ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化5




 併しながら、ウェスレーが、此の罪を肉と同一視したものの如く、言わば、其処に於いてウェスレーが、霊魂と肉体との二元論的思惟に陥り、肉体其のものが罪であると見たとする如き、彼の罪観に対しての一抹の不安がなくはない。例えば、彼の「新生」(The New Birth) と言う説教に於いて、彼は人間の罪を感覚的欲望と同一視しているからである(註1)。併しながら、此の疑惑は、「基督者の完全」の中に於ける、彼の完全なるキリスト者の生活の叙述に於いて、如何に彼が禁欲主義から離れていたかを読む者には直ちに氷解するであろう(註2)。併し、ウェスレーに於ける罪と肉体との関係は、後に論ずる彼の聖化、特に完全の主張と密接に関係を有するが故に、我々は更に此の問題を取り上げて見たい。

 前述せる如く、創造に於ける人間は、神の真理を、眼が光を見る如く、直接に見、神の義と聖とに歩んでいたのであるが、アダムの堕落の結果、先ず罪は肉体に宿るものとなり、「朽ちざる肉体は朽つるものとなった。それ以来、肉は魂に対して妨害物となり、そしてその働きを妨げる。以後、現在に於いても、人の子は誰でも常に明白に理解し得ず、又、正しく判断し得ない」(註3)。此処に、人間は神の意志を知る上に於いて誤謬を犯すようになった。「そして、判断と理解に於いて誤っているところに於いては、正しく理路を辿ることは不可能である。それ故に、人が誤謬を犯すことは呼吸する如くに自然である」(註4)。併し、ウェスレーによれば、かくの如き判断における誤謬より来る人間の過失は、キリストの血の贖いを要するものではあるが、――何故ならば、終末的な全き救いに於いては、その過失もなくなり、人間は全く神の意志と一致し得るのであり、そのように人間の体を回復するのは、キリストの血の贖いであるから、――併し、罪とは呼ばれなかった。この事実は非常に重要である。というのは、後述する如き、ウェスレーに於ける罪なき成人の完全とは、以上のような人間の過失は此れを許容し、完全者といえども肉体に於いて生くる限り、此等の過失を免れ得ないとしているからである。このような肉の魂に対する妨害は、人間が神より離れたる結果であった。彼によれば、罪とは、神の意志に対する人間の意志的な反抗であった。「過失、及び、朽ち易き肉の状態から必然的に由来する如何なる欠点があろうが、決して愛に反していない。それ故に、又、聖書的意味に於いて、罪ではない」(註5)。それ故に、彼は、罪を最も聖書的に、人間の意志の問題として取扱っているのである。彼は、パウロに倣って、罪を飽くまでも意志の問題としつつも、人間の罪と肉とが、経験上に於いては、一なるかの如くに現れることを理解していたのであろう。以上に於いて、我々は、ウェスレーの罪観の深さを知り得たであろう。彼の罪観が浅薄なりとなすのは、主に、彼の完全の教義によって彼の罪観をも覗わんとするより発する誤謬であり、我々は逆に、彼の罪観の深さの把握より出発しなければならない。





(註1)「かくて人は、それなくして神の像が生存し得ないところの神の知識と愛との両者を失ってしまった。それ故に、人は同時に両者を奪われ、そして、不幸であると共に不潔になった。これに代わって、人は、誇りと自己追求、即ち悪魔そのものの像の中に沈んで行った。そして、感覚的な肉欲と欲望との中に、滅ぶべき獣の像の中に沈み入った。・・・此れに反して、世に生まれ出ずる凡ての人は、誇りと自己追求とに於いて、悪魔の像を誉っている。感覚的な肉欲と欲望とに於いて、獣の像を誉っている」Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.401
(註2)其の例として、結婚及び世俗的な事業に関する彼の言葉をあげる。
「それ故に、我々は、愛に於いて完了せられたる者は、結婚する事が不可能であろうとか、又、世俗的な事業に携わる事が出来ないとは言えない。若しも、彼が世俗的な事業に召されるならば、かつてよりも、より有能であろう」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.19
(註3)Ebenda chap.25
(註4)Ebenda chap.25
(註5)Ebenda chap.19




↑この頁の先頭へ


←前頁へ  /  次頁へ→