ジョン・ウェスレーに於ける義認と聖化9




 さて、我々は、いよいよ彼の成人としてのキリスト者の完全の叙述に入らねばならないのであるが、その前に、彼の義認と聖化の教義と密接な結合にある、「霊の証」の教義を叙述することが適当であろう。

 ウェスレーは、ロマ書8章16節「御霊みずから我らの霊とともに、我らが神の子たることを証す」に従って、「聖霊の証」と「我等の霊の証」の両者を主張する。而して、前者、即ち「此の神の証は、事柄の本質上、是非とも我等の霊の証に対して先行的であらねばならないという事は、次の事を少しく考えれば明瞭である。我々がそうである事を自覚し、我等の霊が、我々が内的にも外的にも潔くあるという事を証する以前に於いて、我々は心に於いて、又、生活に於いて、潔くあらねばならない。併し、我々が少しでも潔くあり得る前に、我々は神を愛さねばならない。此の神を愛する事が、あらゆる潔さの根本である。さて、我々は彼が我々を愛している事を知る迄、神を愛し得ない。”我等、神を愛するは、神先ず我等を愛し給うによる”。而して、我々は、神の霊が我々の霊に対してそれを証するまで、我々に対する神の赦しの愛を知り得ない。それ故に、此の神の霊の証は、神を愛する我等の愛や全ての潔さに先立たねばならない。その結果、神の霊の証は、我々の全ての潔さについての内的自覚や、それらに関する我々の霊の証に先立たねばならない」(註1)。即ち、聖化と関係している「我等の霊の証」に対して、義認と密接に関係している「聖霊の証」は先行的であり、而して、神の子達の生活に亘って、此の「聖霊の証」は持続し、「我等の霊の証」と常に密接に結合している。具体的に此の「聖霊の証」とは何であるか。「併し、我等の霊の証に附加せられ、結合せられている神の霊の証とは何であろうか。如何にして神の霊は我等の霊と共に我等が神の子であるという事を証するのか。神の事柄を人間の言葉に於いて説明すべき語を見出すことは困難である。真実に神の子が経験するところの事柄を充分に表現するものは、何もない。(神によって教えられている誰でもに、以下の表現を訂正し、柔らげ、又、強めて呉れる事を望む)聖霊の証とは、それによって、神の霊が直接に私の霊に対して、私が神の子であり、イエス・キリストが私を愛し、私のために彼自身を与え、私の全ての罪が消され、私、此の私が神と和解しているという事を証するところの、魂の上への内的な印象(an inner impression on the soul) である」(註2)。而して、此の「聖霊の証」が心に対して明瞭にせられる仕方は説明を得ない。唯、「風は己が好むところに吹く」(ヨハネ伝3:8)と云い得るだけである。併し、信者は、事実としてその証が魂に現在しているという事を知っている(註3)。

 此の「聖霊の証」に即応する人間の態度は、キリストの十字架に対する信頼である。此の「聖霊の証」にウェスレーは救いの確かさを求めた。しばしば此のウェスレーの「聖霊の証」の教義は、彼に於ける体験主義なるものと見られるのであるが、併し、彼の此の教義は、義認論と結合せられているという事にその本質があるのであり、それは客観的なキリストの十字架の事実と結びつけられている信仰の事柄であり、ウェスレーが、此の「聖霊の証」なる教義で表現せんとした事は、神の恩寵を我々が有っているという此の事実を知り得るのは――即ち、その覚知は、此れまた、我等に恩寵により、聖霊の恩寵により生ずるという事なのである。

 此の「聖霊の証」による救いの確かさの獲得と同時に、自己の救いの認識根拠として、聖化と結合している「我等の霊の証」がある。それを具体的に言えば、自己が真実に救われているかどうかを、自己審査することである。信仰はその生活にその果を結ばなければならない。信徒は、人間が、自己の生きているかどうか、現在健康であるか病気であるかを直接的に自覚し得る如く、自己が神と隣人を愛しているか、神の戒めを守っているかを知り得る(註4)。即ち、「我等の霊の証」とは、信者の中になされたる神の業に対する人間的な証明であり、承認であり、自己自身の業を観みての人間的な信頼である。併し、此処に於いて、人は、救いのために自己の業により頼んでいるのではなかろうか。併しながら、「彼等(信者)は、彼等がかつて、より悪しき罪行を恥じたよりも、今、彼等の最善の忠順を恥じるのである」(註5)。而して、此の自己自身の業に於ける救いの確かさの認識は、神の恩寵の光による、神御自身が信者の中になし給うた業の謙虚なる認識である。「神は、善であるところのあらゆる事柄を我々の中になすばかりでなく、彼自身の業を照らし、そして、明白に彼がなし給うた事を示すのである」(註6)。それは、一切の信頼を神に投げかけたものであり、神の義の恩寵の約束にのみにより頼んでいるものであって、其処に於いても罪の赦しが中心なのであって、信仰の中で、終末的な希望に於いて、自己の中になされたる神の業の感謝に満ちた承認なのである。(註7)。





(註1)Wesley ; "Sermons on Several Occasions" Vol.?p.88
(註2)Ebenda Vol.?p.87
(註3)神的な証が心に対して明瞭にせらるるその仕方を私は説明し得ない。かような知識は私にとってあまりに驚異的であり、優れているので、私はそれに到達し得ない。風が吹く、そして私はその音を聞く。併し、私はそれが如何にして来るか、又、何処へそれが行くか語ることが出来ない。此の事柄は、その人の中にある霊以外誰も知り得ないように、神の霊を除いて誰も神の事柄の方法を知らない。併し、我々は事実を知っている。即ち、神の霊が信者に、かような子であるという証を与えるという事、それが魂に対して現在している間、信者は彼の子たる身分の 真実性を疑い得ない。それは丁度、彼が太陽の輝いているのを疑い得ないと同様であるという事を知っている。Ebenda Vol.?p.89
(註4)併し、如何にして我々が此れらのしるしを持つことが明瞭であるか。此の事が尚残っている問いである。如何にして我が神と隣人とを愛していることが明瞭であるか。そして我々が、彼の戒めを守っていることが。此の問いの意味が、如何にして我々自身にとって(他人にとってではない)明瞭であるかという事がある事に注意せよ。私は此の問いは、如何にしてあなたが生きているという事が明瞭であるかを探究することであるという事を彼に質問したい。又、現在あなたが健康であるか病気であるかという問いを提出することではないか。あなたはそれについて、直接に知り得ないが、同様に直接的な自覚によって、あなたは、あなたの魂が神により生きているのか、怒りから救われているのか、柔和な静かな霊的安息を持っているのかどうかを知るであろう。Ebenda Vol.?p.87
(註5)Ebenda Vol.?p.120
(註6)Ebenda Vol.?p.88
(註7)カルヴィンも此れと同様の教説を、彼の『基督教綱要』第三編14・18章に於いて述べている。



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