ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化11
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ウェスレーが、「完全」という言葉を使用したのは、回心以前の事であり、その事は、「心情の割礼」(The circumcision of the Heart) なる、回心以前に出版せられた彼の説教に、此の語が使用されている事により明らかである(註1)。而して、其の構想は、表面的には生涯の間変化を受けず、終始一貫しての彼の主張であるが、回心以前の彼は、其の完全を自己の業をもって律法的に追い求めたのであり、回心という事件を分岐点として、彼は此の完全を、キリスト者の完全とし、神よりの恩寵の賜物となしたのである。それ故、内面的には、根本的に、回心以前と以後とに於いては「完全」という事柄が異質の事柄となったのである。
併し、一応、ウェスレーは義認と此の完全とを、第一の賜物、第二の賜物という風に、並列的な表現をしているのであるが、彼が、此の完全を、義認とは全然分離したという事は考えられない(註2)。その事は、彼が此の完全の与え主は、贖罪者キリストであるとなした事によっても明らかである。
我等の生命なるイエスよ、
日々、汝の死を死ぬる我等にあらわれ、
汝自身、完全者をあきらかにし、
活気の霊をそそぎ給え。
隠れたる秘密を開きて第二の賜物を与え、
我が中に汝の栄光をあらわし給え。
凡ての待ち望む心にも。(註3)
言わば、此の完全は、キリストの贖いに固着している(klammern an die Vers ö hnung ; K.Barth)事実であり、神の創造にも比すべき奇蹟的な、絶対的な恩寵として、瞬間的に与えられるものである(註4)。而して、此の第二の賜物の分与の時期は、神の主権の中にあるのであるが、一般的には、義認、新生の後、此の地上に於いて、或る瞬間に与えられるものである(註5)。此の或る瞬間は今であり得る。普通、一般の信者が死の際まで潔められないのは、求めないからである(註6)。而して、此の完全の瞬間的達成と言う事は、漸次的な聖化と矛盾しないであろうか。「人は、暫時の間、死につつあるかも知れないが、尚厳密に言えば、彼は死んでいない。魂が肉体から離れるまでは死んではいない。そして、その瞬間に彼は永遠の生命に住む。同様な仕方に於いて、人は、暫時の間、罪に対して死につつあるかも知れない。併し、彼は罪が彼の魂から離れる迄、罪に対して死んでいない。そして、その瞬間に、彼は愛に満ちた生命に生活するのである」(註7)。
(註1)此の説教は後に訂正されて、現在ウェスレーの説教集の中に取入れられている。併し、次の言葉は、彼が「完全」という言葉を、回心以前に使用した事を示している。「注意せられてもよいことであるが、此の説教は、公にせられた凡ての私の説教中、最初に活字に組まれたものである。これは、其の時に私が持っていた宗教の見解である。其の時でさえも、それを私は完全という言葉で呼ぶのを何とも思わなかった」Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.6
(註2)チャールスの「聖歌と聖詩」中の言葉で『基督者の完全』中に引用せられ、ウェスレーも承認せる句に、次の如き句がある。「第二の賜物に与からしめ給え」"the second gift impart"
(註3)Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.18
(註4)我々は熱心に警戒し祈るとも、我々の心や手を全く潔める事は出来ない。我々は次のような時まで、潔められないと言う事は確実である。即ち、神が我々の心に再び「潔くあれ」と語り給う時まで。そして、その時にのみ、癩病は潔められる。そして、その時にのみ悪の根、悪しき心は滅ぼされる。そして、生来の罪はもはや生存しない。併しながら、もし斯様な第二の変化がないならば、もし義認の後に於いて、瞬間的な救いがないならば、もし神の漸次的な働き(聖化のそれ)以外ないならば、(そして、漸次的な働きを誰も否定しない)その時には、我々は死ぬまで、罪に満ちてとどまることで満足せねばならぬし、又、満足出来る。Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.122
(註5)或る人が言うように、我々は次のように断言は出来ない。此の救いは全く一度に与えられると言う事を。神の子達に於いて、漸次的なものと同様に、瞬間的な神の働きがある。そして、瞬間に彼等の罪の赦しの明白な意識と、聖霊の住める証とのいずれも受けたという雲の如き証に欠けていないという事を知っている。併し、我々は何処に於いても回心の瞬間に、罪の赦しと、聖霊の住み給う証と、新し清浄な心とを受けた人があるという一例をも知らない。勿論、如何に神が働き給うか我々は語ることが出来ないが。Wesley ; "A Plain Account of Christian Perfection" chap.13
(註6)「一般に此れは、死の寸前まで与えられないか」「それは、それより早く期待しない人々には与えられない」「併し、それを我々は、より早く期待してよいのか」「何故期待していけないのか。尤も我々は次の事を容認するけれども。 (1)我々が此迄に知った信者の多数は、死の近くまでそのように聖化されなかった。――しかし尚、此等凡ての事は我々が今日そのようであり得ないという事を証しない」Ebenda chap.18
その瞬間が今であり得るという事は考えられないか。我々は他の瞬間に延期する必要がないではないか。今、今が受け得る時ではないか。今が此の充分なる救いの日ではないのか。そして最後に若し誰かが他の方法で語るならば、彼は我々の間に、新しい教義を持ち来る者である。Ebenda chap.14
(註7)Ebenda chap.19 1947wesley-11.html
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