ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化3




  17世紀の英国は清教主義(Puritanism)の全盛時代であり、道徳的緊張の時代であったが、18世紀の英国はそれに反して頽廃の時代であった。それは、清教主義の運動が「権利条例」(Bill of Right) の発令により、一応勝利を収めた事と、フランスのルイ14世の豪奢が影響した事にもよるのであるが、此の道徳的頽廃の18世紀初頭1703年、ジョン・ウェスレーは、父サムエル・ウェスレー、母スザンナとの間に生れた。両親とも、清教徒の家に育ったにも拘らず、国教会に転会した人々であった。而して、ウェスレーの後年に迄大きな影響を与えたのは母スザンナであったが、彼がその家庭に於いて、「厳格に教育せられ、注意深く教えられ」た事により受けたるものは、「神の凡ての戒めを守り、又、全的に服従する事によってのみ救われ得る」という事であった(註1)。而して、ウェスレーが国教会に育ったという事も見逃し得ない事実である。当時の国教会は理神論(Deism) と、アルミニアニズム(Arminianism) との深い影響を受けていたのであり、後者は後年のウェスレーのカルヴィニズムとの予定論論争に大きな影響を与えて居るのであるが、今我々は彼の回心を探究するに当り、差当り彼に対する理神論の影響を見ねばならない。

 理神論は、宗教的に緊張した17世紀英国の清教主義時代の後を受けて、其の緊張感の弛緩の結果、冷静なる思索を好むようになった英国を風靡(ふうび)せるものであり、教理史的に此れを見るならば、啓示と理性との対立を調和せんとするスコラ神学への類似を示すものであるが、理神論はスコラ神学とも異なり、理性をその唯一の根拠として神学を建設せんとするものであった。而して、種々其の内容は人により異なるのであるが、大体に於いて、唯一の人格的道徳的な神の存在を信じ、神は宇宙の創造者であるが、神と宇宙との関係は専ら創造に於いてのみ存することとなし、其の後、神は創造の際に定めたる自然法により宇宙を治め、人は理性、良心、自由を与えられたる人格的な存在であり、宗教の目的は、人間に一切の道徳的義務を実行せしむる事であるとなした。若きウェスレーが、此の理神論の影響を深く受けている事は疑いのない事のように思われる。その事は、1737年5月18日の彼の日記にあらわれている。「私は(そう信ずるのだが)此地に於いてなされた理神論への最初の回心を発見した。彼は暫くの間は、熱烈で模範的な宗教的人物の一人であった。併し、無邪気な(harmless)仲間の中で甘やかされていたけれども、彼はまず彼の熱心が破滅し、それから彼の信仰が破滅した。それからというもの、私は攻撃せられた数名の人々を発見した。けれども尚、彼等は彼等の立場を維持した。併し、私は、悪魔の使徒達は非常に勤勉であるから、彼等を二つの主張の間に長く止まらしめないだろうと思っている」(註2)。此処にウェスレーは自己を理神論の立場に置き(彼は無邪気な仲間にとって悪魔の使徒である)――「無邪気な仲間」――一種の熱情的な福音主義者のように思われるが――を嘲笑しているのである。

 最後に、ウェスレーの律法主義に影響を与えた今一つのものは、Jeremy Taylor の "Rules and Exercises of Holy Living and Dying"、Thomas á Kempis の"The Christian's Pattern"、William Law の "Christian Perfection" "Serious Call" 等の神秘的著作であり、此等によりてウェスレーは、「内的にも、外的にも、彼の力の限り、神の凡ての律法を守るための絶えざる熱心によって、彼が神から受け容れられるべきことと、またこの時にのみ救いの状態にあることを納得せしめられた」(註3)のであった。されば、回心以前のウェスレーは、幼き日よりの家庭の感化、理神論、及び上掲の神秘的著者達の影響により、彼の全心全霊を捧げて神の聖なる律法を遵守し、救われんとしたのである。併し、このウェスレーの律法主義的平和探究の効果は如何であったか。アメリカへの渡航途中、死の淵にのぞんだ時、それは救われ得るという慰めを何ら彼に与えなかったのであった(註4)。

 此のようなウェスレーの仲保者なき律法主義的信仰を福音主義に導いた一の原因は、アメリカに於ける彼自身への失望であった。それは彼の英国到着の頃1738年1月29日の日記によくあらわれている。「それ故、地の果てに於いて、私が学んだ事は次の事であった。即ち、私は神の栄光から落とされている。私の全心情は、全く腐敗し、嫌悪すべきである。従って私の全生活も。(何故なれば、悪き樹は善き果をむすぶことが出来ないから。)神の生命から遠ざけられているから、私は怒りの子、地獄の世嗣である。私自身の業、私自身の苦しみ、私自身の義は、怒り給える神に対して私を和解せしめる事、頭髪よりも多い私の罪に対して何らかの贖いをなす事、などはとても出来ない。・・・私の心情の中に死の宣告を持ち、又、私自身の中にも、私自身についても、弁護すべき何も持っていない。キリストに於いてある所の贖いを通して、自由に義とせられるそれを望む事を除いて、何等の希望をも持っていない。若し、私がたずねるならば、私はキリストを見出し、そして彼に於いて見出されるという希望以外、私は何らの希望をも持っていない。即ち、私自身の義を持たずして、キリストを信ずる信仰を通してのそれ、即ち、信仰による神からの義を持つことの希望以外」(註5)。この記事は後半に於いて、モラヴィヤンの宣教師スパンゲンベルク(Spangenberg) の強い影響を物語っているのであるが、ウェスレーを積極的に福音主義へと導いたものは、其の後の同じくモラヴィヤンの宣教師ピイタア・ベエラア(Peter Böhler)との交わりであった。理神論に立ち、己が義により魂の平和を得んとしていたウェスレーに、ベエラアは彼の哲学(理神論)を棄てん事を要求している(註6)。そして、ウェスレーは彼により、それによってのみ救われる、というところの信仰の欠乏を徹底的にさとらせられたのである(註7)。漸く、自己の業による救いの達成の不可能を徹底的に知ったウェスレーは、遂に1738年5月24日、アルダスゲイト街(Aldersgate-street) に於いて、福音的な回心をなしたのである。「夕方、私は非常に心進まぬながら、アルダスゲイト街に於ける集会に行った。其処で或人がルターのロマ書序文を読んでいた。9時15分前頃、彼が、神がキリストに於ける信仰を通して心の中に働き給う変化を述べつつあった間に、私は、私の心が不思議にも熟するのを感じた。私は、私が救いのために、キリスト、キリストのみに信頼したのを感じた。そして、彼が私の罪を、私の罪をさえ取り去り、私を罪と死との法から救い給うたという確信が与えられた」(註8)。而して、彼にとって、「心熟した」事実は、活けるキリストの彼自身になし給いたる客観的な事実であり、此れを歴史的に見るならば、ルターの回心と最も近き類似に立つものであることは、此の回心に至るまでの前述の如きウェスレーの体験を知る時に、誰人も否定し得ない事であろう。ウェスレーの回心は律法主義より福音主義への回心であり、彼の回心を、何らか他のものに理解することは許されない。併しながら、ルターの回心と非常な類似を示しながら、ウェスレーの場合には、ルターのそれよりも倫理的な色彩が濃いという事は見逃し得ない。神の怒りを免れ、神に対して平和を得ることと共に、その回心は罪を遁れて聖潔を得るという事に密接に結合せられている。それは、その日のそれに続く彼の記事に於いて明瞭である。「家に帰って後、私は非常な誘惑に攻撃せられた。併し、叫んだのでそれらは逃げ去った。それらは何回も何回も戻って来た。私が上を仰いだので、神は聖所から私に助けを送り給うた。そして此処に、私は此の状態と、以前の状態との間に主に存する相違を発見した。私は全力を以て、恩寵の下にある現在と同様に、律法の下にあって、励みつつ、然り、戦いつつあった。併し、其の時には、屡々でないにしても時々は征服せられた。今は、私は常に征服者である」(註9)。此れにより、ウェスレーの回心に於ける倫理的要素は明瞭ではあるが、併し、それ故に、ウェスレーの回心を、第二の賜物として彼が主張したところの完全(成人としての)への回心であるとするのは早計であろう。彼の回心に至る道程を知り、後に示す如き彼の深き罪観を知るならば、我々はそのような結論に傾くわけには行かない(註10)。此の点を最もよく示して呉れるものは、後に於ける彼のモラヴィヤンとの分離である。それには多くの理由が存する事であるが、その主なる一は、モラヴィヤンが、清浄なる心なき時には義認信仰が存在しないと主張したからである。それに対してウェスレーは信仰のみによる義認を説き、此処に両者は分離したのである(註11)。されば、ウェスレーの回心はその本質に於いて、飽くまで福音的なものであるという事は疑い得ないもののように思われる。併し、倫理的関心が、彼性来のものであった事と共に、彼の生きた時代の道徳的頽廃が彼を刺激し、ウェスレーはその神学の強調点を恩寵による倫理的聖化に持って行ったのであった。それ故に、ウェスレーの強烈な関心が飽くまで倫理的である事を理解する時に、我々は、一応彼の非福音主義的とされる神学の部分をも、その内奥に、彼の福音的な信仰の躍動しているのを理解出来るであろう。





(註1)Wesley’s Journal (Everyman’s Library) Vol.?p.96
(註2) Ebenda Vol.?p.48
(註3) Ebenda Vol.?p.98
(註4)此の方針に従って数年間を続けた後、死の近きを自ら懸念した時、此等凡てが、私に何等の慰めをも与えないという事、又、神に受け入れられるという何等の確信をも与えないという事を発見したのであった。Ebenda Vol.?p.98
(註5) Ebenda Vol.?p.76
(註6)この間中、私はピィタァ・ベェラァと多く話した。併し、私は彼を理解しなかった。そして就中、彼が「兄弟、兄弟、あなたのその哲学は取り去られねばならない」と言った時に。Ebenda Vol.?p.83
(註7)オックスフォードで、肋膜炎から回復しつつある弟に会った。そして彼とともに、ピィタァ・ベェラァがいた。偉大な神の御手の中にある彼によって、私は五日の日曜日に、明白に不信仰を確信させられた。それによってのみ我々が救われるところの、その信仰の欠乏を。Ebenda Vol.?p.84
(註8) Ebenda Vol.?p.102
(註9) Ebenda Vol.?p.102
(註10)ウェスレーの回心に続く次の記事は、此の事を示している。「然るに悪魔は恐怖を注入した。“若し汝が信ずるならば、何故もっと認め得るような変化がないのか”と。私は答えた。(否、私ではない)“私はそれを知らない。併し、次の事を私は知っている。即ち、私が現在、神との平和を持っているという事を。”Ebenda Vol.?p.102
(註11)あなた方の中、他の人々、即ち現在英国に居る人々(特にモルター氏)が次のように主張するのを私は聞いた。弱き信仰というような信仰は存在しない。信仰には何らの段階もない。未だ何らかの疑惑があるところには義認信仰はない。信仰の充分さ、又、明白な聖霊の住み給う証しのないところに義認信仰はない。又、充分な、本来の意味に於いて、新しい、又、清い心のない所には義認信仰はない。そして、此等の二つの賜物を持っていない人々は単に目覚まされたのであり、義認せられてはいない、と。Ebenda Vol.?p.328
“弱い信仰は信仰ではない”という此の主張に対して、ウェスレーは次のように答えている。「然しながら、弱い信仰も信仰であるということは、次の引例に明白に表われている。(一)聖パウロ“信仰の弱き者を容れる”(二)聖ヨハネは、若者又父たちと同様に小さき児たちであるところの信者について語っている。(三)主自身の御言葉“汝、何で恐るるか、信仰うすき者よ”“ああ、信仰うすき者よ、何で疑うか”“我、汝(ペテロ)のために、その信仰の失せぬように祈りたり。”それ故に、其の時ペテロは信仰を持っていたのである」Ebenda Vol.?p.276




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