ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化2




 フィシャー(Fisher)は、ジョン・ウェスレーを評して、「彼は内面的、宗教的平和の一探究者(a seeker for inward religious peace) であった」(註1)と言っているが、此の魂の平和こそ、ウェスレーをして、その神学を形成せしめた成因であった。此の平和は、「神からの平和、神のみがそれを与え得る、そして世の取り去り得ぬ、又、全ての理解力を超え、凡ての(殆どの)合理的概念を超える平和」(註2)であり、此の魂の平和は、潔からぬ心には存在せず、それ故に、其処に幸福はない(註3)。而して、此の幸福とは、彼にとって、「霊魂を造り給うた神との一致、父と子とに対して交わりを持つこと、一の霊に於いて主と結びつくこと」(註4)、即ち、神の意志に人間が服従し、それに一致する事に於いて成立し、神との結合及び神の心に於ける働きがおのずから伴う喜悦感情であり、此のウェスレーの神学的成因である魂の平和、即ち幸福は、カトリック的な、神をも人間の幸福のために用いんとする自己追求とは全然異るものである。而して、それは、彼の聖潔への希求と不可分離的に結合せられている。その事は前掲の彼の言葉によって明白である。潔き者にのみ平和と幸福がある。此の点に於いて、通常ウェスレーの特色がその聖潔の高調にあったと言われるのは正しい。さて、我々は、彼の回心と言う伝記的な経過を辿り、彼の信仰の本質を更に明瞭にし、本論に進んで行きたい。





(註1)G.P.Fisher ; “History of Christian Doctrine“ 2Edit. p.391
(註2)Wesley ; “Sermons on Several Occasions” vol.? p.63
(註3)何故なれば、潔からぬ者が幸福であるとは、事柄の本質上、不可能な事であるから。・・・その理由は明白である。潔からぬ心は不安な心であるから。 Ebenda vol.?p.404
(註4)Wesley ; ” A Plain Account of Christian Perfection” chap.6



↑この頁の先頭へ


←前頁へ  /  次頁へ→