ユーカリスティア・ニュースレター2006年5月


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ニュースレター    5月           第21号2006年4 月30 日発行

復活祭も終わり、春から初夏へ季節は移ります。心弾む季節となりますが、そうした中でも心静かに祈りを捧げる大切さが伝わる記事に出会いましたので、紹介します。某新聞に、在日インド人、その中でも少数派のシーク教徒たちが集まる都内・文京区の礼拝所のレポートがありました。「司祭が、聖典を手に歌うように説教をしている。…『いつも神がいることを忘れないように。貧しい人や弱い人を助けるように。悪い行いをしないように』と説いている」とのことです。このインド系シーク教徒の方々の、礼拝を守っていきたいという切実な熱意に心動かされると同時に、他宗教における倫理・律法について、キリスト教のそれらがどのように関わることができるのか、今後の課題として個人的に大変重要な問題と考えます。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060429/mng_____thatu___000.shtml


月の活動予定

 

礼拝

聖研

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ウェスレー研

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聖研

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現神の扉

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礼拝 11:00 am~

その他すべての講座 2:00 ~ 3:30 pm


<4月の活動報告>

l          礼拝 (4 / 1)説教:野呂芳男「魚と復活」。ヨハネ福音書20.11‐18。

l           聖書研究会 (4 / 11) 5章1節‐30節。カタリ派には北イタリア系「穏健派」と南仏系「徹底派」があり、徹底派によると、人間は輪廻転生を繰り返すうちに救いへ近づくとして、自由意志の重要性を説き、一方穏健派は、救いに対しては神がイニシアティブをとるという立場を取ります。1 - 18節の「病人の癒し」に表れされているのは、穏健派に近い考えであることを学びました。救いのために神が働き、「病気を治す人=光の天使=キリスト」論が展開されているからです。また、18節「(イエス)御自身を神と等しい者とされた」の解釈につき、アタナシウスや後のカトリック教会の本質的一致の考えは、あまりにもギリシア哲学の本質論に固執しすぎであり、ヨハネ福音書の解釈としては適当でないこと、また、19節以下の「裁き」に関する記述が、第3章18節にある、ヨハネ福音書に独特な終末論との関連であることを確認しました。

l          ウェスレー研究会 (4 / 8) ジョン・ウェスレー著『民間療法( Primitive Physic )』(1747年)の、主に「まえがき」から、ウェスレーが主張する4つの要素を確認し、彼が病気をどのように捉えていたかを探るため、彼の「永遠の生命を薬で得ようとすることは不可能である」との立場がどこに由来するのかを検討しました。そのために、主にアリストテレス系列と(新)プラトン主義系列との対比という視点から、古代ギリシアの時代以降の医療発展の歴史を俯瞰し、イタリアから英国に持ち込まれていたルネサンス・ヒューマニズムとウェスレーが対決したことや、それがウェスレー神学とどう関わるのかを考えました。

l           現代神学の扉 (4 / 17) 実存論的神学を形成するに当たって、その影響を決して見逃すことのできないアメリカの神学者エドウィン・ルイスに注目し、彼の世界観を、カタリ派のそれとの対比によって学びました。ルイスの説く「物質( non-creativity )」の思想について、「ルイスは世界観の形成にあたり、カタリ派の主張である『悪(魔)』という要素を排除しようと試みたのだろうか。それゆえに世界から「悪」を除き、そのかわりに「物質」という中性的なものへ転換させたのか」という問いが、野呂牧師自身の問題として提起されました。それを探る鍵として、「大宇宙」と「小宇宙」、キリスト教以前から存在する神と悪魔の二元論という2つのテーマから、主に中世の民衆による世界観の変遷に注目して検討されました。 図 Lewis, Edwin.   The Creator and the Adversary.   Ladurie, Emmanuel LeRoy.   Montaillou.   グリヨ・ド・ジヴリ『妖術師・秘術師・錬金術師の博物館』

<お知らせ&トピックス>

l          「ウェスレー研究会」および「現代神学の扉」の日程が変則であることにご注意下さい。



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