野呂芳男「人間論」1

1 被造者としての人間

 新約聖書の人間理解が、旧約聖書のそれを前提としていることは言うまでもないであろう。創世記第一章および第二章にある天地創造の物語によると、神はその意志と力によってあらゆるものを造られたあと、被造物の冠とも言うべき人間を造られた。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)。そして、人間は神から、自分より低い存在――「海の魚と空の鳥と、地に動くすべての生き物」(2:28)――を支配する権利と義務とを与えられたのである。また、神がご自分の「造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(2:31)のである。

 人間を含めてのこの天地創造の物語を、人間に関する生物学的・人類学的・心理学的記述として考えたり、天地創造に関する自然科学的見解の記述として考えることを、我々はやめなけれぱならない。この聖書の記事と今日の科学知識との矛盾や衝突を言うことをやめて、聖書がそのために本来書かれたその目的を、この記事から聞きとらなければならない。その目的とは、我々に信仰を与えること、我々を神との交わりの中に入らしめることなのである。

 そういう角度からだけこの記事も理解しようとする時に、第一に考えなければならないことは、人間が制限をもった存在であるということである。神と比較して人間が、知識や能力や才能において制限されていることはもちろんであるが、それよりも、人間は交わりの中でしかほんとうには生きられないという仕方で、根本的にその全存在を制限されているのである。

 人間が孤立して生きてはならないし、それでは深く人間らしく生きられない存在、交わりを意図されている存在であるということは、そのしるしを端的に男・女という性別の中にもっている。「また主なる神は言われた、
人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(3:18)。この目的のために神
は、男から女を造った、と創世記は我々に告げている。『失楽園』の詩人ジョン・ミルトンがこの聖句から洞察したように、結婚や性愛の目的は、実に人聞が孤立から解放されるというところにあるのである。(1) 男は自分の女に出会うことにより、真の自分を発見し、それになって行く道を歩み出すのであり、女もまたそうなのである。マルチン・ブーバーの有名な基本語を用いるならば、「我」は「汝」に出会うことにより「我」になって行く。(2) また、異性間の結婚や性愛でなくても、我々は類似の孤立からの解放を友情の中にも発見し得るのである。

 ところが、人間は異性の「汝」を発見したところで、また、友人を発見したところで、根元的な孤立や孤独の淋しさからは解放されない。人間の求める孤立からの解放は、「汝」としての人間では最後的に満足させられず、人間を越えて絶対者に向かって行かざるを得ない。

 それゆえに我々は、男女間の愛を、それ以上のものを指し示すしるしとして指摘したのであった。男女間の愛は、絶対者と人間との関係を、――人間が人間性を成就するために交わりの必要を持っ存在であるという観点から見る限り、――指し示すしるしなのである。

 ここで論じられている絶対者は、哲学的思弁が問題にするような絶対者ではなく、絶対の愛を人間に注ぐ存在の意味である。神はこのような絶対愛の存在として、ご自分をイエス・キリストを通して人間に啓示された。人間が自分でも気付かないでいるかも知れない自分の最も深い欲求、こちらが裏切っても向こうはこちらを裏切らないような愛をもって「汝」と交わりたいという欲求は、実にイエス・キリストを通してご自分を啓示される神を信じることにより、根元的に成就されるのである。

 このように人間が神の被造者であることは、絶対の愛を示される神との交わりの中にしかほんとうに人間らしく生きられないという制限を意昧するのであるが、しかし実際には、神を知らない人間は、疥癬をかきむしる人のように、孤独の淋しさをほんとうにはいやすことのできないものによって解決しようとあせり、絶対の愛を周囲の人々から求めることによりますます深い孤立の中に落ち込んで行く。こういう状態こそ聖書の言う偶像崇拝でなくてなんであろう。偶像崇拝とは、神からしか期待してはならないものを、神でないものから期待する人間の心の姿勢を言うのである。

 第二に人間が被造者であるということとの関連で取り上げられなけれぱならないのは、人間における神の像の問題である。前にもあげた創世記の言葉、「神は自分のかたちに人を創造された」が、神の像をめぐる神学の議論を引き起こしたのであるが、神学の議論において問題になるのは、直接的には聖書のこの記事の著者が「神のかたち」によって実際何を言おうとしたかではない。そのことについても多くの解釈がなされているようであるけれども、神の像に関する神学の議論は、他の被造物と異なって特別に人間にだけ、神がご自分の像をお与えになったとすると、人間が他の被造物に比べて特にすぐれている点、その神の像とは、具体的に言って人間の中の何なのであるかということをめぐって展開されてきたのである。

 大体において初代教会の教会教父たちは、それが人間の理性であると主張した。人間が道徳的に責任をもつ存在であるのは、人間が事柄を考えたり、反省したりして判断し決断するからである。すなわち、人間が理性的動物であるからであり、この能力によって人間は他の被造物よりすぐれており、独特な存在なのである。神の像をめぐる神学の議論が、我々の信仰にとって重要なのは、それに関する一つ一つの意見が、神と人間との交わりの性格を、一つ一つ別の色彩で色どるからである。例えば、教会教父たちの理性主義的な人間理解、人間の一番重要な能力を理性であるとする見解は、当然交わりの相手である神にとっても理性が最重要な属性であるとするようになる。この理性主義には、もちろん、フラトンやアリストテレスの哲学の影響があった。プラトンのイデアの世界にしても、アリストテレスの自らは少しも動かずして他を動かす存在にしても、教会教父たちの理性主義と軌を一にするものである。理性主義的な神理解および人間理解は、動よりも静を好み、実践よりも瞑想を好むような信仰のあり方を生む。この世の泥沼のような汚濁の中にとびこんで、人々の魂を愛し、人々の生活の向上をはかるよりかは、それから外に出て天国を夢見ることを好むのである。こういう理性主義的な人間理解が、中世の修道院の理想と結び付いていることほ、それ以上言わずとも明瞭であろう。

 人間の特質としても神の属性としても理性が重要なものであることはもちろんであるが、理性主義はそれが神や人間の本質としたところが間違っていた。それはキリストにおいて人間にご自身を啓示される神の本質、また、それから理解される人間の本質としては物足らない。人問の救いのために十字架の死をとげられたキリストを通してご自分を啓示される神は、愛こそその本質でなければならない。また、キリストを信ずる者は、そういう愛の神と交わるところにのみ、本来的な人間の姿が回復されてくることを告白している。人間の生の土台が愛であることを確認する時に、我々はこの世の外に出るところに人間の清さを求める訳には行かない。むしろ、人間の清さはこの世のよごれの内にとどまりっっも、人を愛し抜くその愛の情熱の強度以外の何ものでもないであろう。

 ラインホルト・ニ−バ−は人間のもつ神の像を、有限の自由 finite freedom であると理解する。(3) 人間は周囲の歴史的環境から、ある程度ではあるけれども、超越している。すなわち、環境によって全くは支配されておらず、それを人間はある程度支配し得る。ニーバーによれば、完全に歴史的環境を支配し得る自由をもつのは神のみであり人間の自由は有限である。有限ではあるけれどもこの自由のお蔭で、人問はある程度時間の流れをも超越している。いわば時間の流れから少し頭を出して、過去を見たり将来を予想したりすることができるのである。現在の中にありながら、記億の中に遇去を、希望の中に未来を所有しているのであり、未来の希望を実現するためには、現在何をどういう方法でなすべきかを、記憶の中に保存されている過去の個人あるいは集団の体験から学ぼうとする。このようにして新しい未来を創作しつつ人問は、その自由を行使するのである。したがってニーバーにおいては、人問における神の像は、人間の歴史創作性と密着する。

 人間における神の像についてのニーバーの理解を紹介しているうちに、我々は人間の自由に関する彼の理解についても述べざるを得なかった。そして、彼のこの点での理解は正しいものであると思うのである。聖書においても、他の被造物から区別されたものとして、人間は神から律法を与えられ、それを守るように要求されている。これはもちろん、ニーバーの言う有限の自由が人間に存在するからであって、それがなければ神の律法の要求は意昧を失う。人間に対する神の忍耐と愛も.強制によってではなく人間が自由に神のところへ帰ってくるのを神が待っておられることの表現なのである。神と人間との関係が、自由なる人格的な両者の交わりと考えられる以上は、これは当然である。

 しかし、ここにニーバーに賛成しながら我々が展開してぎた人間の自由は、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)とパウロが言う場合の自由とはことなる。ここに、パウロが言うのは、罪への奴隷状態から解放された自由、すなわち、罪からの自由である。仮にニコラス・べルジァーエフにならって(4)、ニーバーとの関連で我々が論じて来たものを第一の自由、ここで言うものを、第二の自由と呼ぶならば、人間が第一の自由を行使してキリストを信じて第二の自由の状態に入るのであるから、両者は密接不離であるけれども、第一の自由は人間の決断を指し、第二の自由はそれによって生じた状態であるという意味で、両者は一応区別された方がよいであろう。

 ところで我々は、ニーバーの人間の有限の自由および創作性としての神の像の理解に戻らなけれぱならないのであるが、既に述べたところから推測されるように、我々は彼の立場に対して強い親近惑を覚えている。しかし、神が歴史に対して自由に創造的であるのは神が愛であるからであり、それに呼応して、人間の有眼の自由による歴史創作も、愛から出たものでなければならない。キリストによって啓示された神の愛に根差さない創作性は、悪魔的なものになりかねない。その点でニーバーの神の像の理解は不十分であると言わざるを得ない。

 次に考慮しなけ’れぱならないのほ、エミール・ブルンナーの理解であろう。周知のカール・バルトとの自然神学論争を経過した後、ブルンナーは人問における神の像を、神に対する人間の応答性(Verantwortlichkeit)として理解する。アダムの堕罪前に人間がもっていた神の像は、実質としてはアダムの堕罪によりすベての人間から失われてしまったが、それは形式としてはすべての人間の中に残っているのであって、これがなければ、人間は人間であることをやめる程に人間存在にとって中心的なものであるが、それは神に対しての人間の応答性なのである。この応答性のゆえに、人間はどこにいようとも何をしようとも、意識的にか意識下の領域での苦悩や想像においてか、神の前に罪責感を持たざるを得ないのである。ブルルンナーはこのような仕方で、人間がキリストを信じて神との交わりに入る前にも、何らかの形で、人間と神との自然的な関係を肯定しようとするのであるが、我々がブルンナーの神の像の理解において疑問に思うのは、彼の人間と神との自然的な関係が、神の怒りや審きに偏していることなのである。ブルンナーはルターの隠されたる神(Deus absconditus)の思想に言及しながら、キリストにおいて啓示される神を愛とし、キリストの外において人間と出会う神を怒りとしているけれども(7)、こういう思索がこの神の像の理解にもその片鱗を見せている。しかし、神と人間との自然的な関係においても、何よりもまず愛が土台になっていることを我々は主張しなければならない。

 キリストにおいてご自分を愛として啓示される神は、キリストの外においても愛なのであり、ブルンナーのような神の愛と神の怒りとの断絶を極力排斥しているのはカール・バルトであるが、それは言うまでもなくバルトの神学的思索がすべてをキリストにおける啓示から理解しょうとするからである。(8)

現代の神学史上あまりにも有名になってしまった自然神学に関するバルトとブルンナーの論争で明瞭であるように、バルトによれば、アダムの堕罪によって人間における神の像は――少なくとも、神に対して人間がか積極的に働きかけ得る能力とか結合点とかいう意昧においては――完全に破壊された。人聞を神に結合させるようなものほ、もはや何ものも人間の中に残存していないのである。(バルトのこういう主張が、神の恵みの主権、人間の救いは全く神の恵みのみによるのであり、人間の側からは神に近づくことはどんなにわずかでもあり得ないという事実の確認を意図していることはもちろんである。

 信仰のみによって義とされるという.フロテスタンティズムの原理をバルトが守り抜こうとするのに対して我々は、深い敬意を払わざるを得ないのであるが、バルトのように人間における神の像を少なくとも上述の意味では完全に否定し、人間の側から神の方へ向かって歩み出すという事実を少しも認めない時には、キリストの外なる自然的な神と人間との関係を、人間がキリストによらないでも神を求めざるを得ず、それを求めて苦悩しつつある存在であるという事情のもつ積極的な意昧を、少しも認めないことである。こういう事情を認めない場合には、キリストを信じることがもはや、人間らしい出来事であることを止め、キリストによる啓示という石が上から落下し、たまたま犬にあたって犬が驚いたというのと、実質的に変わりがなくなってしまう。我々はブルンナーが、人間における神の像を実質と形式とに区別したことに対して、その作為性を感じ取り同感できないのであるが、――実質と形式の区別が不明瞭であるし、両者は分けられるものではないであろう――しかし、ブルンナーが応答性によって意図したものには賛成するものである。

 我々はブルンナーの意図したものを、真実の愛を求めざるを得ない人間の自由として理解したいのである。こで言う「自由」は、前述したところのへルジャーエフの第一の自由であるが、人間らしく神を信じるということは、自分が真に生かされるのは、キリストによってご自分を啓示される神の愛を信じ、それを土台にして生きる時だけであるということを、いろいろな人生の体験、自分をほんとうの深みから生かしてくれるものは何であるかを探し求め悩み抜く自由の体験を通ってきたものなのである。否、通ってきたという過去だけに支えられて神ヘの信仰というものは存在するものではない。そういう体験は今も続いているのであり、信仰とはそういう模索の体験の中で、神を信じることだけが自分をほんとうに生かしてくれるのだということヘの自由の決断の中でのみ存続し得るのである。

 そうすると、バルトが人間における神の像を上述の意味で全く否定し去った時の真理契機はどうなるのであろうか。と言うのは、確かにバルトの主張するように我々プロテスタントは、自分たちの救いが全く神の恵のみによって成就されるものであると信じ、それを告白している。バルトの誤りと我々が考えるのは、神の自由と人間の自由との出会いや交錯を、同一平面上の物体の衝突のように考えて、一方が前面に出てきた場合には、もう一方は退かねばならないとしたところである。人格的なもの同志の愛の出会いや交錯は、そういう事情とはことなり、相手を積極的に愛するというその姿勢の中で、自分は全く受動的に相手の愛のとりこにされたとの実感をもち得るのである。神の恵みと人間の第一の自由とは、こういう逆説的な体験であるが、逆説とは、表面上論理的に矛盾するものが、我々の体験の深みにおいては、相互に矛盾せず調和していることを言うのである。

 これまで論じてきたことを通して、人聞における神の像に関する我々の理解が、神への愛であることは明らかであろう。神の像を神ヘの愛と理解する時に、人間が究極的な存在者たる神との交わりを求める存在であること、人間が自由なる存在であること、神の像が人間存在全体にかかわるものであることなどの真理を、十分に取り入れることができるのである。





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