ユダヤ・キリスト教史 1997.10..21


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第23回 ――イエスの誕生物語と処女懐胎        (1997.10.21)



野呂芳男







 新約聖書を初めて読む大抵の人が驚くのは、「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」に載っている、イエスの父ヨセフの系図であろう。もしもマタイやルカが記しているイエスの母マリヤの処女懐胎が真実であるならば、私たち現代人の視点からすると、ヨセフはイエスの誕生に父としての実質的な役割を持っていなかったのだから、ヨセフの系図を載せても意味がないとしか思えないからである。しかも「マタイ」と「ルカ」では系図に記されている人々が違っている。確かにユダヤ人の父系社会では、父親の系図が大切であって、子供は皆、どの父親の子であるとして社会に受け入れられたのだから、例え通常の懐妊の結果の誕生でなかったとしても、イエスがヨセフの子として社会に受け入れられたのは事実であったろう。当時のこのような習俗を考慮すれば、余り現代人の視点を言い張っても仕方がないだろう。それはそれとして、両方の系図には立派な人物ばかりでなく、余り社会的には褒められない人々も入っているので、そこに真理を認める人々もいる。つまり、イエスの祖先の人々の中に、罪人が何人もいたのは、いかにも罪人を救いにきた人物に相応しい、という訳である。確かにそうだろうと私も思うが、それにしても系図に載せられた人々が「マタイ」と「ルカ」で違うのは、系図としての信憑性を失わせている。二つの系図の共通点は、イエスをダビデの家系としている点だが、これが恐らく二つの系図の狙いであっただろう。

 「マタイ」と「ルカ」に載せられているイエスの誕生物語も、全く内容が違っている。二つの物語の共通点はたった一つ、イエスがベツレヘムで生まれたことだけである。ベツレヘムはダビデの父エッセが住んでいたところであったが、二人の福音書記者たちは、イエスをどうしてもダビデの町で生まれさせたかったのだ。大抵の宗教の開祖が名門の出とされているように、イエスをどうしてもダビデの末裔として格づけたかったのだろう。本当はイエスが名もなき家系の出であって、一向に差し支えがないのに。

 「マタイ」によると、ガリラヤのナザレは元来ヨセフ一家が住んでいた地ではなく、一家はもともとベツレヘムに住んでいた。ところが、イエスの誕生の折に東方より博士たちが星に導かれてやってきて(これは恐らく、バビロニヤの発達していた天文学や占星術の大家たちもイエスに礼拝を捧げるためにやってきたという、イエスは全世界の救い主であり、高度の学問もイエスの前に跪くのだという、信者の信仰を表明した物語)ヘロデ大王(2:22のヘロデはヘロデ大王)に救い主の所在を聞いたため、大王はイエスを殺そうとした。それを前もって知らされたヨセフ一家は暫くの間エジプトに難を避けたが、大王が死んだ(前4年)と聞いてベツレヘムに戻ろうとしたが、その子アケラオ(前に述べたアルケラウスのこと)がユダヤを治めていたので、慎重を期してガリラヤのナザレに住むことにした。従って、「マタイ」を信じれば、イエスの誕生はヘロデ大王の死の前、前4年か5年ということになろう。

 「ルカ」によると、ヨセフ一家は元来ナザレに住んでいたが、シリヤの総督クレニオが行った人口調査のためにベツレヘムに出かけ、そこでイエスは生まれた。両親はイエスの割礼後ナザレに帰った。既に述べたように、クレニオが実施した人口調査は後6年からであったが故に、「ルカ」の記述を信じれば、イエスの誕生は後6年か、遅くとも7年頃となろう。つまり、イエスの誕生年は「マタイ」と「ルカ」で10年程の差がある。

 新約聖書の最初の方に置かれている四つの福音書は、今日では大体のところ、「マルコ」が後60年頃、「マタイ」が70年頃、「ルカ」が80年頃、「ヨハネ」が90年頃に書かれたと言われているので、「ルカ」よりも古い「マタイ」に従って――もっとも、東方から礼拝にきた博士たちの物語や、ヘロデ大王がイエスを殺そうとしたという物語は、イエスの誕生を装飾する付加であると思うので、事実ではなかったろうと私は考えているが――、イエスの誕生は恐らく紀元前4年頃ではないか、と思っている。







 処女懐胎は、四つの福音書のうち「マタイ」と「ルカ」だけにある記述であって、「マタイ」はそれをヨセフの側から、「ルカ」はマリヤの側から述べた形になっている。一番古い福音書「マルコ」が処女懐胎については何も知らないかのように全く記述しておらず、次に古い「マタイ」と「ルカ」がそれについて述べ、一番新しい「ヨハネ」がそれを完全に無視しているのは、考えようによっては、処女懐胎の伝承は「マルコ」以後に生まれ、次に二つの福音書がそれを記し、最後の「ヨハネ」はその伝承が間違いであるとしてわざと削除した、とも取れる。更に不思議なことには、処女懐胎は使徒たちの説教の中でも言及されておらず、ペテロもパウロもこれを知らない。パウロにしてもヨハネにしても、処女懐胎の奇跡によってイエスが神の子として宣言されたとは考えずに、永遠の昔からイエスは神の子であったとし、神の天地創造の業に参与したとしている。また奇妙なのは、イエスの母マリヤが、伝道しているイエスを気が狂ったのではないかと思い、イエスの兄弟たちと一緒に、連れ戻しに出向いてきたという記事があることである(「マルコ」3:21−31)。処女懐胎によって生んだ子に対して、このように振る舞う母を理解することは難しいだろう。だが、処女懐胎の体験がないが故に、ごく普通の子としてマリヤがイエスを見ていて、だいそれた伝道をしている自分の息子を気遣い、精神的におかしくなってしまったのではないかと心配し、イエスへの愛から彼を家に連れて帰ろうとしたと理解すれば、この物語も母の子に対する愛情物語と受け取ることができる。また、処女懐胎を否定する多くの学者が指摘する事実、イエスと母マリヤとの間には、余り親しみがあったようには見えないという事実――イエスがマリヤを母とは呼んでいない(「マタイ」12:46−50)――も、神から伝道者としての召命を受けたイエスが、伝道のために一度家を捨てた以上は、母も兄弟も今の自分には、かつてのような関係をもっていてはならない存在なのだという、強烈な召命感と一抹の寂しさを表現したものと解釈することもできる。

 それはともかく、処女懐胎の奇跡物語は、イエスの死後、弟子たちの間で、イエスはいつから神によって神の子と宣言されたかに関して、その時期を遡(さかのぼら)せて行った形跡がある事実と関連づけて理解すべきであろう。多分一番古いのは、イエスが神の子として宣言されたのはその復活によってである、という考えであっただろう。次はそれをイエスの公生涯の中途に求めて、ヘルモン山上でのイエスの変貌の出来事によって、としたものであろう(「マタイ」17:1−19)。次には、更に遡らせて、それをイエスがヨルダン川でバプテスマを受けた時であった、とする(「マルコ」1:9−11)。そして、「マタイ」と「ルカ」は、他にはその記述がない伝承、処女懐胎の伝承を持ち込んできて、イエスが神の子として宣言されたのは誕生奇跡によってであった、としたのである。そこでは、父親が聖霊に取って代わられている。

 それに加えて、私たちが考えてみなければならないのは、処女懐胎の信仰とギリシャ語に翻訳された旧約聖書との関係である。既に私たちが勉強してきたように「イザヤ書」にあるインマヌエル預言、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」(7:14)の「おとめ」は若い女性の意味であり、必ずしも処女を意味するものではなかった。ところが、前150年には完成していた(アレキサンドリヤで翻訳された)ギリシャ語旧約聖書では、「おとめ」が「処女」と訳されていたのである。なぜこのように訳されたかの秘密が解ければ、処女懐胎の伝承が生まれてきた宗教的・文化的背景を解明することができるかも知れない。

 いずれにしろ、処女懐胎という奇跡伝承を取り去ってしまう方が、聖書全体のつじつまが合うことは事実である。そして、この奇跡がなくても、イエスが通常の仕方で生まれたと考えても、別に私たちのキリスト教信仰には一向に差し支えがない。イエスがいつ何処で生まれたかが、信仰には関係がないのと同じである。私たちの信仰にとってなくてはならないものは、イエスの言葉、伝道生活、特にその十字架の死と復活なのであるから。







 しかし、処女懐胎の奇跡を否定しても、聖母マリヤへの信仰を否定する必要はない、と私は考えている。否、むしろ今日の宗教的・文化的状況においては、聖母マリヤへの信仰は果たすべき大きな役割を持っている、と私は信じるようになっている。但し、その信仰はフランスのルルドや、ポルトガルのファティマなどで、実際にマリヤの顕現があったことを土台としたものでなければならないだろうし、更にそれらの顕現への信仰を補完するものとして、聖母マリヤ信仰と大地母神信仰との積極的関係を肯定することも必要となるだろう。

 ローマ・カトリック教会が主張するような、処女懐胎やマリヤの無原罪の昇天などに対しては、私はそれらが聖書の中に確固たる根拠を持たないが故に否定的であるけれども、伝承によると、イエスの死後、マリヤは教会に属して信者としての生涯を送ったとのことであるから、自分の息子の生涯の意味を十分に理解するに至り、その死後は、イエスを助け、人々の生涯を幸福にするために私たちの世界に顕現し、イエスに代わって活躍して下さっていると信じても、一向に差し支えがない訳である。

 この世におけるマリヤ顕現への信仰を補完するものとして私が挙げたい事実は、例えば、かつて日本の隠れキリシタンの人々が、マリア観音の像を作って当時の政府のキリスト教弾圧に抵抗したように、信仰の内容からみて、マリヤ信仰と観音信仰とは一つであると主張してもよい程に似ているという事情である。学者の中には、観世音菩薩はインド南端の海に近い山の神で、漁師たちの安全を守る神であったのが、やがて仏教に取り入れられたものだと主張する人もいるが、観音は地蔵菩薩(クシチガルバ――大地の女神)と同じように、世界中に存在する大地母神に属することは疑えない。

 キリスト教史の極めて早い時期に信じられるようになった聖母マリヤ信仰は、キリスト教前のヨーロッパの異教の数多くに見られた大地母神信仰が、滅亡せずにマリヤ信仰に活路を見いだしたという事実がある。つまり、マリヤ信仰は大地母神をそれ自体の中に取り入れて発展してきたのである。マリヤ信仰においては、イエスの十字架と復活の反映が見られ、それ迄にしばしばヨーロッパの大地母神に見られた残酷さは影も形もない。

 これ迄のプロテスタント・キリスト教のように男性ばかりの神では、女性の悩みを心底神が理解して下さるか不安だという人々もいるかも知れない。プロテスタント信者も、カトリック教会やオーソドックス教会にならって、(病気の癒しや、生きることにつきものの不安を解消してくれる)マリヤ信仰を取り入れた方が良いかも知れない。







 ところで、ユダヤはローマの管区の中では最も小さいものの一つであった。総督はカイサリヤに住み、時折エルサレムに出張してきたが、その時には、ヘロデ大王が建てた宮殿に泊まった。たまたまイエスが逮捕された時には、恐らくは過ぎ越しの祭りの間の治安維持のためであろうか、総督ピラトはエルサレムにいた。

 ユダヤ人議会には大幅の権限が与えられていた。これはローマが経験を通して、ユダヤ人には自治して貰うのが一番治めやすいことを学んだからである。税金さえ納めてくれれば、ローマはユダヤ人を放って置いたのだ。そしてローマは何よりもその領土の東の果てのユダヤが平和であることを望んでいた。

 サンヘドリンと呼ばれたユダヤ人議会は、祭司・学者・長老たちの中から選ばれた71人によって構成され、議員の就任儀式は、議長が選ばれた者の頭に手を置くことによってなされた。大祭司が議長を務め、会議は神殿の一室で行われた。構成メンバーは、パリサイ派とサドカイ派とで二分する仕組みになっていた。

 議会はモーセ五書に関するあらゆる事柄を取り扱った。宗教上の罪に関しては、死刑を宣告することができた。

 ユダヤは、小さな議会とも言える裁判所を一つ一つが持つ小地域に分割されていた。これらが「議会と裁判所」として「マタイ」5:22では言及されている。しかし、サマリアやギリシャ人都市(複数)やイドマヤには、それぞれの政治形態が許されていた。

 総督は本質的には財務長官であり、かつ軍人であった。税金はローマの官吏たちによって取り立てられたが、しかし、実際にはその取り立ては、聖書の中で軽蔑されている取税人が(「マタイ」5:46)請け負った。取税人たちは特に国境の町カファルナウムやベトサイダに多かった。

 銅貨はパレスチナで作られたが、銀貨や金貨は外から流入してきた。これらにはシーザーの肖像が鋳造されていた。

 兵隊たちはローマ各地からの人間たちであった。ジュリウス・シーザーの時以来、一週のうち一日は武器を運ぶことを拒むユダヤ人には兵役が免除されていた。もっともユダヤ人が戦いの折に勇敢な民であることは、よく知られていたのだが。

 宗教上でローマがユダヤ人に求めたことは、ただ一つであった。それは毎日二匹の子羊と一頭の牛を、皇帝のために犠牲として捧げることであった。それ以外は何の干渉もなかった。それでもユダヤ人はローマの支配に満足してはいなかった。



→この頁の頭

←前の頁 次の頁→




入力:平岡広志
2003.3.19