ユーカリスティア・ニュースレター2006年10月


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ニュースレター    10月           第26 号2006年10 月3 日発行

 先日、医療に従事するある方とお話する機会がありました。その方は、私が牧師であると知るや、いろいろと質問をされてきました。その中でも、印象的だった話をここにご紹介します。

 

 昨今の医学研究は、遺伝子研究にしても生殖医療にしても、自分でも怖くなるくらいのスピードで進歩しているが、このような、「生命の操作」とも言うべき治療行為は、はたしてキリスト教の神からみて、許されていることなのだろうか、それを考えると、もしかしたら、自分たちは神の意思に逆らった(つまりサタンに従事する)仕事をしているのではないか、という趣旨のお話でした。自分自身はクリスチャンではないが、キリスト教の牧師から見てこの点をどうみるか、ということでした。

 

 今ここで、私が何とお答えしたのかについて申し上げるにはあまりにもスペースが限られていますので、控えることにします。ではなぜ私がこのお話をここで紹介させていただいたかというと、この問題は、もはや医療従事者だけの問題ではなく、私たちひとりひとりが考えなければならない問題だと思うからです。皆さんならば、このような問題提起に対して何とお答えするでしょうか。

 

 それにしても、このような「直球の」質問を抱える人々と直接に関われる牧師という仕事は、机上の学問活動とはまた違った緊張感に満ちていると、改めてその素晴らしさを感じています。

 

  10 月の活動予定

キ教とカバラ

礼拝

10

聖研

11

12

13

14

ウェスレー研

15

16現神の扉

17

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礼拝  11:00 am ~

その他すべての講座  2:00 ~ 3:30 pm

9月の活動報告>


礼拝(9/2)  説教:野呂芳男「13人目」。ヨハネによる福音書6.60-71。

 

聖書研究会(9/26)  7.1‐24

この箇所は、重要な事柄に満ち溢れています。〈1‐9節〉イエスの「時」に関しての言及「私の時〈時機〉はまだ来ていない」について。ここでは、神の摂理に従ってイエスが十字架にかかるということではなく、神から全権を委ねられたロゴスとして、永遠の昔から神とともにあるロゴスとして、独自の行動をイエスが取るということが言われています。イエスご自身がよいと思うときに、十字架にかけられるという事態を、「この時だ」と思われるときになってはじめて、そのような独自の行動を起こすのです。ここに、ヨハネ福音書による贖罪の理解が独自のものであって、他の福音書とは違った見方がなされていることを示唆しています。つまり、パウロ同様、キリスト教信仰は神中心というよりも、ロゴス(キリスト)との関係だと主張されています。〈10‐23節〉この箇所から言えることは、割礼の重要性を「格下げ」している点です。旧約聖書においては、異教徒がユダヤ教の信仰を持ち、ユダヤ教の救いを獲得するにあたっては、割礼を受けることが強制されていました。ところが、ここでのイエスは、割礼はモーセが絶対的に要求するものではなくて、族長たちが要求したものであるとしていて、著者によれば、まるで割礼を絶対的に要求されるものとはしていないかのようです。これは、洗礼をイエスご自身が行ったものではなくて、弟子たちが授けたものだとされている記事(4章2節)を参照すると、洗礼の「格下げ」が行われていたという記事の継続と言わないわけにはいかないでしょう。これらの記事は、異邦人教会が成立するにあたって、ヨハネ福音者の著者周辺において、洗礼や割礼などがどのように格下げされていたかを、われわれに暗示しています。

 

ウェスレー研究会(9/9)

かつてウェスレーの著作を日本語訳するにあたって、野呂牧師の恩師であるエドウィン・ルイス教授がわざわざ寄稿してくださった「学者・伝道者・神学者としてのジョン・ウェスレー」という論文を読み始めました。これは実に、練りに練られたウェスレー観の展開です。今回はとくに、教養人(M.A.)としてのウェスレーに注目し、イギリス・オックスフォード大学の学問的雰囲気や、その他欧米の大学についても言及されました。次回はいよいよ、ウェスレーが、英国教会の39箇条の信仰箇条を米国のメソジスト教徒のために25箇条へと削除した項目を詳しく検討し、その面からウェスレー神学を浮き彫りにすることになります。

 

現代神学の扉(9/18)

前から引き合いに出されていたキルケゴールの宗教性Bでは、今のキリスト教の理解としては不十分なのではないかとのテーゼのもと、今日の神学状況の中で大きな話題を提供している(イスカリオテの)『ユダの福音書』について触れました。ここではユダが、キリストに頼まれてキリストを売ったとなっており、ユダこそが本当のキリストの心を知って、それを実践した人物とされています。これは、いわゆる紀元150年あたりのグノーシス主義のキリスト教の形態を私たちに示しているものです。このような形のグノーシスの考え方によると、救われるためにはグノーシス、つまり知識を基本として、その知識を実行するという形の救いとなり、最後のところで自力本願の宗教となってしまっています。これに対してヨハネ福音書などは、グノーシス思想とすれすれのところまで接近しながら、救いはキリストの(恵みの)業によるという立場だと言えます。さらにこの講座では、輪廻転生説をヨハネ福音書が深く取り入れていたことを考察しました。

 

キリスト教的カバラ(9/19)

10のセフィロトのひとつひとつについて、その意味を探り、さらに2つのセフィラを結ぶ径(みち)を新たにこれまでのセフィラの解釈に加えて考察しました。そして、ヘブライ語には数字がないので、数字を表すヘブライ語ひとつひとつについて考察しました。ゲマトリアと呼ばれる、数字によるセフィロトの解釈の仕方に、そろそろ話を移し始めています。今後はゲマトリアについて、が研究の対象となっていきます。

 

<お知らせ&トピックス>

          10月24日の「聖書研究会」は休講となります。



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