ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化12


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 次に、我々は、ウェスレーが此の完全の教義を主張した動機を知らねばならない。それには二通りあるように思われる。ひとつは、神の全能の主権を飽くまで徹底させるためで
ある。神は、必ずしも、死の刹那、或いは死の真際に完全を与え給うのではない。若し、それが神の意志であるならば、今がその時であり得るのである(註1)。

 今ひとつの動機は、次のウェスレーの日記に於ける記事によくあらわれている。「コーンウォール(Cornwall)の信者達と話をすればする程、彼等が、明白に、強く実行せられているキリスト者の完全の教義について聞かないために、大きな損を受けていることを確信させられる。此れが聞かれていない何処でも、信者は死なんとして居り、冷たくなってしまうように思う。此の事は、愛に於いて完全になり得ることの絶えざる期待を彼等の中に保つことによってのみ阻止せられ得るのである。私は、絶えざる期待と言う。何故なれば、死に於いて、又は今から暫時の後に於いて、それを期待することは、それを少しも期待しないのと全く同様であるから」(註2)。即ち、ウェスレーは、此の地上に於いて与えられる完全を、毎瞬間求めしむる事によって、信者に絶えず倫理的な緊張を持たせたのである。此の完全を求むる態度は、「不注意なる無関心、或いは、怠惰な不活発に於いてではなく、活発な全的服従に於いて、凡ての戒めを熱心に保つ事、油断なき事、苦心する事、自己を否定し、日々己が十字架を取る事に於いて期待せねばならない。又、熱心なる祈りに於いて、又、断食に於いて、神の凡ての命令に全く服従する事に於いて期待せねばならない」(註3)。

 而して、ウェスレー自身の信仰体験に於いて、彼は此の完全の賜物を与えられていたのであろうか。我々は否と答えなければならない。凡ての人を信じ易かったウェスレーは、他の人々が此の賜物を得たと告白する時、それを単純に信じたのであるが、彼自身――あんなにも理智の勝った、又、罪悪の深い認識を持ち、その罪悪体験に於いてルター的である彼が、此の賜物を得たことは信じられない。それを我々に確証するものは、彼が、その日記に於いても、他の著書の何れに於いても、「言葉といえども自己が此の信仰体験を得たことを告白していないことである。何故ならば、『基督者の完全』の中に於いて、完全を得た人々に、それを告白すべき義務のある事を教えている彼自身、それを、単なる謙虚のために告白しないという事はあり得ないからである」(註4)。それに反して、彼自身常に引用したのは、ピリピ書3章12節「われ既に取れり、既に全うせられたりと言うにあらず、唯これを捉えんとて追い求む。キリストは之を得させんとて我を捉えたまえり」との言葉であった。それ故に、ウェスレー自身の信仰体験に於いては、あのルターの「常に罪人、同時に義人」(Semper justus,simil peccator)との言葉があてはまったのである。結局この完全は、ウェスレーにとって、希望の対象であり、此の教義は、倫理的関心の強いウェスレーらしい教義であったのである。





(註1)神の用い給う普通の方法もあるが、彼の主権の意志を用い給う他の方法もある。神は、彼の業を早くし、遅くするに、共に賢き理由を有し給う。時には、不意に、そして予期せられざるに来り給い、時には我々が永く彼を待ち望む迄、来り給わない。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.21
(註2)Wesley's Journal (Everyman's Library) Vol.? p.115
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.19
(註4)併し、全然それについて語らないで、全く沈黙する方がよくはないであろうか。沈黙に依って、人は多くの十字架を避け得るであろう。十字架とは信者の間に於いてすら、神が彼の霊魂のために為し給いしところのものを、単に語っただけでも自然的に又、必然的に起こるのである。それ故もし、血肉に相談するならば、全く沈黙をするのであろう。併し、此れは明白な良心を以てしてはなされ得ない。何となれば、疑いもなく、彼は語らねばならない。人は枡の下に置くために灯をつけない。全てを知り給う神に於いては尚更である。神は決して全人類から隠すために此のような彼の力と愛との記念碑を建て給わない。むしろ単純なる心の人に対する一般的な祝福として、それを意図し給う。それによって神は単にその個人の幸福を意図し給わず、他人を同様な祝福に従うように鼓舞し、元気づける事を意図し給う。Ebenda chap.19




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