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『慈子(あつこ)』の思い出

 

 野呂 芳男


初出: 『黎明』創刊号、松鶴亭出版部、1995年。
※ このテキストは、
Webサイト 「作家秦恒平の文学と生活」   (e-literary Magazine 湖、第6巻「人と思想」
に電子テキスト化されているものを、秦氏のご好意により転載させていただきました。なお、秦恒平氏の作品の多くは、通常の書籍で読める他、同サイトで公開されており、小説 『慈(あつ)子』 も、同サイト中の『電子版・湖(うみ)の本』第9巻に収められています。





        
1 愛について
2 輪廻転生について






 誰の人生にも鬱屈してどうしようもない時期というものがある。そんな時期が私にも幾つかあったが、『慈子』と出会ったのはそんな時期、私が苦しみ抜いていた頃であった。今から振り返ってみると、その時期は私にとって、キリスト教以外の宗教性、特に日本の宗教性に深く目覚めてゆく苦闘の時期であった。それ迄は、他の宗教に興味を覚えて、知る努力はしてみたものの、それを自分のキリスト教信仰と深く関わるものとしては取り上げてこなかったように思う。排他的にキリスト教に沈潜していたのだ。

 『慈子』は秦恒平さんの初期の作品である。確か『みごもりの湖』を書店で見つけ、何となくその題名に魅せられ、二、三頁立ち読みして面白くなり買って帰ったのが秦さんの作品に出会った最初であった。主人公の恋人である女性の描写、またその母親がシャーマンであったことなど、それに主人公である青年の結婚や恋愛に対する態度が、更にそれらを通して伝わってくる秦さんの人生への真摯な態度が強く私の心を揺さぶったので、私は秦さんの他の作品も読みたくなった。そして、見つけて買い求めた二、三の作品の中に『慈子』が入っていた。これは私の目で見ると、『みごもりの湖』よりも更に宗教的な作品であるが、今もって私は秦さんの作品の中ではこれら初期の二冊が一番気に入っている。秦さんには沢山の立派なエッセイがあり、小説にも客観的に見ればこれら二冊よりも優れた作品がまだあるのかも知れないが、私が特に気に入っているのは、矢張りこれら二冊なのである。

 もうお分かりのように、私のこのエッセイは秦さんの作品に対する評論などでは全くなく、秦さんには迷惑かも知れないが、この小説との出会いを、この小説が私の中に呼び覚ましてくれたものを、書き連ねてみたいのである。溺愛した人間の妄想と見て下さっても良い。ところで妄想家の常なのかも知れないが、正直言って(失礼を顧みず書いてしまうが)このような小説を書く秦さんという作家がどのような人物であるかには、当時の私は余り興味を覚えなかった。それ故に、秦さんの家を訪ねたのは、ただ彼の作品を手に入れたかったからであった。当時手に入る作品の題名を教えて貰いたかったし、また、秦さんの手もとにあるもので買い求めることができるものがあれば有り難いと思って、見ず知らずの作家に会うのはしんどいと感じながらも、勇気を出して私は秦さんに連絡したのだった。

 今でも私は、秦さんが作品の中で表現しようとしたものを、自分が忠実に汲み取っているかどうかには甚だ自信がなく、作品と私との出会いが作り出す世界にどっぷり漬かってしまっているのだろうと思う。そんな私が秦さんの家を最初にお訪ねしたのは昭和五十二年(一九七七年)十二月十三日のことであった。こんなに訪問の日がはっきりしているのは、秦さんがご自分の数えで五十歳の時に私にも贈って下さった、珠心書肆発行『.四度の瀧』に添付されている「自筆年譜」のお蔭である。ルーズな私が記憶していたものではない。お家にはその後も屡々お邪魔させて戴いたし、学生たちを連れて行った楽しい思い出もある。最初の訪問以来ずっとお交わりをいただいて、どんなに私の心の生活が豊かになったことか。私にとって大変に貴重なこの交わりに対し、この機会に厚く御礼申し上げたい。

 最初に秦さんのお宅にお邪魔したのは立教大学での授業を終えてからであったから、確か午後遅くであった。教えられた通りに西武池袋線の保谷駅で下りてお宅に電話したところ、お嬢さんの朝日子さんを途中まで迎えに出して下さるとのことであった。こちらの服装などをお教えして歩いて行く途中で、高校生の服装の朝日子さんに笑顔で迎えられ、御宅に導かれた。後で知ったことであるが、当時朝日子さんはお茶の水女子高校の二年生であった。その日は、数冊の書物を譲って戴いて早々に帰ろうとしたところ、秦さんや奥さんの迪子さんに引き止められて、とても美味しい蕎麦をご馳走になってしまった。なにもかも満ち足りた思いで私は家に帰ってきた。

 数年経ってからのことであったが、秦さんの用件で朝日子さんが私の家に来られた折りに、(朝日子さんらしく、話題に上ぼせる方の人権やプライバシーを損なわないように配慮して、遠慮がちにではあったが)ある青年のことを語ってくれた。勿論、青年の名前も年齢も職業も、朝日子さんは私に告げはしなかった。その青年には妻があるが、同時にもう一人の女性を愛していた。そして、自分の行動の正当化のために秦さんの『慈子』を持ち出していた。明らかに朝日子さんは、自分の愛する父の作品がそのような仕方で用いられるのが辛かったのだ。

 その折りに、私は殆ど何も『慈子』を弁蔑するような事がらを朝日子さんに語ることができなかった。言うべきことはとても重い事がらであり、秦さんは恐らく本能的に、そのように利用されるかも知れない怖れを持ちながら、それでも書かない訳には行かなくて『慈子』を書いたのだろう。それ故に、私の簡単な弁解は却って秦さんに失礼になるだろうと思ったからだった。




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1 愛について


 『慈子』は昭和四十七年(一九七二年)に筑摩書房から単行本で出版されたが、その原形に当たるものが『斎王譜』という題名で星野書店から私家版で昭和四十一年(一九六六年)に出ている。また、その前昭和三十九年(一九六四年)には『畜生塚・此の世』も私家版で出されている。ここにある畜生塚というのは京都などに見られる、一人の男性と二人の女性などが一緒に埋められている古くから見られる墓のことであり、同時に複数の女性を愛した男が、世間から畜生道を生きたと評価された事実を物語っている。長い間著者の心の中で発酵してきたこの『畜生塚』の主題が、『慈子』の中で大きく取り上げられたとも言えるだろう。

 『慈子』を読まれた方は既にご存じであるが、主人公・当尾(とおの)宏は高校二年の時に、九歳であった慈子と泉涌寺の脇にある来迎院の前で運命的に出会う。やがて宏は慈子の住む来迎院へ屡々遊びに行くようになり、慈子の父・朱雀光之や、一緒に住む淀屋利根とも親しくなる。彼らの住む来迎院の「来迎」は、浄土系の仏教でよく使われる言葉であり、私たちの死の際に阿弥陀仏が菩薩たちを引き連れて迎えに来て下さることを意味するし、慈子の「慈」も、衆生を救う阿弥陀仏の慈悲を表すものなのかもしれない。宏は来迎院の人々との交わりを自分の家の者たちにも、その他の人々にもひた隠しに隠すが、それは来迎院が宏にとってイデアルな世界であり、リアルな世界の目に晒せば来迎院が形作っている理想の世界が汚されるように感じているからである。やがて大学を出て結婚し東京で就職した宏は、京都の大学で勉強している慈子との交わりを尚も続け、リアルな結婚生活とイデアルな慈子との交わりとを峻別し続けてゆく。

 慈子の父光之が他界した後のことになるが、光之が兼好の『徒然草』を好み、それに独特の解釈を加えていたことに気づいていた宏は、自分も兼好の世界に深く入り込んで行くようになり、光之の解釈を自分の心の中で再現しようと努める。そして、そのようにして作られて行く自分の解釈を大学生の慈子にその都度報告して行く。光之の跡を辿った宏の解釈によると、兼好が『徒然草』を書き始めたのは、彼に「魂の眼」が開けてからであった。兼好はかってある貴族の従者であったが、主人が恋人を訪ねる時には主人に付いて行き、主人が帰るまで門の外で、中を覗き見しながら待っていなければならなかった。主人が中で何をしているかを想像したり、帰りに送るために玄関に出てくる女性の動作から、その女性、また、その女性と主人との関係を憶測したりする物欲しげな「従者の眼」では、女を愛することの真実は見えてこない。ところが、主人が訪ねる女性の、主筋に当たる斎王を兼好は秘かに愛するようになって愛の真実に目覚め、彼にも「魂の眼」が開けたのである。

 「魂の眼」によってしか見えてこない世界はそれ自体で充足していて、「従者の眼」で見られた世界からの補足や正当化を必要としない。自分が本当に愛することを体験するならば、それが世間的に見て正しいかどうかは『慈子』の世界ではどうでも良いことなのであり、「従者の眼」の介入をかたくなに拒む。慈子の母であった肇子(はつこ)は、房総の勝浦で慈子を産んで間もなく自殺したのだが、訪ねてきていた親友で従姉妹に当たるお利根さんに慈子のことを託した遺書を残して逝った。慈子の父光之と肇子とは兄妹として育てられたのだが、実は従兄妹であった。そのことを知っていたお利根さんが、ある時それを二人に話してしまったために、仲良しの兄妹であった二人の間に男女の愛が目覚め、肇子は身ごもってしまった。二人が父に告白した時、父は二人を畜生呼ぱわりし、仲は裂かれ、肇子は秘かに出産するために房総の海岸に追いやられて死んで逝ったのだ。世間的には畜生道を歩んだ二人であったが、肇子の遺書には自分が幸福であることが縷々と綴られていた。光之はやがて慈子を連れて来迎院の閑職に追いやられた。事がらの成り行きに責任を感じていたと同時に光之を愛してもいたお利根さんは、家出をして光之と同棲するようになった。

 勝浦の海岸近くの別荘で死んで逝った肇子には、大地母神のイメージを、洋の東西を問わず大地や海で象徴される母神のイメージを、どうも私は重ね合わせてしまう。「肇」という字には「はじめる」という意味があるけれども、宇宙の初め、あるいは、根源である母神的なものを、作者は彼女によって象徴したのかも知れない。彼女からは、自分の死も怖れずに、命を連綿と伝えてゆく女性のやさしさと強さとが感じ取れる。彼女は光之を愛したことを恥じてなどおらず、自分はそれで本当に幸福であったと堂々と告白し、慈子を二人の罪の結晶だなどとは全く考えていない。このように肇子は、『慈子』という小説の持つ受け身の宗教性、母神的で女性的な、受動性の強さを象徴しているのだが、お利根さんが慈子に語ったところによると、自殺の前の晩に肇子はお利根さんにしみじみと話した。


 あの方、(慈子の)お父様のことですが、あの方と自分(肇子)とは兄妹でも従兄妹でもあり、また恋人同士で夫婦でさえあったのだけれども、今、こうして私たちの娘の顔をのぞき、遠くを流れる潮の響きを聞いていると、こういういろんな現在での関係とはまるで違った遠い昔からのはからいというか、血でも約束でもない結ばれの深さが感じられて、あふれそうな恋しさ慕わしさもその深みに戻って直接に感じる時、ああこの世のことなんか何だっていいんだ、自分は一番いいことをしてきたのだ、あの方とは絶対に一つなのだと信じないではおれない、と──。
 私(利根)は運命ということを仰言るのだと思いました。けれど、運命という言葉に寄せてあんなに誇らしげでお嬉しそうな確信が語れるものでしょうか。


 お利根さんが語るこの肇子の言葉には、彼女の魂の眼で見られた運命の世界が、従者の眼で自分たちを見て、畜生呼ぱわりしかしてくれなかったこの世と断絶したものとして語られている。この世の血縁関係や夫婦というような約束ごとは、潮の響きがささやいてくれる遠い昔、生まれる前からの運命のはからいや配慮の前に、跡形もなく消え失せてしまう。

 慈子にその母のことをこのように話してくれたお利根さんも、慈子が大学を出て一応独立した時に、自分の運命に従って光之と肇子の後を追って自殺する。慈子には、自分たち三人のような歩みをせずに世間並の幸福な人生を歩むようにと言い残して、自分たちの運命は自分までで終わりにすることを願っての自殺であった。慈子は、素直に母と呼べるこのお利根さんを、父の眠る墓に葬った。実際には三人一緒に埋められていなかったとしても、理念的には畜生塚がまた一つここにでき上がったのだ。

 このような運命を見詰める魂の眼が人間に開かれるのは直感によるという外はない。それはキリスト者が啓示体験と呼ぶような出来事であろう。ある時に突然、現実を別の角度から見ている自分、現実の諸事件の只中で、それらの事件の奥底を流れる別の次元、別の世界に気づいている自分を見いだすのである。キリスト教ではこれを信仰への目覚めとするが、秦さんの書いている魂の開眼はこのように宗教的なものであろう。

 これ迄の歴史を検討すれぱ分かるように、社会道徳は時代によって変遷してきた。性や結婚に関する社会道徳も例外ではなかった。一夫多妻の時代もあったし、女性のところに男たちが通った時代もあった。イエスの母マリアが処女で身ごもったという、新約聖書の処女懐胎の伝説は、当時イエスの生まれた地域では、婚約したがまだ結婚していない者たちの間に生まれた子供は、処女から生まれたと言われていたところにその根拠がある、と多くの学者たちは考えている。もしそうであるとすれば、今日でもカトリック教会が公には順守を信者に命じている性道徳、またプロテスタントでもピューリタンたちによって守られたり、ビクトリア朝のイギリス人たちがうわべだけであったかもしれないが標榜していたキリスト教的道徳、すなわち、結婚するまでは性関係に入ってはならないという道徳は、イエスの両親によって破られていたことになってしまう。

 昔の話になってしまったが、学問的に聖書の勉強を深くされたある熱心なキリスト者の方から、私はその令嬢の結婚式の司会を頼まれたことがあった。プロテスタントでは教派によって式のやり方はさまざまであるが、通常結婚式には聖書の中からイエスの結婚に関する言葉を読み、結婚する二人からその言葉に基づいた誓約をして貰うことになっている。ところが、その方は誓約の言葉から、離婚してはならないという部分を取り去って貰えないか、と私に頼みこまれた。娘が不幸になった時には離婚だってあり得るのだから、今そんな誓約をさせて、後で嘘を言ったことにならないようにという父親の配慮からであったのだろう。結婚式で互いに死に至る迄節操を守り、互いに離れないと誓約しても、現実には多くの人々が離婚している事実を知れば、この誓約が沢山の偽善者を作り上げていることを私も前から気にしていたので、その申し出を承諾し、その誓約の部分を他の言葉に変えた。余計なことであるかも知れないが、私にとって嬉しいことに、このお二人は今も仲良く立派な結婚生活を送っておられる。誓約の言葉を変えてしまったことで、私を非難される方々も多いのではないかと想像するが、私たちが結婚に関するイエスの言葉をもう一度よく考えてみると、それはピューリタンによって代表されるような道徳とは違ったものを表現しているように私には思える。

 イエスの結婚に関する言葉でよく引き合いに出されるものに、次のものがある。

 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の界を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(「マルコによる福音書」十・一・十二)


 このイエスの言葉をよく考えてみると、離婚が罪であるばかりでなく、どんなに努力してみても一向に一体になれない男女は、そもそも結婚したと言えるのだろうか、という疑問に襲われる。そのような疑念が何故にイエスの心の中で起こらなかったのだろうか。勿論、これはイエスが、神の国の到来が余りにも間近かであると信じていたがために、現実世界で罪と汚れを背負いながらも、共に生きようとする男女の生活はどのようなものであるべきかというような、長期的な問題に心を向ける余裕がなかったからであろう。しかし、はっきりしていることは、イエスが結婚の本来あるべき姿を男女が身も心も一体になることに見ていた事実である。そうすると、一体でないのに漫然と結婚生活らしいものを共にしている男女は、そこで姦通の罪を犯しているとも言えるのではないか。このように結婚や性に関する道徳になると、今日オウム真理教が非難されているような、地下鉄でサリンをばらまくことが、また、脱会しようとする信者を暴力を振るってまで引き止めることが悪であるというのとは違って、その善悪は簡単に決められないものである。秦さんの言う、イデアルな世界とリアルな世界の関係の問題は、ことが結婚や性の問題に関わるが故に、ひどく面倒なものなのである。イデアルな世界から言えば、宏と慈子、光之と肇子と利根は全く一体なのだから、立派に結婚していると言えるけれども、それはいきなりリアルな世界の結婚とはなっていない。『慈子』での秦さんのように、イデアルな世界とリアルな世界とを断絶してしまうことは、いきなり非難されて良いものではないだろう。リアルな世界と混同されているようなイデアルな世界では、リアルな世界を批判したり正したりする力も持たないだろうし、批判や矯正の基準を提供することもできないだろう。イデアルな世界がリアルな世界を超絶しているからこそ、変わり行くリアルな世界に対して、その時代に応じた、しかも成るべくイデアルな世界に近い生活形態を創意工夫させることができるのである。宗教的に言えば終末の彼岸であるイデアルな世界では、つまり神仏の世界では、男と女の区別もないし、霊魂と(新約聖書のパウロの言葉を使えば)霊の体(霊体)とで一つになってしまう者たちが二人だけとは限らないことを考えると、その超絶した世界をできる限り模写することを目指すこの世での愛の人間関係が、男女間だけのものであったり、相手がいつも一人であったりするとは限らないのかも知れない。イエスのおっしゃったアガペーの関係は、一夫一婦の関係がもっとも良く表すこともあり得るが、またある場合には、この世で蔑まれる畜生塚や同性愛でもあり得るのかも知れない。そのことを踏まえた上で、今のこの世では、あるいは、自分個人にとっては、どのような愛の形態が、超絶した愛を可能な限りもっとも良く模写するものであるかを探らねばならないのだ。その形態は歴史の変遷によっても、社会機構の変化によっても影響されるだろうが、また、個人の持つ遺伝的体質、精神的個性、生まれ育つ地域の風俗によっても形作られて行く。この世の慣習にただ柔順であることが道徳的なことなのではなく、与えられた環境の中でどのようにアガペーに満ちた互いの人間生活を形成したら良いのか、そのために苦闘することが真に道徳的なことなのである。この世の律法から自由になったキリスト者が、もう一度アガペーにおいて律法の世界に主体的に入り込んで行くように、いつも繰り返しこの世の律法を改善する苦闘こそが大切なのである。

 『慈子』の最後のところで、日本橋高島屋の洛雅会に妻子を連れて出かけた宏を、妻子連れとも知らずに捜し求めた慈子が宏の妻と出会う場面が描かれているけれども、その時の慈子は「みるみる血の気を失っていった」とある。この小説全体の調子から言ってこの描写が、この世で是認されている結婚生活に生きる宏の妻に対する慈子の後ろめたさを描いたものでないことは明瞭であるが、慈子に象徴されるイデアルな世界がリアルな世界と出会った時の衝撃を表現していることは確かである。私もそうであったが、多くの読者が、この小説の中で秦さんが余りにもイデアルな世界とリアルな世界とを峻別していることに驚き、理解できなかったのであるが、よく考えてみれば宏も慈子もまだ人生を終わった訳ではなく、この小説の終わりの時でもまだ若いのだ。小説は彼らの人生のすべてを描いている訳ではなく、重要な青春の時代だけを描いているのだから、この小説が終わった時期から宏やその家族、また慈子の、イデアルな世界をどのようにこの世に具体化するかの苦闘が始まると理解すべきなのだろう。

 現在広く西欧の所謂キリスト教国や日本で行われている一夫一婦の結婚制度は、身も心も一つになっている、あるいは、なることを無上に願っている男女にとってはなかなかに有り難い制度である。他の男あるいは女からの邪魔も入りにくいし、余り気兼ねせずに互いの愛を深め合うことができるからである。確かにこの意味では、歴史上これ迄に存在したいろいろな制度の中では、比較的に言ってイデアルな結婚に近づくことのできたリアルな制度であるとも言えるが、問題は、どんなに努力しても心や体において一体になれない男女や、同性愛の人々が、この制度でははみ出てしまうことであろう。アガペーさえあるならば、神の御許においては男も女もない以上、キリスト教的に言って、同性愛を否定する根拠はない。それに、前にも述べたことだが、心でも体でも一体になれない男女が、世間体からか道徳的信念からか、この制度にしがみついているのは、何としてもその偽善が鼻もちならない。最終的には、その地域や時代でどのような制度が一般的に守られていようとも、この問題は個人が神の前にただ一人で自分の愛のあり方を決めねばならないものなのである。

 朝日子さんが私に話してくれたあの青年が、ここまで考え抜いて『慈子』の主人公宏に倣っているのであれば、私たちはその青年の決断を尊重せざるを得ないであろう。しかし、深く考えずに表面的に、イデアルな世界とリアルな世界との峻別を自己正当化のために使っているに過ぎないのであれば、その青年の態度は秦さんに気の毒なことになる。

 私たちの目に映る天体の動きが実際には楕円を描いて運動しているにも拘らず、その動きはギリシャ以来理想としてきた完全な円運動である筈だという先入観のために、西欧における近代天文学の発展が幾分遅れてしまったということを、私は何処かで読んだことがある。西欧人のみならず誰でも、人間には今でも完全な円、完全に丸いものを理想とするところがある。人工的に完全に丸く水晶を削って尊ぶようなところがある。しかし、現実には完全に丸い石など見つかるものではなく、丸石と言ってもどこかがでこぼこしている。和歌山県や特に山梨県では今でも、丸石を一つあるいは幾つか積み重ねて、神として崇める風習が存在するが、でこぼこした丸石であったり、卵のような形をした石であったりする。西欧でも貴石を卵型に削って多くの人々が寵愛するようであるが、大地の精の固まりとして尊ばれた石が、理想としては完全に丸いものであるべきなのに、現実にはでこぼこしたもの、あるいは卵形であるというのは、イデアルな世界をリアルな世界に生かす道を教えていて興味深い。現実世界には不条理がいつも人間生活を脅かしているので、それから来る歪みを旨く私たちの生活の中に取り入れて行こうとすると、卵形が一番すっきりした形なのかも知れない。卵形の石が幾つか積み重ねられている有様を想像すると、一つ一つがそれぞれの歪みを旨く利用して重なり合い、他の卵を自分の中に取り込もうとせず、互いの独立を侵さずに、するりと重なり合っている。

 不条理と私がここで呼んでいるものは、人間が生まれながらに持っている利己心のために、互いに傷つけ合ってしか生きられない状況とか、持って生まれた精神的・肉体的な病とか、天災地変などの自然現象とかを指すものであるが、これらは個人の持つ個性の発展を妨げるものである。しかし、すべての人間は、生まれた時代や地域や自然環境からくるこれらの不条理と何らかの形で妥協して生活しなければならず、とても理想の丸型の生活などできるものではない。そこでどうしても自分の理想を現実の不条理の中で生かすために、自分はどのような卵形の人生を送らねばならないかを絶えず問われているのである。『慈子』の中の人物たちは、まさにこの自分たちの卵形形成の途上にあると理解すべきなのであろう。

 ところで、肇子もお利根さんも自殺して逝った。肇子の自殺は、周囲の人々の無理解のために他の男と結婚を強いられて、光之と一緒に生活できないという将来への絶望からであることが分かり過ぎる程に分かって、賛成できないにしろ理解は十分にできるものである。お利根さんの自殺は、先に逝ってしまった光之と肇子と死後の世界で一緒になるためであると共に、このような運命を自分で断ち切り、慈子には普通の女の世間的に幸福な人生を送らせたいがためであった。三人のうちでは生まれつき体の弱かった光之だけが所謂自然死を遂げている。だが、畜生塚へ至る道を慈子には歩ませたくないというお利根さんの願いは達成されたと言えるのであろうか。この小説の終わりまでには達成されてはいないし、運命的な宏と慈子の愛の強さから想像するに、宏が妻と別れでもしない限りそれはいつまでも達成されないように思える。描かれている状況では、とてもとても難しいことであると思うけれども、肇子にしろお利根さんにしろ、自分たちの運命に柔順であるならば自殺という手を加えずに、運命のままに流されてゆくことを選ぶべきではなかったのか。三人のうち光之だけが運命に従っており、女性たちは運命に手を加えてしまった。



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2  輪廻転生について


 十代の後半から教会に通い出した私であったが、『慈子』に出会ったのは、二十代の初め頃から本格的に勉強してきたキリスト教が、自分が幼い頃からその中に育てられてきた宗教的雰囲気としっくり合わないことに気づき始めていた頃だった。特別に信心深い家庭に育った訳ではないけれども私の家は真言宗に属し、朝夕仏壇と神棚に礼拝し供え物をして一日を始める習慣をもっていた。このような慣習は東京の下町では根強いものであったので、私だけに特別なことではない。否、多くの日本人にとってありふれたことであろう。それ故に、キリスト教が私の心の土壌に本当に根づくことは、そのまま多くの日本人の心に根づく道なのだ、と言えるのではないかと私は思っている。キリスト教の本格的な勉強が殆ど外国語を使ってなされねばならない事実が象徴するように、これ迄のキリスト教神学を勉強すればする程、日本的なものから離れてしまい、自分の生活する大地から遊離してしまう気がかりを私は持ち始めていたのだ。そんな時に『慈子』が私の目を輪廻転生の世界に向けさせてくれた。この世界は幼い頃から私には馴染み深いものであったが、何故かそれ迄の私は、その世界こそが実はキリスト教と、自分の幼い頃からの宗教性とを結合させる結合点となるものだとは気づいていなかった。『慈子』によってその世界に改めて焦点を合わせるように魅せられてみると、西欧にもキリスト教前からこの宗教性が存在していたことにも、改めて強く印象づけられたのである。

 前にも少し触れたのであるが、イエスはご自身の生涯の終わる前に、それも間もなく、ユダヤの地から始まって、世界の終末が訪れるという期待を持たれていたがために、一人一人の人間が個別に死を迎えた場合に、死後はどうなるのかについて殆ど言及されていない。ところで、このようなイエス理解は、アルバート・シュヴァイツアーたちの言う徹底的終末論による聖書解釈に沿ったものであるが、私もこれが正しいと考えている一人である。従って、イエスはご自分の死後にキリスト教会が成立するなどとの予想は全く持っておられなかったということになる。まして教会の神学が中世において、結局一人一人の死後について語らざるを得なくなるとは思っておられなかったと考えざるを得ない。周知のように、中世の教会はダンテの『神曲』に見られるような天国や煉獄や地獄の教理を作り上げることによって、終末が訪れなかった歴史の中での個人の死後の問題に対応してきたのである。ところが、宗教改革によってプロテスタント教会は聖書主義に立ち戻ったがために、中世の教理的伝統と決別してしまい、死後の問題については皆目要領を得ない発言に終始しているのが現状である。死後についてある程度はっきりとした考えを持たないと、この世の生活を意味づけるに当たって、どうも不明瞭なままに留まる材料が多すぎると私には思われるので、何とかこの点をもう少し教会に明瞭に発言して貰いたいのだ。そして、プロテスタント教会はこの点でむしろ中世カトリック教会の教理よりも、他宗教や民衆の間に深く浸透している輪廻転生信仰を受け入れることによって、日本の宗教的土壌、また、アジアの、否、人類古来の宗教的土壌と結びつくべきではないか、と私は今考えるに至っている。この考えの端緒を作ってくれたのが、『慈子』の中で先生と呼ばれる朱雀光之が宏に語っている言葉であった。

 鎌倉時代の作で重要文化財に指定されている三宝大荒神が実際に来迎院には祀られているが、小説の中では、ある日宏が訪れると先生もお利根さんも留守で、慈子がその荒神の眷属の一体を畳の上に立たせてそれを繪に描いている。やがて先生とお利根さんが帰ってくるが、先生は大切な仏像で遊んでいる慈子を叱りもせずに、「神、仏のことを粗末に軽々しくみすてるのは間違っている。しかし、死後を頼んで神仏を語るのは間違っていると思うよ。死後の世界というものがあるとしても神、仏がいて宰領される世界じゃない。驚くほど今いる世界とそっくりかも知れん。そっくりどころじゃなく、全く同じかも知れん」と言って、宏の傍らに座り込み話を始める。

 元来は信仰の対象として多くの人々が畏れをもって取り扱う仏像を、慈子が平気で畳の上に置き、遊びとして描いていることに対して、秦さんはそれを「さらりとした若い合理主義」と呼んでいる。そうすると、先生が宏に死後の世界を神や仏の宰領するところではないと言うのも、この合理主養の範疇に入る発言なのであろう。ところが、神や仏を信じる者にとっては、死後の世界を含んで運命が(神や仏の愛と慈悲による加護もなく)ただそれ自体で回転するだけであるという先生の運命論は、むしろ合理的であるとは言い難い。しかし、この問題は今はこれ以上考えないことにしよう。

 先生の話は運命の空間的な面と時間的な面との二つの局面を持っている。空間的な面に関しては、先生は次のように言う。「私には妙な癖があって、よく狭い畳目の一つなどに眼をとめてみつめる。みつめるうちにその畳目一つが実はこの世界と同じ巨きさと豊かさとをもった別の世界のように思えてくる。そこには洒落た街角で別れを惜しむ恋人たちもおれば、土の家の暗い暖炉で薄粥を炊く火もある。緊迫した国際会議もあれば、眼のかすんだ老婆が寒さを厭うて呟く貧の愚痴もある。要するに、何もかも似た別の世界が指の幅一つの狭い畳目の上に拡がっている。……果たしてこれは想像に過ぎないのだろうか、真実そういう世界がそこに実在することを自分は直感しているのではなかろうか、そう考えはじめた。……この転換は非常に私の内側をも変えたという気がしている。……遊びじゃない、これは一種の救いではないかと私は考えた」。直感で知るのであるから、これは合理的な思惟を超えた信仰的描写であるけれども、畳目一つが別の世界、私たちの住む世界のすぐ隣にある別の世界を表しているかも知れないということになると、仮に畳一枚を考えてみるとしたところで、実に多くの、無数といってもよい世界が並んでいることとなる。このような考え方に出会うと、学問的に天文学を通して私たちの住む太陽系宇宙が、広大な銀河系宇宙の中のごく小さい空間を占めるに過ぎないことを知ってはいても、旧約聖書の『創世記』に描かれている天地創造神話で、地球中心の狭い宇宙観に信仰的に慣らされてきたキリスト者は、改めて運命が一挙に拡大された感を与えられる。仏教やヒンズー教の方が『創世記』の神話よりも、先生の話に出てくる宇宙観に近い神話を持っている。キリスト者は『創世記』の狭い宇宙観を率直に捨てるべきである、と私はずっと考えてきたのであるが、畳目に象徴される無数の宇宙、しかも畳目のように一つ一つ並んで隣り合わせに存在しているのではなく、一つの宇宙に別の幾つもの宇宙が、私たちには見えなくとも入り込んで錯綜しているとする、先生の話のような宇宙神話は、『慈子』を初めて読んだ時の私にはとても新鮮であった。

 先生は空間的な思索だけではなく、時間的な思索を付け加える。「私は一人で静かに湯に入るのが好きだが、その際、湯の面にからだの一部、たとえば手首をくの字に折りまげたりして、そこを湯へ少しずつ沈めてゆく訳だ。すると湯は肌の脂にはじかれながらついには豆粒ほどの陸地を露出するだけになる。これが私のみつけた新しい世界なんだ。ずっと沈めると危く陸地は呑みこまれようとする。しかしかすかに浮かせると汐ははしるように引いてゆく。この汐のさしひきに内在するものを超越的なほど無量の時間だと私は感じた。──私はついに私の直観力が、この一見無意味な動作が現前してくれる豆粒米粒ほどの世界において単に地球の歴史ばかりか、太陽系の、宇宙の、歴史をさえ実現させ得ることを悟った。……この直観によって私は先ず人間の歴史そのものが一回きりのものなどである筈がなく、地球自体も勿論宇宙の歴史ですらたとえ二十億光年の何万倍もの寿命であろうと、それをさえ無にしてしまうほどの消長の繰り返しがあったことを信じられるようになった」と先生は言い、このような直観に基づけば、現実はあってもなきに等しい、つまらない、あってもなくても良いようなものだとする。そして、時間的には無量と言ってもよい宇宙の誕生と消滅の繰り返しの流れの中で、空間的にはこれも無量と言ってよい沢山の宇宙の相互浸透的併存の広がりの中で、運命のある「はからい」に応じて、人は世界から世界へと輪廻するのだが、互いに愛し合う者たちはその結ばれを永遠を通して生きるべく努めなくてはならないのだ、とする。

 秦さんが先生を通して語っているこの運命論には、一種虚無的とも言うべき無常観が漂っている。現実の苦悩からの解脱が、現実を無量と言ってもよい程の時間の流れの中の一瞬の存在に過ぎないものと見なして、現実の存在価値を相対化し引き下げるところに求められているからである。これは秦さんが、運命へのひたすらなる服従を説くことと勿論無間係ではない。ところで、現実が存在価値の余りないものであるとすれば、その現実を変えようとする努力も真剣なものではなくなる筈である。しかし、秦さんの一見虚無的無常観に立った、運命への服従に閲する発言をそのまま文字通りに取って良いとは、私には思えないのである。『慈子』の中の人々自身が単に運命に服従しているとは言えないからである。前にも述べたが、お利根さんも肇子も自殺しているが、その行為が正しかったかどうかは別にして、これはひたすらに与えられた運命へ服従したとは言えないだろう。運命とは外から人間を襲うだけのものではなく、人間の内側からも、人間の自由意志を通しても展開されて行くものであることをこの事実は物語っており、何れ程現実が存在価値のないものだと言ってみたところで、なげやりになっていない小説の主人公たちを知ってしまうと、秦さんの虚無的無常観を余り真剣に取る必要はないようだ。投げられたサイコロが示す数のように、外から与えられるというニュアンスが強い運命に対して、自分の実存の自由からどうしても必然的に生きざるを得ないように生きる有り方を、私は宿命という言葉でこれ迄表現してきたのだが、棄さんの運命論はまさに私の言う宿命論に近い。但し、宿命の根底では、自分や他者、否、生きとし生けるもののすべてを生かし抜かねばならないという、殺してはならないという至上命令の囁きが聞こえてくると私は信じているが故に、どうしても自殺が宿命への服従になるとは思えないのではあるが。そして、『慈子』の主人公たちと同じように、私も目に見えるこの世界の現実がすべてではないと知っているが故に、現実を唯一絶対のものとすることは私にもできないけれども、そうかと言って私には、虚無的な無常観には付いて行くこともできない。神の摂理の下にあるこの現実──もっと詳しく言えば、神が不条理と闘いながら、あるいは、不条理との妥協をやむを得ずしながら、とにかくご自分の愛の摂理を展開しているこの現実──も、私が神と一緒になって不条理と闘い、身近かな人々を中心としながらではあるが、人々のために愛に生きる修練の場なのだ。この世は私や他の人々の輪廻にとって大変な意味を持っている。ここに虚無的な無常観に裏打ちされた運命という非人格的なものへの服従と、キリスト教的な宿命論との違いが存在するのだろう。

 ところで、小説の中のお利根さんは、自分が自殺することによって、自分が巻き込まれてきた畜生塚的な光之や肇子との関係を断ち切り、慈子には世間的に幸福な生活を送らせようとしたが、結局それができなかったことは、宏と慈子と宏の妻とがまた畜生塚的関係を続けざるを得なかったことからも明瞭である。これを断ち切ることができるかどうかは、お利根さんのような第三者の問題ではなく、飽くまでも宏とその家族と慈子との間のこれからの問題なのだ。他人の運命を(自分が魔術的に操作できる)非人格的なもの──当事者たちの主体性を考慮しなくても良いもの──と勘違いしているお利根さんの自殺は、人格的な神が私たちの宿命の応答を期待するとしているキリスト教的宿命論から見れば、矢張り誤りと言う他はない。自分の宿命も他人の宿命も最終的には神の手の中にあるのだから、自分が自由にしてはならないものだということを知らない傲慢な行為と非難されても仕方がないだろう。

 それにしても私が『慈子』と出会ってから、目に見えない広大な、互いに含み合い錯綜している沢山の世界や、無限にも等しい時間の流れの中で誕生と消滅を繰り返している沢山の宇宙を、愛する者たちと一緒に輪廻するという輪廻転生の思想を、キリスト教神学の中に取り込まねぱならないという衝動を与えられたことを思うと、秦さんに何れ程感謝しても感謝しきれるものではない。 (※1) 既に述べたように、キリスト教は中世に天国・煉獄・地獄というような死後の世界に関する思想を取り入れたが、しかし、このような死後規は聖書の中にはない。特に新約聖書では徹底的終末論が理由で、死後の状態については殆ど関心が見られないことは、前に述べた通りである。だが、新約聖書の人々が期待していた終末が訪れず、イエスが予想もされていなかった教会が弟子たちによって形作られ、もはや二千年も経つ今では、中世の人々ならずとも宗教が死後について語ることを求めるのは至極当然である。その場合に、死後をどのように考えるかは、私たちの理性に任されていると言ってよいだろう。中世の人々も理性的に考えてあのような死後観を作り上げたのであるから、私たちがそうして悪い筈は全くない。私はその場合に、中世の考え方とは違って輪廻転生の考え方をキリスト教は採用すべきであると考えている。この考えの方が中世の考えよりも遥かに古く、そして広く世界中に信じられてきたし、アジア、その中の日本でも古来から信じられてきたからである。この信仰と結合すれぱ、キリスト教の日本への土着は、もっと容易になるだろう。
 何時かは神のはからいで、神との深い交わりに生きるようになって最早輪廻転生を繰り返す必要がなくなる時が来るであろうが、それ迄は愛を深く深く学ぶために、あるいは、人々に少しでも奉仕するために、私たちは繰り返しいずこかの世界に生まれ変わってくるのだろう。このような思想は早い終末を期待していたイエスには存在しないけれども、また彼がそのような考えに反対した形跡もない。

 これは何も私一人の解釈ではなく、私のようにキリスト教神学に輪廻転生論を受け入れようとする人々に共通している解釈なのだが、「ヨハネによる福音書」九章一節から七節までに関してしばしぱ言われてきたものである。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光りである。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム──[遣わされた者]という意味──の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。

 この物語では、イエスは目が見えない人が癒されることを通して神の業が現れると考えておられ、目が見えないこと自体を何か特別に意味のあることともされておられないが、重要な点は、あの当時の一般的な通念であった考え、すなわち、病気が罪の結果であるという考えをイエスが否定されていることである。弟子たちは当時の通念に立って、その人が生まれながらにして目が見えないのは、本人の罪の結果か、あるいは、両親の罪の結果か、どちらかであろうと考え、そのどちらであるかをイエスに質問している。この目の見えない人は生まれながらそうなのだから、本人の罪の結果であるかも知れないという弟子たちの想定には、その人が前世において罪を犯し、その結果今生において目が見えなくなったという考え、つまり、輪廻転生の考えが伏在していると考えるのが至当であろう。このように、イエスの周辺には、ユダヤ教以外の他の宗教の影響であろうか、民衆の間に輪廻転生を信じる雰囲気があったことは否定できない。しかも興味深いことに、弟子たちの問いかけに対してイエスは輪廻転生を(それへの答の中で、積極的に肯定もされていないけれども)否定もされておらず、ただ賞罰応報思想を否定されたのである。両親の罪であろうと本人が前生で犯した罪であろうと、罪の結果としてその人が目が見えなくなったという思想が明白にイエスによって否定され、病気や不幸が決して神からの刑罰ではないこと、愛の神はそのように応報する存在ではまったくなく、むしろ病気を癒される存在であることが宣言されたのである。


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※1  (入力者注) キリスト教神学への輪廻転生の受容については、野呂芳男「宿命の物語」『神と希望』第2部第四章、日本基督教団出版局、315-400頁の中で展開されている。当サイトに掲載されている論文 「神話の季節の再来」(1975年) でもその発想を知ることができる。




転載入力 岩田成就
2002.6.25


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