野呂芳男「人間論」0

 ここに我々はキリスト教の理解する人間について考えようとするのであるが、何よりもまず問題になるのは、一体キリスト教に固有な人間についての理解、マルキシズムの歴史的唯物論やフロイド流の深層心理学などによる人間理解と同じ平面で主張され、これらの人間理解と互角に争い、その存在の権利を主張しなければならないキリスト教の人間理解というようなものはあるのだろうか、ということである。

 マルキシズムやフロイド流の深層心理学などと互角に争う一つの人間理解であるなら、それは我々の考えるキリスト教の人間理解とは違う。と言うのは、我々の見るところでは、これらの人間理解は、人間全体を把握して表現したものとは思えないからである。もちろん、これらの理解をもつ人々は、自分たちの立場こそ人間全体を把握したものであると言うであろう。しかし、そういう主張と我々は争う必要はない。彼らと一緒に、人聞理解の旅を行けるところまで行くのである。そうすると、彼らは止まっても我々は更に先の方に行かねばならないことが明らかになる。次のように言ってもよいであろう。キリスト教の人聞理解は、これらの社会科学や心理学の主張する人間理解を内に含むことができるが、それらよりもっと全体的なものである。人間を深みにたとえるならば、これらの人間理解が沈んで行った深みよりも、キリスト教の人間理解の方がもっと深いのである。そして、一番深いところに到達した者は、そこまで来ることのできなかった者たちの、あせりや欲求不満や、もっと深いところを知らないところからくる倣慢や、自分たちの到達したところが一番深いところであると信じこんでいる錯覚からくる誤りなどを、実に良く知ることができるのである。そういう意味で、キリスト教の人間理解はその他の人間理解に対する良き同情者・理解者であることができ、それらの誤り(病気)をいやすもの、救う者でなければならないであろう。

 次に、キリスト教の人間理解は、当然のことながらキリストによる神の啓示に根拠を置く。後に述べるところの人間の罪の状態にも関係するし、また人間が神に造られた者、すなわち被造者であるということにも関係するのであるが、自然のままでは人間は神を知らない。この場合、「知る」というのは思弁的な知識の意味ではなく、人格的に知るということ、交わりつをもつということであるが、人間はキリストを通してほじめて神を知るのである。そして、我々の主張は、人間がキリストを通して神を知るようになった時、彼は真に生きはじめる、自分自身を深みから理解するようになり、たどたどしい歩みであろうとも、とにかく、人間としてのあるべき姿に到達するための道を歩き始めるのである、というにある。したがって、神の理解と人間の理解とは、相互に有機的関連をもたないかのごとく、別々になされてはならない。実のところ、両者は同時になされなければならないのである。それゆえ、ここに人間の理解を主に論じるとしても、それは論述のための便宜からそうするのであって、神の理解を絶えず考慮しつつなしているのである。




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