ユダヤ・キリスト教史 1997.10.28


講義「ユダヤ・キリスト教史」



第24回 ――イエス時代の社会的・宗教的状況     (1997.10.28)


野呂芳男






 前にユダヤ人はローマの支配に決して満足していなかったと述べたが、具体的にはどんなことが起こったかというと、例えばポンティウス・ピラトが総督であったのは後26年から36年であったが、エルサレムの水道施設の改良のために、神殿の宝物の一部を持ち出して費用に当てたところ騒ぎが起こったし、彼の兵士たちが持ち歩く旗には、ユダヤ人の目には偶像と映るものが描かれていたので、兵士たちは旗の偶像を人目から隠すために布を巻いて持ち歩いたのだが、それでもユダヤ人たちの反発を招いた。

 (ピラトの任期が後26〜36年であったことは、私たちには重要である。というのは、イエスが十字架で殺されたのは、その任期の間であることが明瞭なのだから。後30年頃と見てよいのではないか、と私は思っている。)

 ユダヤ人がローマに反発した理由には、経済的なものがあったことを忘れてはならないだろう。福音書にしばしば出てくる場面、人々がイエスの周囲に押しかけてくる状態も私たちにその事実を想像させるが、この当時パレスチナは人口が増加して過剰状態であった。人々は人口が多くて住みにくい地で、貧困に耐えながら生活していたのである。それに加えて、彼らからは税金が二重に取られていたのである。政府への税金だけではなく、神殿税が取られた。個人の収入の40%はこれらの税金に消えた。従って、異教徒の支配を覆そうという急進的な意見に耳を傾ける人々も多かった。







 パレスチナの経済生活は、鉱物資源が存在しなかったので、主に農業で成り立っていた。そして、ナザレのような村々では、職人たちが手工芸で生活していたが、当時の資料によると、手工芸の種類は40種類もあったことが分かっている。だが、大部分の人々は土地を耕して生きていた。そして、ある者は大きな土地の所有者となり、執事を置いて管理させていたが、より多くの者たちは負債を抱え、遂には自分の財産を失っていった。また、「マルコ」(12:1−9)にあるぶどう園の喩え話のように、小作人として土地を借り、地主に一定の金額を支払っている人々もいた。更には、土地を持たずに日雇いで労働を提供しながら生活していた人々もいた(「マタイ」20:1−15)。

 主な農産物は穀物、オリーヴ、ぶどうなどの果物、であった。エリコの近くではナツメヤシも栽培されていた。良作の年には、人口が多かったにも拘らず、パレスチナは自給自足ができた。耕作に適しない土地では放牧が行なわれた。丘陵地帯では羊やヤギが飼われていた。また、ガリラヤ湖では漁がなされていた。しかし、穀物が不作の時や、雇用がなくなってしまうと、貧しい者たちには他人の物を強奪するより他に、生きる道がなくなってしまった。

 日雇い労働者の下には奴隷たちがいた。聖書で「僕」(しもべ)と訳されているのは奴隷のことである。ユダヤ人奴隷は6年間だけその身分であり、その後は解放されたが、カナン人奴隷は、その身分が永久であった。「マタイ」(25:14以下)にあるように、主人の金で奴隷が儲けたような場合には、その儲けは主人に属したのであった。

 ガリラヤのセプフォリスやエルサレムのような都市には、多くの商人たちがいた。彼らの商売で取り扱われた品物の種類は240種にのぼったようである。大衆と違ってこれらの商人たちは、大地主や銀行家や上級の祭司たちと共に、ローマに好意的な貴族階級を形成していた。この階級の人々には、大衆の間に広まっていった(現在の不満から救ってくれる)メシヤ信仰は無縁であった。







 マカベウス家の支配以降、ユダヤ教には大きな二派が形成されてきた。一つはサドカイ派で、これは古くからの貴族的家系の人々が属し、神殿を支配していた。派の名称は、ソロモン時代の祭司ザドクに由来すると言われている。この派は、モーセ五書には書かれていないという理由から、復活信仰を否定していた。また、ローマと友好的で、自分たちの利益を守るのにきゅうきゅうとしていた。彼らはエルサレムを中心に活躍していたが、エルサレム外の土地所有者の利益をも代表していた。

 もう一つはパリサイ派であったが、彼らの名称の起源は多分「分離派」を意味するものからきたのではないか、と言われている。律法を守らない一般の汚れた人々から、自分たちは離れているという自負を表現したものなのであろう。この派に属した人々の数は5000人程に過ぎなかったようであるが、民衆に対する影響力は甚だ強かった。この派の人々の目的は、律法を生活の全てに当てはめることであった。サドカイ派よりも律法の刑罰についての解釈が厳しかったし、彼らの伝承に律法と同じ権威を与えていた。従って、彼らの伝承としての復活を信じることができた(「マルコ」12:18、「使徒」23:8)。パリサイ派の人々はユダヤ教に属するもっとも敬虔な人々であり、今日のユダヤ教は彼らから発展してきたのであるから、イエスや原始の、また初代の教会に、彼らが反対したからといって、その事実を曲げることは私たちには許されていない。

 以上の二派の他にも、当時に影響力を持っていた諸派が存在した。その一つはエッセネ派と呼ばれたものであったが、この派の人々はギリシャのピタゴラスの影響を受けたユダヤ教の禁欲主義者たちであった。彼らは私有財産を放棄し、結婚を拒否してコンミュニティーを形成し、他人の子供たちを育てながら生活していた。そして、コンミュニティーに入りたいという意思表示をした人々に対しては、入る前に三年間の訓練を施した。商売的行為は禁止され、入団の誓いの後は一切の誓いが禁止され、動物犠牲も禁じられた。安息日を厳重に守り、心身の潔めの儀式を常に守った。イエスやバプテスマのヨハネが、この派と関係していたのではないかという学者もいたが、これを積極的に肯定する証拠は今のところ皆無なので、この説はとれない。

 もう一つは熱心党と呼ばれる人々であるが、彼らは直接的な政治的行動によって異国の支配から脱出しようとするパリサイ人たちであった。イエスの無抵抗主義は明らかにこの集団を意識してなされたものである。

しかし、これらの四つの集団だけでパレスチナが成り立っていた訳では勿論なく、異邦人も多かったし、どの集団にも属さないユダヤ人たちも沢山いた。







 それに、パレスチナに住むユダヤ人は、全世界のユダヤ人の一部分に過ぎなかったことを、私たちは忘れてはならないだろう。パレスチナ外のユダヤ人は普通ディアスポラと呼ばれた。バビロニア捕囚後には多くのユダヤ人がユーフラテス河の付近に住み着いた。エジプトには多くのユダヤ人がいたが、彼らはヘレニズム文化の影響を圧倒的に受けていた。アレキサンドリヤでなされた聖書のギリシャ語訳は、恐らくは前3世紀には始められていたと考えられる。この翻訳は70人の長老たちによってなされたと言われ、セプチュアジントと普通は呼ばれている。

 エジプトのユダヤ人について語る場合に、忘れられない人物はイエスと同時代人フィロンである。彼はプラトン哲学を聖書の記述のすべてから引き出してきたが、そのやり方は、今日で言う比喩的解釈であった。彼にならって初代や中世のキリスト者たちは、聖書の記述を比喩的に理解して、聖書とギリシャ思想とを融合させ、キリスト教神学を発展させていった。

 シリヤ、小アジア、ギリシャ、ローマのユダヤ人は、アラム語を話したシリヤのユダヤ人を除いて、他はすべてギリシャ語を話した。イエスの時代にはヘブル語は既に古語であって、神殿では使われていたが、日常生活では使われていなかったのである。イエスもパウロも福音書記者たちもヘブル語聖書を愛読していた形跡はなく、イエスは恐らく日常生活ではアラム語を話し、聖書は「タルグム」と呼ばれたアラム語訳を使われたのだろうし、パウロはギリシャ語訳聖書を読んでいたと思われる。



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入力:平岡広志
2003.3.27