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人間論   野呂芳男    

初出:『教義学講座?』日本基督教団出版局, 1970年, 205-344頁

  ここに我々はキリスト教の理解する人間について考えようとするのであるが、何よりもまず問題になるのは、一体キリスト教に固有な人間についての理解、マルキシズムの歴史的唯物論やフロイド流の深層心理学などによる人間理解と同じ平面で主張され、これらの人間理解と互角に争い、その存在の権利を主張しなければならないキリスト教の人間理解というようなものはあるのだろうか、ということである。

 マルキシズムやフロイド流の深層心理学などと互角に争う一つの人間理解であるなら、それは我々の考えるキリスト教の人間理解とは違う。と言うのは、我々の見るところでは、これらの人間理解は、人間全体を把握して表現したものとは思えないからである。もちろん、これらの理解をもつ人々は、自分たちの立場こそ人間全体を把握したものであると言うであろう。しかし、そういう主張と我々は争う必要はない。彼らと一緒に、人聞理解の旅を行けるところまで行くのである。そうすると、彼らは止まっても我々は更に先の方に行かねばならないことが明らかになる。次のように言ってもよいであろう。キリスト教の人聞理解は、これらの社会科学や心理学の主張する人間理解を内に含むことができるが、それらよりもっと全体的なものである。人間を深みにたとえるならば、これらの人間理解が沈んで行った深みよりも、キリスト教の人間理解の方がもっと深いのである。そして、一番深いところに到達した者は、そこまで来ることのできなかった者たちの、あせりや欲求不満や、もっと深いところを知らないところからくる倣慢や、自分たちの到達したところが一番深いところであると信じこんでいる錯覚からくる誤りなどを、実に良く知ることができるのである。そういう意味で、キリスト教の人間理解はその他の人間理解に対する良き同情者・理解者であることができ、それらの誤り(病気)をいやすもの、救う者でなければならないであろう。

 次に、キリスト教の人間理解は、当然のことながらキリストによる神の啓示に根拠を置く。後に述べるところの人間の罪の状態にも関係するし、また人間が神に造られた者、すなわち被造者であるということにも関係するのであるが、自然のままでは人間は神を知らない。この場合、「知る」というのは思弁的な知識の意味ではなく、人格的に知るということ、交わりつをもつということであるが、人間はキリストを通してほじめて神を知るのである。そして、我々の主張は、人間がキリストを通して神を知るようになった時、彼は真に生きはじめる、自分自身を深みから理解するようになり、たどたどしい歩みであろうとも、とにかく、人間としてのあるべき姿に到達するための道を歩き始めるのである、というにある。したがって、神の理解と人間の理解とは、相互に有機的関連をもたないかのごとく、別々になされてはならない。実のところ、両者は同時になされなければならないのである。それゆえ、ここに人間の理解を主に論じるとしても、それは論述のための便宜からそうするのであって、神の理解を絶えず考慮しつつなしているのである。


1 被造者としての人間

 新約聖書の人間理解が、旧約聖書のそれを前提としていることは言うまでもないであろう。創世記第一章および第二章にある天地創造の物語によると、神はその意志と力によってあらゆるものを造られたあと、被造物の冠とも言うべき人間を造られた。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)。そして、人間は神から、自分より低い存在――「海の魚と空の鳥と、地に動くすべての生き物」(2:28)――を支配する権利と義務とを与えられたのである。また、神がご自分の「造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(2:31)のである。

 人間を含めてのこの天地創造の物語を、人間に関する生物学的・人類学的・心理学的記述として考えたり、天地創造に関する自然科学的見解の記述として考えることを、我々はやめなけれぱならない。この聖書の記事と今日の科学知識との矛盾や衝突を言うことをやめて、聖書がそのために本来書かれたその目的を、この記事から聞きとらなければならない。その目的とは、我々に信仰を与えること、我々を神との交わりの中に入らしめることなのである。

 そういう角度からだけこの記事も理解しようとする時に、第一に考えなければならないことは、人間が制限をもった存在であるということである。神と比較して人間が、知識や能力や才能において制限されていることはもちろんであるが、それよりも、人間は交わりの中でしかほんとうには生きられないという仕方で、根本的にその全存在を制限されているのである。

 人間が孤立して生きてはならないし、それでは深く人間らしく生きられない存在、交わりを意図されている存在であるということは、そのしるしを端的に男・女という性別の中にもっている。「また主なる神は言われた、
人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(3:18)。この目的のために神
は、男から女を造った、と創世記は我々に告げている。『失楽園』の詩人ジョン・ミルトンがこの聖句から洞察したように、結婚や性愛の目的は、実に人聞が孤立から解放されるというところにあるのである。(1) 男は自分の女に出会うことにより、真の自分を発見し、それになって行く道を歩み出すのであり、女もまたそうなのである。マルチン・ブーバーの有名な基本語を用いるならば、「我」は「汝」に出会うことにより「我」になって行く。(2) また、異性間の結婚や性愛でなくても、我々は類似の孤立からの解放を友情の中にも発見し得るのである。

 ところが、人間は異性の「汝」を発見したところで、また、友人を発見したところで、根元的な孤立や孤独の淋しさからは解放されない。人間の求める孤立からの解放は、「汝」としての人間では最後的に満足させられず、人間を越えて絶対者に向かって行かざるを得ない。

 それゆえに我々は、男女間の愛を、それ以上のものを指し示すしるしとして指摘したのであった。男女間の愛は、絶対者と人間との関係を、――人間が人間性を成就するために交わりの必要を持っ存在であるという観点から見る限り、――指し示すしるしなのである。

 ここで論じられている絶対者は、哲学的思弁が問題にするような絶対者ではなく、絶対の愛を人間に注ぐ存在の意味である。神はこのような絶対愛の存在として、ご自分をイエス・キリストを通して人間に啓示された。人間が自分でも気付かないでいるかも知れない自分の最も深い欲求、こちらが裏切っても向こうはこちらを裏切らないような愛をもって「汝」と交わりたいという欲求は、実にイエス・キリストを通してご自分を啓示される神を信じることにより、根元的に成就されるのである。

 このように人間が神の被造者であることは、絶対の愛を示される神との交わりの中にしかほんとうに人間らしく生きられないという制限を意昧するのであるが、しかし実際には、神を知らない人間は、疥癬をかきむしる人のように、孤独の淋しさをほんとうにはいやすことのできないものによって解決しようとあせり、絶対の愛を周囲の人々から求めることによりますます深い孤立の中に落ち込んで行く。こういう状態こそ聖書の言う偶像崇拝でなくてなんであろう。偶像崇拝とは、神からしか期待してはならないものを、神でないものから期待する人間の心の姿勢を言うのである。

 第二に人間が被造者であるということとの関連で取り上げられなけれぱならないのは、人間における神の像の問題である。前にもあげた創世記の言葉、「神は自分のかたちに人を創造された」が、神の像をめぐる神学の議論を引き起こしたのであるが、神学の議論において問題になるのは、直接的には聖書のこの記事の著者が「神のかたち」によって実際何を言おうとしたかではない。そのことについても多くの解釈がなされているようであるけれども、神の像に関する神学の議論は、他の被造物と異なって特別に人間にだけ、神がご自分の像をお与えになったとすると、人間が他の被造物に比べて特にすぐれている点、その神の像とは、具体的に言って人間の中の何なのであるかということをめぐって展開されてきたのである。

 大体において初代教会の教会教父たちは、それが人間の理性であると主張した。人間が道徳的に責任をもつ存在であるのは、人間が事柄を考えたり、反省したりして判断し決断するからである。すなわち、人間が理性的動物であるからであり、この能力によって人間は他の被造物よりすぐれており、独特な存在なのである。神の像をめぐる神学の議論が、我々の信仰にとって重要なのは、それに関する一つ一つの意見が、神と人間との交わりの性格を、一つ一つ別の色彩で色どるからである。例えば、教会教父たちの理性主義的な人間理解、人間の一番重要な能力を理性であるとする見解は、当然交わりの相手である神にとっても理性が最重要な属性であるとするようになる。この理性主義には、もちろん、フラトンやアリストテレスの哲学の影響があった。プラトンのイデアの世界にしても、アリストテレスの自らは少しも動かずして他を動かす存在にしても、教会教父たちの理性主義と軌を一にするものである。理性主義的な神理解および人間理解は、動よりも静を好み、実践よりも瞑想を好むような信仰のあり方を生む。この世の泥沼のような汚濁の中にとびこんで、人々の魂を愛し、人々の生活の向上をはかるよりかは、それから外に出て天国を夢見ることを好むのである。こういう理性主義的な人間理解が、中世の修道院の理想と結び付いていることほ、それ以上言わずとも明瞭であろう。

 人間の特質としても神の属性としても理性が重要なものであることはもちろんであるが、理性主義はそれが神や人間の本質としたところが間違っていた。それはキリストにおいて人間にご自身を啓示される神の本質、また、それから理解される人間の本質としては物足らない。人問の救いのために十字架の死をとげられたキリストを通してご自分を啓示される神は、愛こそその本質でなければならない。また、キリストを信ずる者は、そういう愛の神と交わるところにのみ、本来的な人間の姿が回復されてくることを告白している。人間の生の土台が愛であることを確認する時に、我々はこの世の外に出るところに人間の清さを求める訳には行かない。むしろ、人間の清さはこの世のよごれの内にとどまりっっも、人を愛し抜くその愛の情熱の強度以外の何ものでもないであろう。

 ラインホルト・ニ−バ−は人間のもつ神の像を、有限の自由 finite freedom であると理解する。(3) 人間は周囲の歴史的環境から、ある程度ではあるけれども、超越している。すなわち、環境によって全くは支配されておらず、それを人間はある程度支配し得る。ニーバーによれば、完全に歴史的環境を支配し得る自由をもつのは神のみであり人間の自由は有限である。有限ではあるけれどもこの自由のお蔭で、人問はある程度時間の流れをも超越している。いわば時間の流れから少し頭を出して、過去を見たり将来を予想したりすることができるのである。現在の中にありながら、記億の中に遇去を、希望の中に未来を所有しているのであり、未来の希望を実現するためには、現在何をどういう方法でなすべきかを、記憶の中に保存されている過去の個人あるいは集団の体験から学ぼうとする。このようにして新しい未来を創作しつつ人問は、その自由を行使するのである。したがってニーバーにおいては、人問における神の像は、人間の歴史創作性と密着する。

 人間における神の像についてのニーバーの理解を紹介しているうちに、我々は人間の自由に関する彼の理解についても述べざるを得なかった。そして、彼のこの点での理解は正しいものであると思うのである。聖書においても、他の被造物から区別されたものとして、人間は神から律法を与えられ、それを守るように要求されている。これはもちろん、ニーバーの言う有限の自由が人間に存在するからであって、それがなければ神の律法の要求は意昧を失う。人間に対する神の忍耐と愛も.強制によってではなく人間が自由に神のところへ帰ってくるのを神が待っておられることの表現なのである。神と人間との関係が、自由なる人格的な両者の交わりと考えられる以上は、これは当然である。

 しかし、ここにニーバーに賛成しながら我々が展開してぎた人間の自由は、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)とパウロが言う場合の自由とはことなる。ここに、パウロが言うのは、罪への奴隷状態から解放された自由、すなわち、罪からの自由である。仮にニコラス・べルジァーエフにならって(4)、ニーバーとの関連で我々が論じて来たものを第一の自由、ここで言うものを、第二の自由と呼ぶならば、人間が第一の自由を行使してキリストを信じて第二の自由の状態に入るのであるから、両者は密接不離であるけれども、第一の自由は人間の決断を指し、第二の自由はそれによって生じた状態であるという意味で、両者は一応区別された方がよいであろう。

 ところで我々は、ニーバーの人間の有限の自由および創作性としての神の像の理解に戻らなけれぱならないのであるが、既に述べたところから推測されるように、我々は彼の立場に対して強い親近惑を覚えている。しかし、神が歴史に対して自由に創造的であるのは神が愛であるからであり、それに呼応して、人間の有眼の自由による歴史創作も、愛から出たものでなければならない。キリストによって啓示された神の愛に根差さない創作性は、悪魔的なものになりかねない。その点でニーバーの神の像の理解は不十分であると言わざるを得ない。

 次に考慮しなけ’れぱならないのほ、エミール・ブルンナーの理解であろう。周知のカール・バルトとの自然神学論争を経過した後、ブルンナーは人問における神の像を、神に対する人間の応答性(Verantwortlichkeit)として理解する。アダムの堕罪前に人間がもっていた神の像は、実質としてはアダムの堕罪によりすベての人間から失われてしまったが、それは形式としてはすべての人間の中に残っているのであって、これがなければ、人間は人間であることをやめる程に人間存在にとって中心的なものであるが、それは神に対しての人間の応答性なのである。この応答性のゆえに、人間はどこにいようとも何をしようとも、意識的にか意識下の領域での苦悩や想像においてか、神の前に罪責感を持たざるを得ないのである。ブルルンナーはこのような仕方で、人間がキリストを信じて神との交わりに入る前にも、何らかの形で、人間と神との自然的な関係を肯定しようとするのであるが、我々がブルンナーの神の像の理解において疑問に思うのは、彼の人間と神との自然的な関係が、神の怒りや審きに偏していることなのである。ブルンナーはルターの隠されたる神(Deus absconditus)の思想に言及しながら、キリストにおいて啓示される神を愛とし、キリストの外において人間と出会う神を怒りとしているけれども(7)、こういう思索がこの神の像の理解にもその片鱗を見せている。しかし、神と人間との自然的な関係においても、何よりもまず愛が土台になっていることを我々は主張しなければならない。

 キリストにおいてご自分を愛として啓示される神は、キリストの外においても愛なのであり、ブルンナーのような神の愛と神の怒りとの断絶を極力排斥しているのはカール・バルトであるが、それは言うまでもなくバルトの神学的思索がすべてをキリストにおける啓示から理解しょうとするからである。(8)

現代の神学史上あまりにも有名になってしまった自然神学に関するバルトとブルンナーの論争で明瞭であるように、バルトによれば、アダムの堕罪によって人間における神の像は――少なくとも、神に対して人間がか積極的に働きかけ得る能力とか結合点とかいう意昧においては――完全に破壊された。人聞を神に結合させるようなものほ、もはや何ものも人間の中に残存していないのである。(バルトのこういう主張が、神の恵みの主権、人間の救いは全く神の恵みのみによるのであり、人間の側からは神に近づくことはどんなにわずかでもあり得ないという事実の確認を意図していることはもちろんである。

 信仰のみによって義とされるという.フロテスタンティズムの原理をバルトが守り抜こうとするのに対して我々は、深い敬意を払わざるを得ないのであるが、バルトのように人間における神の像を少なくとも上述の意味では完全に否定し、人間の側から神の方へ向かって歩み出すという事実を少しも認めない時には、キリストの外なる自然的な神と人間との関係を、人間がキリストによらないでも神を求めざるを得ず、それを求めて苦悩しつつある存在であるという事情のもつ積極的な意昧を、少しも認めないことである。こういう事情を認めない場合には、キリストを信じることがもはや、人間らしい出来事であることを止め、キリストによる啓示という石が上から落下し、たまたま犬にあたって犬が驚いたというのと、実質的に変わりがなくなってしまう。我々はブルンナーが、人間における神の像を実質と形式とに区別したことに対して、その作為性を感じ取り同感できないのであるが、――実質と形式の区別が不明瞭であるし、両者は分けられるものではないであろう――しかし、ブルンナーが応答性によって意図したものには賛成するものである。

 我々はブルンナーの意図したものを、真実の愛を求めざるを得ない人間の自由として理解したいのである。こで言う「自由」は、前述したところのへルジャーエフの第一の自由であるが、人間らしく神を信じるということは、自分が真に生かされるのは、キリストによってご自分を啓示される神の愛を信じ、それを土台にして生きる時だけであるということを、いろいろな人生の体験、自分をほんとうの深みから生かしてくれるものは何であるかを探し求め悩み抜く自由の体験を通ってきたものなのである。否、通ってきたという過去だけに支えられて神ヘの信仰というものは存在するものではない。そういう体験は今も続いているのであり、信仰とはそういう模索の体験の中で、神を信じることだけが自分をほんとうに生かしてくれるのだということヘの自由の決断の中でのみ存続し得るのである。

 そうすると、バルトが人間における神の像を上述の意味で全く否定し去った時の真理契機はどうなるのであろうか。と言うのは、確かにバルトの主張するように我々プロテスタントは、自分たちの救いが全く神の恵のみによって成就されるものであると信じ、それを告白している。バルトの誤りと我々が考えるのは、神の自由と人間の自由との出会いや交錯を、同一平面上の物体の衝突のように考えて、一方が前面に出てきた場合には、もう一方は退かねばならないとしたところである。人格的なもの同志の愛の出会いや交錯は、そういう事情とはことなり、相手を積極的に愛するというその姿勢の中で、自分は全く受動的に相手の愛のとりこにされたとの実感をもち得るのである。神の恵みと人間の第一の自由とは、こういう逆説的な体験であるが、逆説とは、表面上論理的に矛盾するものが、我々の体験の深みにおいては、相互に矛盾せず調和していることを言うのである。

 これまで論じてきたことを通して、人聞における神の像に関する我々の理解が、神への愛であることは明らかであろう。神の像を神ヘの愛と理解する時に、人間が究極的な存在者たる神との交わりを求める存在であること、人間が自由なる存在であること、神の像が人間存在全体にかかわるものであることなどの真理を、十分に取り入れることができるのである。


2 人間に委託された世界管理

 人間に関する事柄はすべて人間が被造者であるということの中に含まれてしまうのであるから、別の項目を設ける必要はないかもしれないが、一応便宜のために幾つかの項目を設けることにしたい。ここで取り扱いたい主題は、創世記の創造物語において、人間が神から自分より低い存在に対する支配権を与えられたという叙述に相応ずるものである。

 既に引用した聖句「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1:31)は、
この世が人間にとって生きるに値する場であることを意昧し、キリスト救信仰が厭世観ではないことを言うものである。神による天地万物の創造への信仰は、人生ヘのある意味での楽天的見解を含む。キリスト教信仰にとって、人間が生きるということは、究極的には喜びでなければならないのである。しかしながら、キリストの十字架と復活とを信じるキリスト者にとって、その喜びは、苦しみや悲しみを通過したもの、言わばその奥底に見出されるようなものであろう。

 造られたこの世界がはなはだ良いと言うことは、この世に不条理や悪や罪が存在しないということではなく、それらは実際人生の深刻な現実なのであるが、それらを回り道したり、つきぬけたりしたがら、それらにもかかわらずなおも、人間を深みに徹して生きさせ、生きることの喜ぴを体得させてくれるような、神の力が力強く我々の人生に働いていて下さるということなのである。これを知るのは、もはや論理の力によるものではなく、その中に入り込んで生きてみるという体験による。人生の袋小路、せん方つきた場所においてさえ、それを我々のために役立たせてしまう力が働いているのであり、それはイエスの十字架という袋小路、人間的にはせん方つきたところを、復活という命にまでつき抜けさせた神の力と同じものである。それゆえに、キェルケゴールの言うように絶望は罪なのであり、信仰は希望であり喜ぴでなければならたいのである。(9)

 このことは、この世の生命だけで人間は全く満足しなければならないというような、死後の命の否定を必ずしも意味しない。しかし、中世の信仰者の多くがそうであったように、この世の命を死後の命のための単なる準備の場と見ることはどうしても否定されなければならない。そういう信仰の姿勢からは、この世からの逃避と人間性否定の禁欲主義しか生まれてこない。ルネサンス以来の近代における人間性の肯定の思潮、現世肯定の思想は、その基本的な姿勢において承認され肯定されなければならないものである。その意味では、キリスト教の福音はこの世の人間の生を徹底的に生かし抜く世俗性(secularity)をもつものであり、死後の命のために、たとえわずかであろうとも現世の命をそこなうことは、隣人に対しても自分に対しても許されてはならない。神による創造が善であるというのは、こういう世俗性を指し示すものであろう。

 もちろん、我々はここで世俗性と世俗主義(secularism)を区別して用いている。既に述べたょうに、世俗性とは、神による創造が善であるということの感謝に満ちた承認から出発したこの世の人間性の肯定であるが、世俗主義によって我々が意味するものは、人間が神による創造において、真実の愛を求めざるを得ないものとして造られているという事情ヘの否定、したがって究極的には人間性の否定に行きつかざるを得ないようなこの世の謳歌、現世至上主義なのである。世俗性と世俗主義とは、現世に生きる人間の生き方を、来世から借りてこないという点で共通性をもつものである.か、キリスト教の福音は、世俗性の名において、世俗主義に反対しなければならないであろう。

 哲学者ニーチェなどは、この世における人間の生を十分に人間らしくおくらせないという理由から、キリスト教の来世信仰、死後の命の信仰に反対したのであるが、我々は彼の神ヘの反逆や死後の命の否定が、人聞性に忠実であろうとする誠実さから出ていることを思い、彼の主張の中にひそむ真理契機を謙虚に承認しなければならない。この世の命を死後の命の準備段階と考えるところでは、ニーチェのキリスト教ヘの反逆がどうしても正当性をもってくる。この意味で彼は世俗性の擁護者であったのである。

 しかし、イエスの言葉の中には、明白に世俗性の肯定と思われるものが存在する。それは復活を信じないサドカイ人とのイエスの話の中に見られるものである(ルカ20:27-40)。サドカイ人の質間はモーセの言葉、「もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない」を根拠にしているものであり、七人の兄弟がいたとして、長男が妻をめとり子なくして死に、次男・三男というように次々にその女をめとり、七人とも子をもうけずに死んだとすると、復活の時にこの女は、七人のうちのだれの妻になるのか、というのであった。それに対するイエスの答えほ、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」というのであった。

 このイエスの言葉には、私が私であるということは死後の命においても存続するものであって、そこにおいても個人格は、汎神論の神の大海に没入して解消する一滴の水のごときものではないことが確認されているとともに、死後の命の状態とこの世における人間生活とが全くことなるものであり、類似的に考えてはならないものであることが明らかにされている。したがって、我々はこの世の生活を来世のための準備段階と考えてはならない。我々のこの世の生は、この世だけで一応完結しているのであり、そこでの我々の生き方は、来世のような他のところから学んでくることのできるものではない。人間がこの世から来世にもち込むことのできるものは、愛の人格だけであってどういう仕方で隣人を愛したらよいかという生き方ではない。

 それゆえに、愛の人格を形成するところとしてこの世の生活を考え、愛の人格が死後更に成長し行くことを願うという意味で、この世を来世のための準備段階と見ることはできるであろう。しかし、ニーチェたちが攻撃したのは、そういう意昧でのこの世の見方ではなかったのである。そして、彼らの攻撃の正当性は、今日においてもなお残っている修道院的な理想を見れば一目瞭然である。そこには、来世を獲得するための現世における人間の生き方の規定がなされている。しかも、こういう生き方は、修道院をもつカトリシズムだけの中に見られるものではなく、修道院を廃止した.フロテスタンティズムにも見られる。

 我々の見解によれば、人間は愛だけに制約されて生きねばならないとキリスト教は告げているのであり、愛は生き方ではなく、生きる姿勢である。ところがプロテスタンティズムにおいてさえ、生き方を、死によって完結するこの世の生をどうしたらもっとも豊かに人間同志が互いに生かし得るかという観点から発見しようとはせずに、しばしば安易にも、既に神から与えられている一つの生き方、この世を来世の準備とする一つの生き方を示す律法が存在するとなした。

 ところがこういう態度は、修道院を廃止したルターの福音理解とも反するものである。キリストヘの信仰のみによって神に受容されるという福音の理解をつらぬけば、来世に我々が受容される条件はキリストヘの信仰のみであり、この世での我々の生のおくり方がどうであるかというような功蹟には依存しないはずである。福音の真理はこの世をこの世なりに我々に深く楽しませるものであり、世俗性に徹するもの、神による創造が善であるという事情と直結する。

 今日の神学界においては、世俗性に徹しようとする神学の潮流の中にも、現世と来世との関係に関しての三つの立場が見られるように思われる。第一は、現世に徹するためには、死後の命ヘの信仰は邪魔にこそなれ益にはならないから、この信仰を棄ててしまわねばならないとする立場である。神の死の神学者と呼ばれている人々の中にその侮向が見られる。第ニは、死後の命が存在するかしないかは確定できないのであり、そういう不確実な中でこの世の生を生きることこそ、まさにこの世の生を生きることなのであると考え、世俗性を死後の生の不確実さにおいて把握しようとする人々である。例えばアルバート・シュヴァィツァーの「生ヘの畏敬」の思想には、それが見られる。第三は、正しい仕方で現世と来世との区別を把握するならば、死後の命を信じたところで別に世俗性の立場と矛盾しないとなすものである。この三つの立場の中でどれが正しいものであるかは早急に決定しかねるところがあり、世俗性をどうしたら徹底したものとして自分のものにできるかということについての我々各人の体験と反省の中で決定されるべきであろう。この拙論では、今のところもっとも一般性をもち、多数の信者が受容できるのではないかと思われる第三の立場によって一応論述を展開しておきたい。

 そういう立場に立つならば、キリスト者にとって、死は二重の意朱において把握されなければならないであろう。我々もキリストヘの信仰によってバウロとともに、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どにあるのか」(第?コリント15:55)と言えなければならないし、「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」(ピリピ1:23)とも告白できなけれぱならない。それは我々がこの世では許されないような神との交わりが、来世においては可能であるという、神からの恵み深い約束を信ずるからである。しかし同時に、我々はそのパウロが、この世の中に「罪」の後について「死」が入り込んできたとなし(ローマ5:12 以下)、人間を支配する悪鹿的なものとして死について語っているのに気付く。パウロにとって死は、それを迎えることを単純に喜べないもの、それに向かって抵抗しなけれぱならならないもの、「最後の敵として」キリストにより「滅ぼされ」(第?コリント15:26)ねばならないものなのである。

 上述の第三の立場に立って考えて行っても、この世の生にあって既に死んだ者であるかのように生きること、神の与えて下さるこの世の喜びに目をつむってひたすらに天国に向かって目を注ぐように生きるとは、キリスト者のなすべきことではない。スペインの宗教裁判においては、異端者を処刑するに当たって、司祭たちがその異端者の身体は処刑するが、その魂は天国に救われるようにと祈ったそうであるが、こういう宗救性、この世に生きることの喜びをそれ自体として肯定せずに、天国のために生きないような人はこの世に生きる価値もないと主張するような宗攻性は、断固として排斥されねばならない。そこに一見矛盾しているようであるが、死んで主と共になりたいと顕うパウロが、アジアで出会った患難から、死の危険から救われたことを率直に神に感謝している理由があるのである(第?コリント1:8 以下)。

死によって私が私であるということ、私の個の人格が虚無に没入するという恐怖からは、我々は第三の立場に立つ限りキリストヘの信仰を通して解放されている。しかし、神が我々に、この地上で楽しむようにと与えて下さった喜びから別れて行かねばならないのであるがゆえに、死は悲しいのである。そして、死後我々は今よりも神との深い交わりの中に永遠に生きられるということが信仰によって確定している以上、我々ははそこに急いで行く必要はない。せっかく神が与えて下さったこの世の喜びを十分に楽しんで行かないというのは、神に対して申し訳ないことである。来世と現世とでは、神の与えて下さる喜ぴが次元的区別をもっているのであるから。

 自然科学上の発見や宇宙への人間の探索が、その人間生活への具体的な効果は一応別としても、研究や探索それ自体が人間に喜びを与えてくれる。その喜びは必ずしも、天国に我々が救われて行くということと結ぴ付かないであろう。それでよいのである。しかし、我々の信仰によれぱ、この世での人間の最上の喜びは、それが苦しみの道であっても、身近な隣人たちへの愛の実践、また広く社会全体ヘの政治的.経済的実践を通しての愛にある。こういうものから別れて行くので、死が悲しいのである。

 神の前での個人格の愛の形成というところでは、来世も現世も継続一貫しているのであるが、その愛の展開の場である生のあり方、その生の喜びの形態においては、両者に次元的区別が存在るのである。したがって、キリスト教倫理はこの世での人間の生のあり方を愛し抜くということに、世俗性に徹しなければならない。(10)

ところで、神によるこの世の創造が良きものであり、人間も他の被造物と同じように神によって造られたということは、人間と他の被造物との連帯性とともに、それヘの愛を持たなければならないことをあらわす。人間の身体は他の被造物と連なっているものであり、そして、それは良きものなのである。身体が悪であるとか、身体そのものが罪の原因であるとかいう思想は聖書には縁遠い。プラトン哲学のもっていた、身体は魂の牢獄であり、人間の救いはこの牢獄から解放されるところにあるというような思想は、聖書には見られない。一例をあげるなら、ローマ人ヘの手紙第7章などは、パウロが人間の罪を身体と接近させて論じた顕著な個所であると思われるが、それでもパウロの描く罪はむさぼりというような意志的なものなのである。身体のもつ必然的な欲求が罪とはされていないのであって、その欲求が意志によって利己的なむさぽりに転化された時に、それは罪となる。

 更に、聖書において身体そのものが悪とされていないことは、その死後の命の考え方の中にも明らかである。霊魂だけが神のところに行くというような、いわゆる霊魂不滅の思想は聖書にはない。それが具体的にはどういうものであるかは分からないが、霊的な身体ではあっても、死後の命をとにかく身体をもったものである復活としてしか聖書は告げていない。

 このように身体は良いものなのであるから、身体を単に責めさいなむことを良いとするような意味での禁歓主義ほ、キリスト教的と言うよりは異教的なものである。したがって、聖書においては、男女の性もそれ自体としては良いものと考えられている。中世紀的な性の禁欲をそれ自体良いとする思想は、聖書には見られない。聖書の真理にもとづいて世俗性に徹しながらも、我々の生活に禁欲が意味をもっとするならば、それは、自分の使命と信ずるこの世での喜ぴの探求のために、他の喜びヘの欲望を棄てる時のみであろう。

 神に造られたことにおいて他の被造物との連帯性を感じる人間は、自然への愛をもたねばならないであろう。そこにアルバート・シュヴァィツァーの「生ヘの畏敬」の思想や、アッシジの聖フランチェスコの動物や自然ヘの愛、「太陽の賛歌」のもつ真理契機や、詩人リルケが道端の小石のように人間は謙遜で、ただそこにあるということに満足しなければならないと言ったことに表現されているような、人間のもつ物との連帯性がある。

 しかし、自然ヘの愛や物との連帯性は、人間が精神でもあること、ニーバーが言ったように人間は有限の自由をもつ存在であるということを忘れさせてはならないのである。そして聖書は我々に、人問が精神(霊)や魂や身体をもつ一つの全体として神によって造られたこと、それがそういうものとして良きものであることを語っているのである。我々は既に、人間が愛を指向する精神(有限の自由)であることこそ、人間における神の像の意味であることを見てきたのであるが、ここにこそ人間が創造の冠と言われる理由がある。シュヴァイツァーの「生ヘの畏敬」の思想は多くの真理を含むのであるが、それが人間の命の価値と、他の命あるものとの価値との区別を考えていないところは誤りであると言わざるを得ない。(11) 基本的に言って、価値においてこの地上では人間の命が他のものに優先することを聖書にならって明白に言わない限り、我々の世俗性は人間のためであることを止めて行くであろう。

 創世記の物語には男女の創造のあと、人間ヘの神の祝福が書かれている。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(1:28)。すなわち、神は人間に披造の世界を管理し治めるように、そこに喜びを人間が見出すようにされたのである。もちろん・その管理は絶対的なものではない。神が最終的には世界を治めておられるのであるから。しかし、この管理は人間が神から委託された相対的なものではあっても、人間はそこで自分の有限の自由を行使しながら、自分の責任で世界を治めて行かなければならない。

 ナチスの手によって処刑され、キリスト者として殉教した神学者ディートリッヒ・ボンヘファー(Dietrich Bonhoefer)が獄中から友人たちにおくった手紙は、沢山の新しい神学的洞察を含んでいるので有名であるが、1944年7月16日の手紙には次の我々の心につきまとうような言葉が見られる。

 我々が成人したという状況は、神に面と向かっての我々の姿を真に認識させるものである。神なしに結構うまくやっていける人間たちとして我々が生きねばならたいことを、神は我々に教えておられるのである。我々と共におられる神は、我々を棄てる神である(マルコ15:34)。役立つ仮設として神を用いることなしにこの世に我々を生きさせるところの神こそ、我々がその前にいつも立っているところの神である。神の前に、そして、神とともに我々は神なしで生きる。神はご自分がこの世からだんだんと追い出されて、十字架にかけられてしまうのをお許しになるのである。神はこの世においては、弱く力なき方である。そして、そういう仕方においてだけ実は、神は我々ともにあることができ、我々を助けることができるのである。

 残念ながらボンヘファーは、これらの神学的洞察を十分に発展させるだけの時間を持っていなかった。したがって実のところ、我々はこの手紙の言葉が具体的に何を意味していたのか、正確には知ることができない。しかしながら、ポンヘファーのこの思想をフリードリッヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)が発展させた方向に解釈することが、その意図に忠実なものであろうと思われる。(12)

ボンへファーの言う成人した世界(die mundige Welt)――上掲の手紙の中の、我々が成人したという状況に当たる――とは、神が人間に委託されて、この世界をその有限の自由によって治めるように管理させるということを指すものである。すなわち、人問は過去の文化的に幼き時期においては、この世でどのような仕方で個人生活や社会生活をいとなまねばならないかを、神から教えられて生活した。このように、生きるための役立つ仮設として、人間は神を用いた。個人の倫理生活のみならず、政治や経済の間題の処理までも、神から啓示された律法への服従という形でなされたのである。ところが現代人は、こういう幼き時期を通過してしまったのであって、文化的に成人したのであり、もはや政治の実践のあり方、経済問題の解決、烈しく移り行く社会生活の中で個人の倫理はどうあるべきかを、いきなり神からの啓示によって解決しようとは思わない。現代人はそれらを、自分たちの自由の責任において理性的に解決して行く。こういう間題の処理においては、我々ほポンヘファーの言うように、「神なしに結構うまくやっていける」のであり、「神なしで生きることができる」のでなければならない。そして、このことが「神の前に、そして、神とともに」なされなければならないのである。換言すれば、我々がこの世のこういう問題の処理において、ひとり立ちできる成人になるようにと、神ほ「我々を棄てる」のである。この意味で、「神はご自分がこの世からだんだん追い出されて、十字架にかけられてしまうのをお許しになる」。人間を成人させて、ひとり立ちのできる存在に変えて行くことこそ、十字架のキリストに表現されている神の愛なのであり、したがってその愛は、人間が文化的に幼き時期にご自分を示したあの仕方・すなわち、・政治・経済・社会・個人の諸問題に力づくで介入するというような仕方では、現代においてはご自分を示さない。神は「弱き力なき」仕方で、人間を説得することによってご自分に引き付けられる。

 ボンヘファーは、人間の歴史的に幼き時期に、神がカづくで人間の生活の中に介入されたことこそ、宗教の本質をなすものであると考え、そういうように宗教的に見られた世界を、成人した世界に住む現代人は非宗救化しなければならないとする。キリスト教の福音は宗救ではないからである。

 ボンへファーの思索の跡をこのように辿ってくると、我々は既に検討してきた事柄と全く軌を一にすることを知る。ボンフェファーの言う成人した世界とは、世俗性に徹した人間の生き方を意味するものであり、神の前に神なしで生きるとは、来世と現世との次元的区別の承認である。また、弱き力なき神こそ我々とともにあることができ、我々を助けることができると言うのは、神の愛の自由が人間の有限の自由を逆説的に捕えるということ以外の何ものでもない。すなわち、神の全能を愛の全能として理解する方向なのである。

 人間に委託された世界管理を真剣に考えるならぱ、この世での神と共なる生活は、何よりもまず愛を基礎とした人間の主体性の確立に向かうものでなければならない。すなわち、キリスト者の聖化とは、まさにそういう事態を言うものなのである。

 ゴーガルテンによれば、ボンへファーに見られる成人した世界の思想の萌芽は、既に次のようなパウロの言葉の中に見られるのである。(13) 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれぱ、相読人でもある。神の相続人であってて、キリストと栄光を共にするために苦難を共にしている以上、キリストと共同の相統人なのである」(ローマ8:14-17)。

キリスト教が入り込んできた世界は、地中海沿岸の文化的世界、グレコ・ローマンの世界であったが、パウロはこの世界に住む人々の精神性の特敏をここで恐れをいだかせる奴隷の霊と表現している。その恐れはどこから来たかと言うと、聖書の中にも書かれている「空中の権をもつ君」(エペソ2:2)によっても表現されているような、人間の生活にいつどのような仕方で介入してくるか分からない、気持ちの悪い・脅かす諸勢力ヘの顧慮からであった。当時広く行きわたっていたところの、こういう諸勢力ヘの恐れ、それヘの奴隷状態から人間を解放できたところに、キリスト教の勝利の大きな要因が見られたのであるが、それはキリスト教が、創造者なる神、これらの諸勢力よりも偉大なる神が、キリストにおいてこれらの勢力に勝たれ、これらを征服されたのであり、キリストを通して神の御霊を授けられたキリスト者は、神の子たる身分を授ける霊を与えられたのである、と告げたからであった。キリストを長子とする神の子たちの中に数えられる以上は、キリスト者はキリストと共同の相続人となったのであり、神から相続財産を与えられたのである。

 ところで、コーガルテンは、この相続財産こそ、創世記の創造物語において神が人間に与えられた祝福、神の委託による世界管理であるとするのであるが、これはバウロの思想の解釈として正しいものであろう。

 この世界をどう管理すべきかについては、人間は自分の理性能力を用いつつ、また、創意工夫をこらしながら、自分の力に信頼して行なえばよいのであって、神にそうすることを委せられているのであり、この世以上の不合理の諸力を恐れる必要はない。そういう世界管理の合理性こそ、福音の中に萌芽として存在していたものであり、それが西欧の歴史の中で徐々に芽を出し成長開花し結実したものが、ボンへファーの言う成人した世界なのである、とゴーガルテンは主張する。

 ところで、念のためにもう一度ここで我々は、こういう成人した世界が世俗主義ではないことを断わっておいた方がよいかもしれない。世俗主義は罪深き人間の倣慢、神よりも自己を高く置くところから生まれる。人間の世界管理は絶対的なものではなく委託されたものである。世界を絶対的に支配するのは神のみである。被造者である人間は、愛に向かって神により造られているという自分の制限を無視する時に、自分の人間らしさも文化の人間らしさも根底から崩壊するものなのである。こういう立場から、我々はいつの時代においてもそうであるが、今日の文化に対しても強い警告を発して行かなければならない。真の世俗性を守るために、世俗主義と戦わなければならない。


3 律法

 人間における神の像が、キリストによって啓示されたような愛を我々が神に向かいもつことである――したがってそれを土台としてその愛を隣人に対してもつことでもあるが――と理解してきた我々にとっては、律法とはこのような愛以外の何ものでもないであろう。何故ならば、律法とは人間がそれを土台として生きなければならない神の意志の表現なのであり、キリスト教はそういう人間の生の土台が、キリストによって啓示された神の愛であると告げるからである。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)とイエスが言われる時に、その完全は、罪人であり神の敵であった我々を神がキリストを通して愛して下さっているように、我々もそういう愛で我々の敵さえも愛さなければならないというものなのである(5:38-48)。人間が神の像にかたどって造られているということは、人間が神に向かっての愛の完全ヘの道をひたすらに歩みつづけなければ、深く人間らしく生きられないという宿命を背負っていることである、と言っても良いであろう。

 キリストは、旧約聖書のモーセの十戒と言われているものを、神を愛することと隣人を愛することとの二つの戒めにまとめられた。「イエスは言われた、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37-40)。ここで我々は、イエスが権威をもって旧約聖書の律法を、愛というその深みからもう一度表現し直しているのを見る。

 イエスの律法に対する態度をもっと明確にするために、我々はルターが律法について示している二重の理解を参考にすることができう。(14) ルターによれば、神の律法は元来隠されているものであり、人間の心の奥底に存在する。ところが、人間の心の奥底に存在するその律法か、いろいろな時代や民族的・国家的事情に応じて、違った形をもって歴史の中に表現されたのである。モーセの律法も、モーセの時代のイスラエル民族の社会を維持保存するのに役立ったものではあるが、それはいつの時代、どこにおいても役立ち、守られねばならないものであるとすることはできない。そして、人間の心の奥底にあるもの、人問がそれを土台として生きた時にのみ十分に人間らしく生きられるもの、すなわち、愛をあきらかにしてくれたものこそ福音なのであるから、そういう意昧では福音は律法なのである。

 そうすると我々はここで、律法と律法主義とを区別しておいた方がよいであろう。律法主義とは、ある時に・あるところで役立ち守られねばならなかった具体的な律法を、絶対的なもの、永遠不変のものとして、いつの時代でもどこにでも通用し、守られわばならないものとすることである。ところで、イエスとパリサイ人との抗争は、後者の律法主義に対するイエスの抵抗が原因であった。抗争の論点は、例えば安息日に関するイエスの態度に明白である。パリサイ人にとっては、昔からの伝承に従って、安息日にしてはならないことが規定されてあったのであるが、イエスにとってはそういう規定を遵守することよりも、その時の人間らしい具体的な欲求を満たすこと、例えば飢えを満たすことの方が優先したのである。イエスにとっては、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)。人問を人間らしく生かすことよりも重要な律法など、存在しないのである。

 律法とはこのように、人間が深く人間らしくあるために、人間を心の奥底から制約しているものなのであるから、それは愛を実践しない罪深い人間の現実とは衝突し、それを審くものであるが、本来そうあるベき人間の姿、人間の宿命とは矛盾するものではない。否、それを成就するものである。パウル・ティリヒの用語を使うならぱ、律法は人間にとって神律的である。

 テリッヒは他律・自律・神律を区別する。(15) 他律とは、人間が自由――べルジャエフの言う第一の自由――に、自分の本性にかなうものを選んで行こうとする主体性に衝突するような仕方で、ある一定の生き方を押し付けられるような事情を言う。自律とは、人間が自由に自分の生き方を選ぶような事情であり、神律とは、この自律が深められたもの、人問存在の奥底に横たわる神の愛の律法によって支えられているような自律である。へルジャエフの表現を借用するならぱ、神律とは、第一の自由によって第二の自由を獲得する生き方に到達し、少なくともその生き方の指向する道を歩み始めている人間のあり方である。

 律法を神律として理解しなかったところに、近代精神の一つの悲劇があったように思われる。ニーチェが神の死を、人間に対する喜びのおとずれとして告げたこと、また、文学者アルベル・カミュが我々に神殺しをすすめていることなどを見れば、この悲劇が理解されよう。(10) 彼らが唱えているのは、思弁的に神が存在するかどうかを考察したところからきた過去の哲学的無神論ではない。神に死んでもらわなければ、あるいは、神殺しという大罪を犯さなければ、人間が人間らしく生きられないという、実存的な殺神論なのである。すなわち、神に服従しようとすれば人間性を殺さなければならず、人間性を生かそうとすれば、神殺しを行なわねばならない。そして、神殺しを行なっても人間は自分の生をいかし抜くことに誠実であろうとする。そこに我々はルネサンス以来の自律の人間像の確立とともに生起した近代人の悲劇を見る。

 人聞による神の意志への服従が人間性の充実と相反するものと考えられているのは、そこでは神の意志たる律法が他律として把握されているからにすぎない。我々はニーチェやカミュなどに、印象として他律としての神しか与えることのできなかったキリスト教の貢任を問わない訳にはいかないが、同時に、彼らのキリスト教理解の浅薄さにも驚かざるを得ない。神律として神の律法を理解するならば、こういう悲劇の大半は避けられたのではないであろうか。特にボンヘッファーやゴーガルテンによって展開された成人した世界の思想を検討してきた我々にとっては、神の律法は現代人にとって、愛を土台とした主体性の確立、神によって委託されたところの世界管理を十分に果たすところにあることは明瞭であり、それは人間性の充実以外の何ものでもない。

 我々はここで、律法の理解と切関連で、アンダース・ニグレンがその有名な書物によって提出した愛の区別を問題にしなけれぱならないであろう。周知のようにニダレソはこの区別を二つの愛を意昧するギリシァ語、アガペーとエロースを使用することによってなした。新約聖書においては、「神は愛(アガペー)である」(第一ヨハネ3:16)という言葉に明らかであるように、アガペーは人間の愛の体験から理解されるものではない。それは神の側から啓示されてはじめて、人間が理解し得るものであり、具体的にその独り子キリストを与えることを通して、神が我々に示されたものなのである(ヨハネ3:16)。パウロの表現によれば、「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ5:8)のであり、アガペーは十字架の愛を意昧した。それは人間の罪を赦す神の愛であり、キリストにおいて至高の神が人間の罪の泥濘の深みまで下ったことを意昧する。それは上から下ヘの愛であり、価値なきもの・失われたるものを探し求める愛である(ルカ15章)。

これと正反対の事態を意味したものが、ニグレンによればエロースというギリシア語によって表現された愛であった。それはギリシアやへレニズムの文化の中で、愛が何を意味したかを表現する言葉であったが、ニグレンはその典型的な表現がプラトンの哲学の中に見られるとなした。普通プラトン哲学は、二元論的世界観をその背景にもつと言われている。それらは我々の感覚にうったえてくる現実のこの世界と、その上に存在する観念の世界である。人間の魂はかつてこの観念の世界の住民であったが、今はこの感覚の世界、身体の牢獄の中につながれている。しかし人間の魂は、かって住んでいた観念の世界を完全には忘れ去ることができず、それを記億の中に保存しているがゆえに、みにくいこの世界の中に住みつつ不幸であり、かって観念の世界で知った真.善.美ヘとあこがれる。このあこがれ、価値あるものへの欲求、より高いものヘの愛こそ、プラトン的なエロースの特質である。それは下から上ヘの上昇を目指す愛、貧しい自己を豊かにしようとする欲求である。

 以上のようにニグレンは、アガペーとエロースとを相互に正反対のものとして対立させる。アガペーは、新約聖書の神の愛に見られるように、自己放葉的であり無私である。それに反してエロースは、プラトン的エートスのようにそれが必ずしも官能的なものを意昧しない時であっても、価値あるものを追求することによって自己を豊かにしようとするものであり、自己中心的である。そして、ニグレンはキリスト教が、自己中心的生活よりも自己放棄の生活を説くことによって、グレコ・ローマンの世界に生き方の大転換をもたらしたとする。

 アガペーとエロースとの区別を通して、ニグレンが愛のもつ二つの性格を明らかにしてくれたことは、彼の大きな貢献であった。しかし我々は、アガペーとエロースが全く相反するものであるとニグレンが主張する時、それに同調できない。イエスによって、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)――と言われており、その神ヘの愛こそ我々の生の土台であって、この基礎の上でだけ我々の生が十分に開花することを知っている我々は、神の愛のような自己放棄の愛、無私の愛の実践が、実は逆説的であるけれども、自分を豊かにし、自分の宿命を成就するエロース的出来事であることを知っている。

 イエスの放蕩息子の譬話を読んでも(ルカ15五章)分けてもらった身代を放蕩に身を持ちくすして使い果たした男が、父のところに帰り温かく迎えられるということ、人生という旅が結局のところ行きつく場所は故郷であり父の家であるということ、本来の自分に戻るということであると告げられている。それは自分を豊かにしてとり戻すエロース的出来事なのである。

 新約聖書においては、通常兄弟愛を意味するフィリアも使われているが、エロースという言葉は使われていな
い。それは多分、グレコ・ローマンの世界において、感覚的な生き方や頻廃を意昧していたからであろう。したがって、イエスが使われていないからと言って、新約聖書においては高貴なエロースさえも棄てられているとするのは早計であろう。

 旧約聖書の律法を二つの戒めにイエスがまとめられたその第二のものは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)であったが、ここでの愛はもちろんアガぺーである。ところで、「自分を愛するように」というのがしばしぱ問題にされてきた。表面的に考察された場合、このイエスの言棄は自己中心的な愛を許容するかのように見えるからである。それでは困るので、このイエスの言葉を、我々自己中心的な罪人が、罪深くも自分を愛するその強さと同じような強さで、また、執拗さで神を愛さねばならないという意昧に説明することがなされてきた。しかし、我々が考えてきたように、アガべーとエロースの逆説的統一を理解するならば、
別にそういう解釈をとる必要もない。隣人を愛すること(アガペー)を通して、神から与えられたものとしての自分の宿命を成就して行く(エロース)ように、隣人ヘの愛もその人の宿命を成就して行く――もちろんその人の神律においてであるが――ようなものでなければならないのである。

 我々はここで、人間の宿命成就(エロース)が、他者のためにある場合には命さえ棄てて行くアガペーと、ぎりぎり一杯逆説的なものであることを忘れてはならないであろう。心理学者のエーリッヒ・フロムがあるところろで(18) 書いているが、自愛と利己主義とは区別されるべきであり、自愛を土台としない他者への愛はほんとうの愛ではなく、自分が不幸であることの代償を他から求めるにすぎない。自愛と他者への愛は矛盾しないのであり、そういう他者ヘの愛こそ心理的に健康なものであり得る。こういうフロムの考え方では自愛が実存的な宿命成就というような深みで把握されず、それよりも浅いところで心理的にとらえられてしまい、うっかりすると人間がある程度の自分の欲望を満たしたら幸福になり、それ以上の幸福は自然に他者ヘ向かって流れ出るであろうというようなことになりかねず、人間の自由のもつ問題性が無視されている。人聞の欲望は自由に無限に拡大し得るものであり、これで十分に満足したというような限界はない。自分の幸福が他者に向かって益れ出るのを持っていたら、永遠にわたって待っことになるであろう。アガペーを実践するところでなければ、宿命成就の喜びはあり得ない。そういうところに、人間の罪の現実の深刻さがある。


4 罪

 パウロは「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」(ローマ2:14-15)と言っているが、こういう聖書の箇所が基礎になって、良心とは神の声を記録する人間の器官、人間が生まれつきもっている神の律法の声の代弁者、というようにキリスト教神学においては伝統的に考えられてきた。ところがその同じパウロが、神の律法や声というよりもその当時一般的であった倫理観、やがては過ぎ去り行く慣習の反映にすぎない「弱い良心」について語っている(第一コリント8:7-13)。すなわち、良心は必ずしも神の律法の反映や声であるとは隈らないのであり、罪深い償習をいつのまにか我々が吸収し、それが我々の良心となっていることがあり得るのである。したがって良心の間題は、律法と罪との両方にわたるもの、両者の境界にあるものである。

 ネルス・フェレーは、人間生活における良心と神の像との衝突について語っている(19)。神の像とはフェレーにとっても我々が考えてきたものと同じように、人間が本来的な自己を実現するために、その中に生きなければならない愛のことであるが、フェレーにとっての良心とは、社会の慣習に適応した行動をとることを我々に要求する内なる声である。ところが、現状への黙従こそそ罪ではないのか。神の像よりも良心をえらぶことは罪なのである。罪深き杜会への適応は、神ヘの適応とは反対のものなのであるから。

 要する良心と言っても、いろいろな角度で考えられた良心があるのである。人間が他者との共存によって生きている社会的存在である以上、社会生活の規約である倫理がなければならない。そして人間は、自分たちの長い期間にわたる歴史の体験に基づいて、どうしたら皆の人間が一番人間らしく生きられるかについての知恵を集積する。それが倫理なのであるが、移り変わり行く時代の流れに立って、一体現在行なわれている倫理が、ほんとうに人間を人間らしく生かしているかどうかの反省が常になされなサればならない。そのためには、現在の倫理に支配されている良心ではなく、倫理を神の像から創作し続ける良心、ティリッヒの言葉を借用するならば、超倫理的良心(transmoral conscience)が必要なのである(20)。これを我々が既に論じてきた事柄との関連で言えば、倫理を徹底的に世俗的なものと考え、委託された世界管理に属する事柄とみなして、人間が理性的に考え抜いて創作して行かなければならないものと認めることである。

 更にティリッヒは超倫理的良心と心という観念の中にルターの洞察にならって、慰める良心、愛の苦闘に破れ罪責感に悩む鋭敏な心に、罪の赦しを語り慰めを与える良心という意昧も含めている。罪を弾劾し我々を非難する悪魔的な律法主義的な良心ではなく、キリスト教の福音は、この慰める良心について語らなければならないのである。

 ところで以上の論述から、我々が罪を律法主義的に考えていないことは明らかであろう。罪とは神の愛ヘの裏切り、人間における神の像ヘの背反、敵さえも愛せよ(マタイ5:44)と言われたイエスの隣人愛の教えヘの不従順なのである。要するに、それは愛への違反であると言えるが、その愛は神の愛を土台とするものであって、ヒューマニズムの愛ではない。罪は徹底的に信仰の事柄として把握されているのであり、ヒューマニズムヘの違反というような倫理的なものではない。

 イエスにとって罪とは、父なる神に対して人間が子としての愛を捧げないことであり、また、父なる神の愛のもとに、あらゆる人間は兄弟たちであるのに、その兄弟に対して愛をもたないことである(ルカ15:11-32, 10:25-37)。そして、神を父とせず、したがって周囲の人々に対して兄弟愛をもたないものとイエスが判断された、律法学者やパリサイ人に対するイエスの非鍵は激しい(マタイ23章)。

 愛に対する違反としての罪は人間の意志によるものであることもちろんであるが、イエスによればその罪の根とも言うべきものは、人間の意志の根底にあるところの心の中にある。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)。「ロにはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(15:11)。

 使徒たちにおいても、罪が意志的なものであり心の中から出てくるものであることは変わりがない。そのことは、例えばパウロがあげている罪の一覧表とでも言うべきもの(ローマ1:29-31)を見れば一目瞭然である。

 ところで、罪は個々の意志的な行為であるが、既に見てきたようにそういう行為は人間の罪深い心から来ているのであり、しかも、聖書においては個人が罪人であるということぱかりではなく、人頚全体が罪深きものであるとされている。そのことから教理史上、原罪説と呼ばれるものが生まれてきたのである。

 原罪説はテルトリアーヌスやアウグスチヌスたちを通して形成されてきたものであるが、その聖書的根拠としてよくあげられたのはローマ人ヘの手紙5章12―21節、および、創世記第3章などであった。人類の始祖アダムが、神によって食べてはならないと命じられたエデンの園の中央の木の実を、その命令に違反して食べて罪を最初に犯したのであるが、そのアダムの堕罪が原因となり、人類全体が生まれながら罪人となるに至った、と原罪説は主張した。それはあらゆる人間が、少しも具体的な罪を犯さない時でも、赤児であっても、生まれながらにして罪ヘの傾向をもっていると主張し、その罪への傾向が世々代々伝えられるのは、性の行為を通して遺伝的になされるものであり、また、アダムの罪の結果、神の怒りは罪人なる全人類におよぴ、刑罰として死が全ての人を支配するようになったとなした。

 我々は今、詳しい聖書釈義の間題に立ち入る余裕をもたないのであるが、創世記の第3章において、アダムの堕罪が原因となり後世の人々が生まれつき罪人になったというような思想は見出されないし、まして遺伝的にそうなるというような主張は発見できない。バウロの思想にしても、罪と死とがひとりの人(アダム)によってこの世に入りこんできたこと、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいりこんだ(ローマ5:12)ことは言っているが、それが罪性の遺伝によるとは言っていない。

 罪性が性の行為を通して遺伝するというアウグスチヌスなどに見られる原罪説は、人間の性が何か悪いものであるという考え――人間の身体は神によって造られたよいものであるという聖書的真理に反対の考え――を土台にしているものであり、中世紀の修道院的倫理と直結するものであるから、我々はこういう原罪説を採用する訳には行かない。それに、アダムという始祖の堕罪が原因となって、我々が今日罪人であるという結果が起こっていると言うのでは、そこでは罪が、自然科学的な原因―結果の次元で取り扱われており、人間の自由の責任として真剣に考えられていない。私の罪の原因がアダムにあるならば、責任をとるべきなのは私ではなくアダムでなけれぱならない。

 こういう原罪論は、原罪を人間の自由とは無関係な運命論としてしまう結果になる。しかし、それは人間の自由を通して、しかもその自由を土台から束縛する宿命論的現実なのである。原罪の原を、原因―結果の連鎖の最初のものとして理解するのでなく、自由の根原、自由の深みとして把握すべきであろう。

 我々は原罪の宿命論的現実を、ガブリエル・マルセルの問題と神秘との区別を使用して理解してもよいであろう(21)。マルセルによれば問題とは人間がそれから離れて立って、それを理性的・客観的に処理しなければならないもの――我々の論じてきた成人した世界という立場から言うなら、マルセルの問題とは委託された管理の対象になるようなもののことであろう――であるが、それに対して、神秘とは人間がその中に含まれてしまっているもの、人間であることの目覚めをもった時には既にそれによって把握されてしまっていたようなもなのである。問題に対する場合には、人間は自分の全存在をそれとの関係の中に投入していないのであるが、神秘との関係ではいやおうなしに、人間の全存在が投入されてしまっている。

 罪は問題ではないから、その起源についての説明は不可能である。原因―結果の次元で説明し得るものは、また我々の管理能力によって、少なくとも原理的には処理可能なものである。ところが罪は、それによって我々の全存在が把握されてしまっているので、説明不可能な人間の自由の神秘なのである。

 罪との関連で、我々は死をとりあげなけれ.はならないのであろう。新約聖書においては、死はしばしぱ罪と結び付けられている、しかし、死が身体の死を意味しているのか、霊的な死、すなわち、人間が命の源である神から離れてしまっているので身体は生きていても、霊的な人問らしさは失われてしまっているという事情を意味しているのか、しばしば不明瞭である。こういう事情と対応して、永遠の命についても新約聖書は二重の意味合いを含めて発言している。例えば、ヨハネによる福音書の著者にとって、永遠の命はイエスと同じように、死後父なる神のみもとに行くことであるが(ヨハネ14:1-4)、しかしそれは、この地上の生においても味わい得るものである。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(17:3)という言葉がイエスの祈りの言葉として記されている。

 パウロが「罪によって死がはいってきた」(ローマ5:12)と言う時、身体の死を考えていたことは疑いのないところであるが、信者はキリスト・イエスの死にあずかるバプテスマを受け、彼と共に葬られた者、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを言う時には(6:1-14)、罪によごれたみじめな死のからだ(7:24)に死ぬことを言っているのであり、生物学的には生きていても霊的には死んでいる人間存在を考えて、その死に対して死ななければならないことを言っているのである。

 個々人の罪が原因となって、ましてアダムの罪が原因となって、人間に生物学的な意昧での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。生まれた以上死ぬのは人問の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の出来事の前であろうが後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。アダムが罪を犯さなくても、生物学的必然によって死んだであろうとすることは、その死の後でも神の力でアダムが永遠の命を与えられたであろうとすることと矛盾しない。ところが、罪によって神から離れてしまえば、永遠の命のどんな可能性も失われるのであり、罪こそ死なのである・キリストによって神から罪赦されることを信じる我々の慰めは、この罪さえも神から我々を引き離すものではないというところにある。

 さて、原因―結果の次元でその原因を説明することができないものとして、自由を包む神秘として実存的に罪を考える場合であっても、普遍的にすべての人々が、しかも個々にどういう経過を辿って罪を犯すのかを分析的に理解することはできるであろう。この点で、キェルケゴールとラインホルド・ニーバーの理解が我々を助けてくれる。

 キルケゴールによれば(22)、罪は人間の不安にその源をもつ。人間は自分の自由の貴任において、まだどういうことになるか分らない未来に対処して行かなければならないがゆえに、不安なのである。したがって、不安そのものは、人聞の自由に当然伴うものであるから罪ではないが、しかし、それは原罪の根である。人間にとって未来は、自分がそこで人問らしく生きて行かれるのか、それともそそこで虚無の中に転落してしまうのか分からないものをあらわし、そして人間は虚無に対しては嫌悪を抱く。ところがその嫌悪や僧悪が逆にそのままで人間にとって恐ろしい魅力になり、人間は自ら虚無の中におち込んで行き罪を犯す。このように、虚無ヘの転落の魅力を内に湛えた不安が、ほとんど必然的な力としか言い表わし得ないような仕方で、すべての人を(普遍的に)とらえてしまうことが、キェルケゴールにとってて原罪なのであり、もちろんキェルケゴールはアダムの罪が遺伝するなどとは考えなかった。むしろアダムは人類の代表なのであり、我々は彼と同じような仕方で堕罪するのである。

 しかしながら、代表としてのアダムは、我々と全く同じなのではない。と言うのは、神話的表現を借用すれば堕罪の前のアダムの不安、この善と悪とが区別されていない不安は、我々の体験にはならない。その堕罪の後の不安は、我々の体験する不安と同じであり、善・悪の知識の下における不安、過去の罪の状態から将来ヘ決断する時の不安、更に色濃くなって行く罪の状態ヘ転落するのではないかとの不安である。それに我々の場合にはアダムと違い、世々の人々の体験した不安の記憶の堆積によって、体験する不安はより強烈にされているのである。

 以上で明らかなように、キェルケゴールは虚無ヘの不安のもつ魅力によって、我々が虚無に引きずり込まれて
行くという事情を虚無の側について語ったのであるが、どうして我々が虚無に魅力を感じるのかというこちら側の事情については、ニーバーの不安の分折の方がすぐれている。

 ニーバーによれば人間が罪を犯すのは、不安の中での安全ヘの欲求から来る。前述したようにニーバーは人間を有限の自由をもつ存在と理解している。生きて行くに当たりいろいろな条件によって人間は限定されつつも、自由によりその条件の中で新しい歴史を創作して行く。その時、将来がどういうものを自分にもたらすか、また自分の決断してなすことが果たして将来のもたらすものを十分に生かし、将来を人間の生きるよりよき場になし得るのか、人間は不安なのである。その不安を逃れるために、人間は傲慢にも自分を神的な存在のように空想してみたり、または、感覚的なものや物質的なものの中に自分を埋没させる。そのようにして安全感を獲得したいからなのである。前者は、人間が神になろうとする精神的な罪であり、後者は官能的な罪である。

 キェルケゴールやニーバーによる不安と罪との関係についての洞察は、生物学的な死との関連でも我々が考えなければならない事柄であろう。死が一体何を我々にもたらすのか、誰も確実に知っている訳ではないから、それは不安を我々に与えるのであり、そのため死は我々が罪を犯すきっかけとなり得るし、いつ死ぬか分らないこの不安な人生を、できる限り自分中心に、他を犠牲にしても自分だけ豊かに生きたいし、しかも、早急にあらゆる楽しみを自分のものにしたいとのあせりを生み得る。こういう恐れやあせりは、死さえも我々にとって良いように利用する力をもっている神ヘの信仰のみが解決してくれるものであろう。

 死はこの世の生の敵であるが、その敵さえも我々は愛さなければならないのである。「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向うな。もし、だれかがあなたの右の頬を打っなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)や「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(5:44)というイエスの教えは、死に向かっても実行されなければならない。そうしたからと言って、死が不条理な敵であることを止める訳ではない。相変わらず敵であるけれども、そのままで我々の善のために神が利用されることを信じて死を愛するのである。その時「死は勝利にのまれ」(第一コリント15:55)るのである。その時でも死は人生のはかなさを相変わらず示すけれども、そのはかなさは快楽をむさぼろうとのあせりや虚無ヘの恐怖ヘ導かずに、一日一日、刻一刻の尊さの体験、一時でも生かされていることのありがたさの実惑を与えるであろう。

 罪とは神への愛、人ヘの愛に対する違反であったが、愛することはいつも不安なのである。愛することは、それが精神的なものであれ物質的なものであれ、自分のもてるものを隣人のために捧げることを意味する。それをすることが、自分の生の安全を脅かすものと感じられ、人間は逆に、他者からそういうものを集めようとする。パウロによれば、イエスは「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリビ2:8)のであるが、このイエスに従い、イエスとともに自分を十字架にかけても、神が自分を支えて下さり、そこでこそ自分の生を真に豊かにし(復活の命を歩ませ)て下さるという信仰があって始めて、人間はほんとうに隣人を愛し得るのである。逆に、そういう愛の行為が自分を豊かにしてくれるという体験の中でこそ、真の神ヘの信仰がはぐくまれるのでもある。


<参考文献>

Niebuhr, Reinhold, The Nature and Destiny of Man, New York, Charles Scribner's Sons, 1949.
Goagarten, Friedrich, Der Mensh zuwishen Gott und Welt, Stutgart, Friedrich Vorwrek Verlag, 1956.
カール・マイケルソン『危機に生きる信仰』(荒井・野呂訳、東京、新教出版社、昭和34年)


<注>

(1) Bainton, Roland H., Sex, Love and Marriage, Fontana Books, Glasgow, Collins, 1958 pp.108ff.
(2) Buber, Martin, Ich und Du, Leipzig, Insel Verlag, 1923.
(3) Niebuhr, Reinhold, The Nature and Destiny of Man, New York, Charles Scribner's Sons, 1949, part?, pp.150 ff.
(4) Berdyaev, Nicholas, Dostoevsky, trans. by D. Attwater, Living Age Books, New York, Meridian Books, 1957, pp.68 ff.
(5) Barth, Karl, Nein! München, Chr. Kaiser Verlag, 1934; Brunner, Emil, Natur und Grande, Tübingen, J.C.B.Mohr, 1934.
(6) Brunner, Emil, Der Mensch im Widerspruch, Zürich, Züingli-Verlag, 1941, S.71 ff.
(7) Brunner, Emil, Der christliche Lehre von Gott, (Dogmatik ?), Zürich, Zwingli-Verlag, 1946, S.367-368.
(8) Brunner, Emile, Die krichliche Dogmatik, ?/1, S.186-187; ――,The Knowledge of God and the Service of God, London, Hodder & stoughton, 1949, p.78.
(9) 拙著『実存論的神学』(東京、創文社、昭和39年)、40頁以下参照。
(10) 同上書、第8章「死後の命」参照。
(11) 拙著「シュヴァイツァーの『生への畏敬』」(青山学院大学キリスト教学会刊『キリスト教論集』、第14号号所載)を参照のこと。
(12) 拙著『実存論的神学』68頁以下、および Gogarten, Friedrich, Der Mench zwishen Gott und Welt, Stuttgart, Friedrich Vorwerk Verlag, 1956 参照。
(13) Gogarten, op.cit., S.142-143.
(14) 私はここでゴーガルテンのルター解釈に従った。拙著『実存論的神学』18頁以下参照。
(15) Tillich, Paul, The Protestant Era, trans. by J. L. Adams, Chicago, The Universitiy of Chicago Press, 1948, pp.42ff.
(16) 拙著『神の死と人間』(東京、理想社、雑誌『理想』、1968年3月号所載)参照。
(17) Nygren, Anders, Agape and Eros, Part?, Part ?(2 vols.), London, S.P.C.K., 1932, 1938 & 1939.
(18) エーリッヒ・フロム『人間における自由』(東京、創元新社、昭和30年)、148頁以下。
(19) Ferré, Nels F.S., Know Your Faith, New York, Harper & Brothers, 1959, pp.76ff.
(20) Tillich, Paul, Morality and Beyond, New York , Harper & Row, 1963, pp.77ff.
(21) Marcel, Gabriel, Man against Mass Society, Chicago, Henry Regnery Co. 1952, pp.67 ff.
(22) 拙著『実存論的神学』、187頁以下参照。


入力: 岩田成就
2002.8.9






初出:『教義学講座?』日本基督教団出版局, 1970年, 205-344頁


1 被造者としての人間
2 人間に委託された世界管理
3 律法
4 罪
参考文献・注





入力: 岩田成就
2002.8.9