それによって救われると言ったのである。ところがルターは、人間は、神の力によってなしたその良い業によっても救われないと言ったのである。厳密な意味で仏教にはこのルターの発見したような神の恵みのパラレルが、私にはないように考えられる。

(4)だから、宗教的実存論は、一応精神 科学 として成立するとは思うが、それは、過去の宗教史的な比較宗教学がもっていたと同じ曖昧さからまぬかれないものだと思う。異質のものの中にある平行的なものの追求であろうから、どうしてもそうなるだろう。しかし、このことは決して、著者の試みが成立しないということを意味しない。曖昧さをもったままでも、立派な科学としてこれは通用するのであって、著者は独創的な分野を拓いたと言える。私はその点を高く評価したい。

(5)著者は、宗教心理学的類型の中で、オットーのヌミノーゼ感情から暗示を得て、イエスの物語を分析しているが、ケーリュグマの中には、イエスにおいて体験するヌミノーゼ感情を完全に払拭するのを拒むものがあるのではないか。聖者伝説や奇蹟物語を非ヌーメン化する著者の試みに私は賛成であるが、イエスにおいてわれわれは異質のもの、すなわち、創造者なる神の働きに出会うがゆえに、著者の宗教心理学的分析は、ここで破れるのではないか。

(6)著者は、ケーリュグマを実存論的類型A・B・Cに分けているが、著者がCを最も進んだものと考え、それを自分の立場として選ぶことは暗黙のうちに了解されているように思われる。仮に著者の主張するように、聖書はA・B・Cを含んでおり、また、論埋的にAからB、BからCへと移って行くとしよう。ここで重要な事実は、著者自身も認めていることであるが、Cは Bの中に含まれて存在 するのであって、聖書においては独立に存在していない、という事実である。著者は、禅宗の好意にひきずられて、類型Cだけを取り上げようとする傾向があるために、CをBから抽象したのではないだろうか。実に、聖書においては、CがBの中に含まれているがゆえに、前に言及したあの神の恵みの人格的な観念が、神と人間との人格的な交わりの象徴が生きているのではないだろうか。Cだけを特に選ぶのは、 実存論から神秘主義への転落 になる恐れがないだろうか。

(7)実存論的神学が著者の宗教的実存論と違う点は、前述したところに明らかであるように思う。実存論的神学は、著者の言うような意味では実存論ではないのではないか。実存論的神学には、人格的な神が人間と出会うという神話がどうしても残り、非神話化は制限されなければならないであろう。神の言葉なるイエスとの出会いの中にある実存が分析され、論述されるのが実存論的神学なのである。この点、著者の宗教的実存論は対話性をもっていない。もちろんこれは、 精神科学 としての宗教的実存論としては当然のことであるが。それ故、 宗教的 実存論は、聖書の 究極的な解釈の基準にはならない であろう。

(8)しかし、著者の宗教的実存論は、実存論的神学と 協力の関係に入りうる ものだと私は考え、心からこのような精神科学的試みを歓迎したい。共に人間の実存論的な姿勢を問題にする以上は、両者は相互影響の関係、および、対話の関係を保ちうる。その点、著者の分析から、私は非常に多くのものを教えられた。

 以上で大部長い質疑を提出したが、これは私がこの書物とどれほどの情熱をもって取り組まざるをえなかったかということの表現でもある。全くこの書物は独創的であり、戦後のキリスト教界に現われた実に重要な書物だと私は思う。今後も、私は著者から多くのものを教えられて行きたい。著者が学問的に更に前進し、われわれにこの労作を凌駕する著述を送って下さることを望み、この業績に対して心からの賛嘆の拍手をおくって、私の書評を終ろう。

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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/
2003.7.22