ユダヤ・キリスト教史 1997.10..14-2


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第22回 ――中間時代       (1997.10.14−2)


野呂芳男







 新約聖書の勉強を始めるに当たって、普通に中間時代と言われている時期についても、少しく触れておく必要があるだろう。ペルシャの支配下にあった時代(前538−331)は、ユダヤは政治的に国家として存在していたというよりは、一つの教会であったという方が妥当であった。そして、この間に、私たちが知っている旧約聖書が徐々に形成されていったし、人々の生活が細部に至るまで律法によって訓練されていった。ところが、その後のアレキサンダー大王の征服によって、ユダヤ人の生活にギリシャ文化の影響が浸透してきた。大王の死後、パレスチナはエジプトを支配していたプトレマイオス朝の支配下に入ったが、前198年よりはセレウコス朝シリヤの支配を受けるようになった。

 次の世代あたりから、ユダヤ人は圧倒的なギリシャ文化の影響に晒されるという危機を迎えた。アレキサンダー大王の軍人たちによって、あちこちにギリシャ的な町が建設されたのであるが、その文化的な生活は信仰深いユダヤ人たちにとっても魅力であった。

 セレウコス朝のアンティオコス四世(アンティオコス・エピファーネス)は、自分の領土の南端に存在する、ユダヤ人を好まなかった。彼はユダヤ教自体がギリシャ化されつつある状況を頼りにして、ユダヤ教の礼拝を禁止するために律法の遵守を禁じ、再建されたエルサレムの(第二)神殿の中に異教の礼拝のための祭壇を設けた。この事件が引き金となって、祭司マタティヤが前167年に反乱を起こした。「マカバイ記一、二」や、一種の黙示文学と言える――バビロニヤで活躍したダニエルのことを記した――「ダニエル書」は、この時期に書かれたもので、当時のユダヤ人を鼓舞するためであった。

 マタティヤの反乱は彼の五人の息子たちによって指導されたが、ユダス・マカベウスが神殿を占拠して、前164(あるいは165)年には神殿を聖別した。とうとうアンティオコス四世もユダヤ人に信仰の自由を与えざるを得なくなってしまったが、マカベウス家の者たちは戦いを止めなかった。後にパリサイ派と呼ばれるようになったハシディームは、信仰の自由を獲得したことで満足したのだが。

 兄弟の一番年下のシモンが前142年に政治的独立を達成したが、彼は大祭司でもあったので、精神的にも政治的にも支配者となった。ダビデやソロモン時代のように栄光に満ちた国ではなかったが、マカベウス家(ハスモン王朝)の支配下で暫時ではあったが、ユダヤ人は独立国家を持つことになった。ところで権力を掌握した後のハスモン王朝は、周囲の民を征服し、民をユダヤ教に改宗させ、自国の勢力を拡大していった。ハスモン王朝のヨハネ・ヒルカーヌス(前135−104)はサマリアとイズメアを征服し、ゲリジム山にあった神殿を破壊した。また、アリストブルスはガリラヤを征服し、ユダヤ人の植民地とした。従って、イエスがナザレの少年であった頃は、「異邦人のガリラヤ」は、まだ百年程しかユダヤに属していなかったのである。







 ところで、このようなハスモン王朝の世俗的な政治に対しては、多くのユダヤ人が不満であった。血なまぐさい軍人であり、しかも大祭司である人物が、聖なるエルサレムの神殿で奉仕することには、熱心な信者は反対であった。それに加えて、サドカイ派とパリサイ派との政治的指導権争いはますます熾烈になってきていた(これら両派については、後で詳しく説明する)。このような国内の不一致が、ローマが征服の挙に出る隙を与えてしまった。前63年にポムペイがエルサレムに入場し、その後はローマがパレスチナの運命を決することとなった。







 前41年より、パレスチナはヘロデ大王が治めることになった。彼はローマ議会より王と称することを許されたが、彼をその息子のヘロデから区別するためにヘロデ大王と呼ぶことにしよう。ヘロデ大王の父アンティパテルはイズメア人で、言わば政治的冒険家であり、ハスモン家の内紛に乗じて、王朝を破滅に追い込むために多大の貢献をした人物であった。ヘロデ大王は前4年に死んでいるが、彼は自分に反対する者を容赦なく殺し、また、ユダヤ人議会(サンヘドリン)を無力化して治めた。しかし、外面的にはパレスチナにもとの栄光を取り戻したと言える。地中海に臨む地にカエサリアの町を建設して首都としたし、処々方々に宮殿、神殿、劇場、砦、浴場、水道などを作った。マカベウス王朝が「ユダヤ的でないもの」を嫌ったのとは違って、彼はそれらにも寛容であり、ひたすら国を富ますことに政策の中心を置いた。

 彼はエルサレムの西の丘に自分のために宮殿を作り、神殿域内の北端には要塞を築いた。前20〜19年には神殿を再建し、これ迄にない豪華なものに仕上げた。また、彼はパレスチナ外に住むユダヤ人のために、その宗教的習慣を守って生活する特権を獲得したりした。それにも拘らず、彼の評判はユダヤ人の間で一向によくならなかった。ユダヤ人古来の信仰を守るよりもヘレニズム文化の普及に熱心であったからである。神殿内では、異教の神々への礼拝が行なわれたし、カエサリアで行なわれた運動競技などは、敬虔なユダヤ人を嫌悪感で満たした。この時期はヒレルやシャマイなどの律法学者が現れて聖書解釈が深められた時であったが、これらの学者たちもこぞってヘロデ大王には反対であった。

 大王は自分の統治をユダヤ人の目に合法的なものと見せるために、マカベウス家の血筋を引くマリアムという王女をめとったが、嫉妬から彼女を殺してしまった。彼には十人の妻がいたが、ユダヤ人の目にはマリアムの生んだ二人の息子が当然大王の後継ぎであったけれども、長男のアンティパテル共々、二人ともハーレム内の策略で殺されてしまった。大王は死の直前にアルケラウスを後継者としたが、ローマ議会の決定が勿論必要であった。アルケラウスは自分が王として認められるようにとローマに出向いたが、パリサイ派を代表する五十人と、ローマに住むユダヤ人とが、アルケラウスに反対した陳情を議会に行った。皇帝アウグストゥスはユダヤを三分割して、ヘロデ大王の三人の息子たちに治めさせることを決意した(ルカ3:1参照)。







  ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の領主となった。つまり、ガリラヤ湖北東の地域で、住民は主に異邦人であった。ピリポが通貨に自分の肖像を鋳造させても、誰も文句を言う者がなかったのはそのためであった。ベトサイダやフィリポ・カイサリヤは彼が建てた町である。彼は兄弟たちの中では一番立派な領主であったと言える。彼が治めていた期間、地域は平和で、比較的に正義が守られていた。イエスもガリラヤを去ってからは、この地域で憩いの時を持たれている。後34年に彼は死んだが、その後の三年間、この地域はローマのシリヤ地区に編入されていたが、「使徒」12章に出てくる、ヘロデ大王の孫に当たるヘロデ・アグリッパ一世の支配下に後37年に入っている。後41年には、ヘロデ・アグリッパ一世が、ヘロデ大王の領地全部を治めることになった。

 ヘロデ・アンティパスが、前4年から後39年まで、ガリラヤとペレアの領主となった。ペレアはヨルダン川の東で殆どが砂漠であり、ユダヤ人は住民のごく一部に過ぎなかった。ガリラヤも、ユダヤ人が殖民されてからまだ百年程しか経っていなかったが、この地に住むユダヤ人は極端に外国の支配を嫌っていた。この地は肥沃で、エスドラエロンの平原がサマリアの高原からガリラヤを区分していた。ガリラヤ北方の丘は北に行くにつれて高くなるが、東には美しいガリラヤ湖を持つ地溝があった。ガリラヤ湖は海面下680フィートであるが、ヨルダン川から流れ込む水で新しくされていた。ヨルダン川は地球の陸地の最下地である死海に流れ込んでいる。ナザレは丘に囲まれた盆地にある。ヘロデ・アンティパスはナザレから数マイルの所にあったセフォリスに首都を定めたが、やがてティベリアスというガリラヤ湖畔に建てた町に首都を移した。ところがティベリアスが墓地の上に建てられたため、ユダヤ人はそこを避けたので、この町は福音書の中で一度もイエスの伝道地として書かれていない。

 イエスの伝道はガリラヤ湖の周囲が中心で、多くの村に囲まれていたカペルナウム、ママグダラ、コラジンなどの町が対象となっていた。今日ではこれらの地域は人の余り住まない所となってしまっているが、イエスの当時には過密なまでに人々が雑踏していた地域であったようである。

 イエスが直接関係を持った領主はヘロデ・アンティパスであった。イエスは彼を「きつね」と呼んでいるが(「ルカ」13:32)、これはヘロデの残忍さを言ったものか、ずるさを言ったものか。

 ヘロデはイエスの活動について、いち早く知っている。ヘロデの官吏の一人の夫人がイエスの弟子の中にいて、経済的にイエスの運動を支えた一人であった、とルカは言う(「ルカ」8:3)。ヘロデはイエスの運動をバプテスマのヨハネと関係づけて理解していたようである。イエスは自分をヘロデが殺そうとしていると告げられる。

 ヘロデ王は経済的な理由からであろうが、自分の姪のヘロディアスを妻とした。バプテスマのヨハネはこれを非難したのであった。

 ヘロデはヘロディアスと結婚するためにアラビア王クレタスの娘と離婚したので、アラビアとは不仲となり、後39年にヘロデが王位から引きずりおろされた原因はここにあったと言える。

 アルケラウスがサマリアとユダを含む、パレスチナの半分の領主となった。北の王国イスラエルの滅亡後のサマリアは、異邦人の坩堝(るつぼ)となっていたが、しかし、捕囚後に再建されたユダヤ教の礼拝にサマリアのユダヤ人も参加していた。そして、モーセ五書が編纂されてから大分経って分裂が起こった。サマリアのユダヤ人は五書を重んじたが、預言書を重んじなかったからであった。結局サマリアのユダヤ人は、ゲリジム山に自分たちの神殿を作って礼拝していたのだが、既に述べたように、この神殿はヨハネ・ヒルカーヌスによって前128年に破壊されたのであった。その後もサマリアのユダヤ人はゲリジム山で礼拝していたが、他のユダヤ人との交わりを断った。

 ユダの地は古いユダヤ教の中心地であったが、エルサレムもこの地にある。

 後6年に、アルケラウスは政敵によって統治の不手際をローマに訴えられ、領主の地位から降ろされた。その結果、ユダとサマリアはローマ直轄の地域となり、シリヤの領主クレニオがこの地の(税収入査定のための)人口調査の責任者とされた。それに対してはユダ(「使徒」5:37)が反乱を起こした。「ルカ」2章の記述にも拘らず、イエスの誕生をこの時とするのは、矢張り無理であろう。もしもその誕生をこの時期とすると、イエスが生まれたのは後6年以降となってしまうし、それ以前の人口調査は不可能ではなかったろうが、証拠がない。



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入力:平岡広志
2003.3.19