ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化10


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 さて、此処に於いて、我々はキリスト者の完全(成人としての)の教義に入って行こう。このキリスト者の完全は、ウェスレーが、彼に神が託し給える委託物であるとなし、それを宣べ伝えるところに、彼の使命を見出していたものであった(註1)。

 ウェスレーの主張した完全とは一体如何なる事であろうか。彼は、ガラテヤ書2章の21節「我キリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今我肉体に在りて生くるは我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり」によって、消極的に、又、積極的に説明している。

 消極的に言えば、完全とは罪なき事である(註2)。アダムの堕落以後の肉体が魂を圧迫する故に、過誤は存在する。即ち、完全者といえども、知的には完全でなく、それ故に、それに伴う過誤からも免れていないのである。又、同様に、自然的な弱点から免れていない。要するに、完全者といえども、愛に反しない、従って罪ではない、諸種の無知、過失、弱点、欠点を持っているのである。「如何なる意味に於いて彼等は完全でないか。彼等は知識に於いて完全でない。彼等は無知から自由でない。又、過失からも自由でない。如何なる生ける人にでも、全知であると同様に、過失なき事をも期待する事が出来ない。又、彼等は弱点から自由でない。例えば、理解力の弱さ、又、遅さ、又、想像力の不揃いな速さ及び重苦しさ、其の他、言葉の不適当、発音の優美でない事等。又、此等に対して、人は、会話に於いても、態度に於いても、幾千もの名も知れない欠点をつけ加えるかも知れない。此のような欠点からは、彼等の霊が神に帰るまで、誰も自由ではない。又、我々は其の時まで、誘惑から全く自由である事をも期待出来ない。というのは、僕は其の主に勝らぬからである。併し、此の意味に於いては、地上に於いて、何らの絶対的な完全もない。誰も絶えざる成長を許さない程度の完全はない」(註3)。此の点に於いて、ウェスレーの意味した完全は、成長という意味を多分に包蔵する。それは未完成の完全であり、絶対的完全ではない。「併し(完全到達後)尚、彼は恵みに於いて、キリストの知識に於いて、神の愛と像とに於いて成長する。そして、単に死するまでではなく、全永遠に亘って成長するであろう」(註4)。

 積極的に言えば、「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、恩を尽くして主なる汝の神を愛すべし」「おのれの如く汝の隣を愛すべし」(マタイ伝22:37-39)という黄金律が我々の中に成就されることである。「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」(マタイ伝5:48)というイエスの御要求を我々が満足せしめる事である。それは「キリスト・イエスの心を心とし」(ピリピ書2:5)「キリストの歩み給いし如くに歩む」(ヨハネ第一書2:6)事である。「我々の意志、霊、及び力の凡てをもって神を愛する事である。これは次の事を含んでいる。即ち、何らの悪しき気質、愛に反するものは、何ものをも其の魂の中に残らないという事、そして、凡ての思想、言語、行為が純粋なる愛によって支配される事を含んでいる」(註5)。そして、完全者といえども、キリストの贖いを絶えず必要とする。如何なる意味に於いてであろうか。「彼等は、新たに神に対して彼等を和解さすためにキリストを必要としない。何故なれば、彼等は和解しているから。彼等は神の愛を回復するためにではなく、それを続けるためにキリストを必要とする。キリストは新たに父の赦しを、彼等のために獲得し給うのではなく、彼等のために執成しをなすために、常に生きてい給う」(註6)。「最も聖なる人であっても、尚、彼等の預言者として、世の光として、キリストを必要とする。何故なれば、キリストは光を各瞬間に於いてでなければ与え給わない。キリストが離れ給う其の瞬間、凡ては暗闇である。斯かる人は、尚、キリストを王として要する。何故なれば、神は潔さの蓄積(a stock of holiness) を与え給わない。即ち、人が潔さの供給を毎瞬間受けないならば、聖ならざるものの他、何ものも残らない。彼等は、尚、その聖なる事柄のために、贖いを為すための祭司としてキリストを要する。完全なる聖といえども、唯イエス・キリストを通してのみ、神に受け入れられ得るのである」(註7)。此処に、ウェスレーが毎瞬間(from moment to moment) と言っている事は注目すべき事である。彼の主張した完全は、キリストに固着しているのであって、贖罪者なるキリストを離れてあり得ない。而して、義とせられた時と同様に、「聖霊の証」と「我等の霊の証」とが存在し、それによって完全者は、自己が完全を与えられた事を知るのである。又、完全者といえども堕落し、又、滅びる事がある。それ故、完全者といえども、絶えざる神との緊張せる対決関係にある。

 此の完全者こそは、此の世界にとって「新しき被造物」であり(註8)、「疑いもなく、彼等に触る者は、言わば神の瞳に触れるのである」(註9)。





(註1)私は、兄弟ローが、全き聖化(full sanctification) に関して、より以上の光を持てば嬉しいと思います。此の教義は、神がメソヂストと呼ばれる人々に与え給うた偉大なる委託物であります。そして、主に此れを宣べ拡げるために、神は我々を起し給うたように思われます。G.Eayrs ;"Letters of John Wesley" p.173
(註2)故赤澤元造氏が、involuntary を「無意識の」と訳したのは誤解を招く恐れがある。ウェスレーは人間の罪は無意識の深さにある事を知っていたからである。むしろ「意向なき」とでも訳すべきであろう。赤澤元造訳『基督者の完全』84頁
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.12
(註4)Ebenda chap.19
(註5)Ebenda chap.19
(註6)Ebenda chap.25
(註7)Ebenda chap.25
(註8)真実に、此の全く新しい被造物は、狂える世界に対して、全くの狂気である。併し、それにも拘らず、それが神の意志であり、智慧である。我々皆がそれを追求するように祈る。Ebenda chap.21
(註9)Ebenda chap.19




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