野呂芳男「研究の進展」(1)-1

(1)今日の研究状況

 これ迄読者がお読み下さった部分は、日本基督教団出版局が「人と思想シリーズ」の1冊として『ウェスレー』という題名の下に、拙著を1963年に出版したものを今回の出版にあたって修正すべきところを修正したものであるが、今回の出版にあたり、この章を設けて1963年以降のウェスレー研究の成果に触れることにしたい。

 しかし、1975年に私は『ウェスレーの生涯と神学』を同じく教団出版局より出しているので、実質的にはこの章で取り扱うウェスレー研究の進展は1975年以降、それも読者に知っていただきたい顕著な進展に限られてしまうであろう。読者には、この小著の巻末にある今回改訂した文献表に特に注意を払っていただき、1975年以降に出版された文献から、私がここには触れることのできない研究の進展状況を察していただきたいと願っている。特に注目していただきたいのは、ウェスレーに関する欧米文献の日本語訳書が増加しているばかりでなく、日本人によって書かれた立派な研究書が出版されている事実である。

 1975年以降の海外におけるウェスレー研究を眺めて感じることであるが、米国での研究に特に見るべきものがあるように思える。私はここで主に三つの研究を取り上げてみたいのだが、それらはアルバート・C・アウトラーによるウェスレーを東方教会の神学に強く影響された人物と見なす研究、セオドーア・ランヨンによる解放の神学の立場よりするウェスレー理解、及び、ジョン・カブによるプロセス神学の立場よりのウェスレー理解である。

 アウトラーはウェスレーを「民衆神学者」(a folk-theologian)と規定しているが(1)、そのような神学者とは、文字通り驚異的な力で広い範囲の大衆に福音を伝えることができるような、特別の賜物を持っている神学者のことであって、民衆を改心させ、人々への宗教的奉仕生活に没頭するように教化することのできる人物のことである。そして、アウトラーによると、このような神学者は部分的に一つ、あるいは複数の教理を偏って強調せずに、キリスト教の福音を全体として人々に提供できるし、表面的には(自分や他の人々が発言する)単純に見える福音の真理の背景に、実に複雑な神学的議論が伏在していることを充分に理解しているし、また、他のどんな手段よりも人々に説き明かすことが、福音を伝える最重要な手段であることを知っているものであるが、当然のことウェスレーはこの条件を最大限に満たしていた。

 アウトラーは更に、このような代表的な「民衆神学者」の系列の初めを、ニケア会議前の教父であるクリストモスに求めているが、この書物の読者は既に前に私が2章「神学的認識論」(2)で、クリソストモスの名前こそ挙げなかったが、ウェスレーがニケア会議前の教父たちを特別に重んじたことを指摘しているのに気づいておられるであろう。従って、ウェスレーとニケア会議前の教父たちとの関係を指摘することは、何もアウトラーに限ったことではなく、これ迄も多くの研究者が言及してきたことである。むしろアウトラーの貢献は、他の神学的潮流とウェスレーとの関係を無視する訳では全くないけれども、ウェスレー神学の中核をなすものとしてニケア会議前の東方教会の神学者たちからの思想的影響を取り上げることにある。

 オックスフォードにいる間に、ウェスレーは教父たちの神学に目覚めさせられたが、それは主に神聖クラブのメンバーの一人ジョン・クレイトン(John Clayton)という、教父学に夢中になっていた人物のお陰であった。彼の勧めでメンバーたちはイグナチウスからアタナシウスまでを読むこととなったのだが、それ以来というもの、教父たちの著作からの影響はウェスレーの信仰生活や神学から切り離せなくなった。アウトラーは、初代東方教会の教父たちのウェスレーに対する影響を次のようにまとめている。

(1)西方教会の救いに対する考え方では、法廷的な比喩が重んじられ、罪人が神という判事から無罪宣告をされることが中心をなしている。勿論、その無罪宣告のためには、イエス・キリストがご自分を罪人の身代わりとされたことが、土台となっていたのではあるが。それに対してウェスレーは救いを、医者が病人を癒す比喩を中心にして考えているが、これは明らかに東方教会の教父たちの影響である。(2)人間の生活は、神から目的(telos)を与えられており、従って、当然のこと信者の生活は、その目的を追い求める直線的な向上のものとなるのが普通である。(3)三位一体の一人格である聖霊が、信者の生活を主に指導してくれる。(4)先行の恩恵の主張。(5)神の恩恵と人間の自由意志との協調。(6)聖書の霊感を信じ、聖書の解釈者は聖霊であるとの主張。(7)救いとは、人間の中の神の像の回復である。(8)信者の生活には、訓練や禁欲が必要である。(9)義認の瞬間(moment)と聖化の瞬間の区別、及び、この地止しでの完全な生活の可能性。但し、この完全は成長しつづけるもので、その成長には終ねりがない(2)。

 これらの個々の点の多くは、この拙著のこれ迄の部分で触れてきたものではあるが、アウトラーはこれらすべてを東方教会の教父たちのウェスレーに対する影響であると言い切ってしまう。

 よく知られているようにウェスレーは1749年から1755年にかけて「キリスト教叢書」(ChristianLibrary)五十冊を刊行した。その第一巻が使徒教父たちの手紙やクレメンス、イグナチウス、ポリカルプスからの抜粋であるが、アウトラーはその第一巻のウェスーによる序文にわれわれの注意を向ける。この序文の中でウェスレーは、これらの人々の教えがキリストの使徒たちの教えに極めて近いものであることを指摘し、「従って、これらの人々が書いたものは、聖書と同じ権威は持っていないけれども……、これらの人々以後の著作のどれよりも大きな尊敬の念をもって遇されねばならない」と言っている。この点からもウェスレーの神学が東方教会の教父の思想にいかに近いものであったかを、アウトラーはわれわれに指摘し、更に、「キリスト教叢書」の中にウェスレーが含めた「マカリウスの説教集」(Homilies of Macarius)のウェスレーに対する重要性を指摘する。マカリウスはエジプト人であったが、アウトラーによると、ウェスレーはマカリウスや同じく東方教会の神学者エフラエム・サイラス(Ephraem Syrus)と神学上重要な点で共通の考え方を持っていた。

 どのような点に共通したものが見られるかというと、常に愛において自ら進んですることではあるが、人間は愛がますます深められて行くように、その意志を神に服従させて行くという考え、人間がなす神への応答においては、聖霊がまず先行して人間に内住して下さって、その応答が初めて可能となるという考えなどにおいてである。これらすべての考えの根底には、神の恵みは満ち溢れて、人問が応答する前に、それに先行する形で人間のところまで到達し、人間はその先行の恩恵のお陰で神への応答をなし得るという考えがあるのだが、その神からの恩恵の授与、また、その恩恵に人間が与るという、神と人間との相互関係は一種の神人協力説(synergism)と言い得るものである。ところが、この神人協力説は独特なもので、聖霊が人間に内住しても、そのことが少しも人間の自由意志を束縛しない。神の方が積極的で、人間の方はそれに応答するのではあるが、聖霊の働きに人間は反抗できるのである。

 このようにしてアウトラーは、ウェスレーに見られる罪に関する二重の考え方、(私も第3章「人間論」の(3)「罪の理解」の中で指摘したが)厳密に言って罪と言えるものと、過失と言うべきものとの区別は、既にマカリウスなどに見られるもので、恐らくはウェスレーが東方教会のこれらの神学者から受け継いだものである、と指摘する。ウェスレーにとって厳密な意味での罪とは、聖霊によって与えられる神の先行の恩恵に故意に反対することであって、人間の普通の情感や、誰しもが持つ自然の欲望そのものではなかった。われわれが守らねばならない神の律法は、人間生活を可能ならしめるものとして、神が先行の恩恵においてわれわれに与えて下さったものなのであるから、当然、律法を故意に破ることは厳密な意味での罪なのである(3)。

 この、故意に律法を犯すものとしての「厳密な意昧での罪」と、そうでない過失とでも言うべき罪との区別こそが、ルター主義の、信者は「罪人にして同時に義人」という教理や、独善的な人々の主張する「罪なき完全」から、ウェスレーの「キリスト者の完全」の教理を切り離しているものである、とアウトラーは言う。マカリウスやエフラエムの系列の中で一際目立った神学者ニッサのグレゴリウス(Gregory of Nyussa)もそうであったように、ウェスレーはこれらの神学者たちの系列であるプラトン主義のキリスト教に、自ら気づいていなかったかも知れないが、立つようになっていたのだ、とアウトラーは言う(4)。ウェスレー研究の他に現代神学を専攻している私が、いつの間にか(定年退戦の年に行った最終講義「神学研究四十五年」や、1995年に松鶴亭(出版部)より出版した拙著『キリスト教の本質』で述べているように)プラトン主義のキリスト教に立って思索している自分に気づいて久しいが、その私にとっては、アウトラーのこのようなウェスレー理解は嬉しいものではある。だが、後でもう少し詳しく述べるように、ウェスレーを主に東方教会のプラトン主義に立つものとするアウトラーには、まだ全面的には賛成できないでいるのである。確かに私も、ウェスレーはプラトン的であったと思うが、アウグスティヌスを持ち出すまでもなく、西欧のローマ・カトリック教会にもプラトン主義は大ぎく影響を与えているのであって、東方教会だけがウェスレーにプラトン主義を教えたとは私には恵えない。



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